2006年06月04日

〈屁〉談義はいと滑らかに流れる〜

 〈屁〉談義はいつでも面白オカシイものであるが、なぜにこうも滑らかに流れるのであろうか。屁のうんちくは興味をそそり、屁にかこつけたとんでもない議論が笑われ、語呂合わせや駄洒落も際限がない。かくして〈屁〉を語る人種は多いわけだね。(音成は普段は〈屁〉については一切口にできない環境にあるんだけどさ...笑)

 内田百間の『居候匆々』(1937年)はそういう他愛もない〈屁〉談義を展開している。この小説は別に〈屁〉をテーマにしているわけではないのだが、話のついでに出てきたという感じで〈屁〉が取り上げられているわけさ。

 万成青年(学生)が居候しているネコラツ(吉井)先生の家に、オットセイ(三門)先生が招かれて宴もたけなわのところで、酔ったオットセイ先生が〈屁〉談義を一席打つ場面から紹介しよう。


「(万成青年に向かって)『おい、フルツは知ってるね』
 『知りません』
 『何、忘れたのか、仕様がないね。ご婦人の前で失礼だから、独逸(ドイツ)語を用いようと思ったが、知らないなら仕方がないから、原語で行く事にしよう。フルツは屁だよ』
 『あはは屁の方が原語ですか』とネコラツ先生は面白がった」


「『フルツの要素は何ですか、三門さん』
 『屁の成分はヘノールPhenol、スカトールSkatol、キノールQuinol、インドールIndol、アンモニア、硫化水素、揮発性有機酸類』
 『こりゃ驚きましたね』
 『その仕舞いの方の奴が、ネオンサインの中で輝いているんじゃないか、おい万成博士、それを慕って君達はほっつき廻るのだろう』
 『まあ、先生はいろんな事に、おくわしくて入らっしゃいますわね』
 『そりゃ奥さん、僕はこれでも、東京ヘー国大学ブー学部で学理の蘊奥(うんおう)を極めましたからね』
 『あら、それでどう云う事を御研究になりましたのでしょう』
 『僕ですか、僕の研究題目は、ヘストリー・オブ・オナラジーHistory of Onalagy、ヘストリア・ヘノリカHistoria Phaenolica』
 『まあ』
 『まだある、ヘマンシペーション・オブ・ブーマンEmancipation of Woman』
 『何だか私共にはよく解りませんけれど、みんな思わせ振りなお名前ですこと』
 『おい、万成先生、君は山上の垂訓を知っているだろう』
 『いえ、知りません』
 『知らないか。君は信仰がないね。信仰のない青年は堕落するぞ』
 『はい』
 『イベス・ブリストJesus Christの山上の垂訓に曰く、屁をひる者は幸也』


「『リーダを教えるにも、イットそれが、エ・キャット一匹の猫で、イズある、と云う風にやるのです。何かの文章の途中にbut peopleと云うところがあってね、矢張りその流儀で行くと、バットしかしながら、ピープル人民が、と教えるのだが、当時はまだ英語の発音なども滅茶苦茶で、Peopleをピープルと器用に読む事が出来ない、ペオプルですましておくのです。butは綴りの儘ブートと読む。この話は夏目漱石の生前に直接聞いた話なんですがね、吉井さん』
 それでネコラツ先生も好奇心を起して、
 『どう云うお話なんですか』と先を促した。
 『それが運悪く、その英語の先生が東北の人だったので、ずうずうだから、しかしながらなどと、はっきり云えないのです。ブーとすかしながら、屁をふる人民が、と云う様な事になってしまった、あははは』」


 こんな調子で延々と続くのだが、人によっては「何がオカシイのだ」ということになる。〈屁〉談義を会話の中で堂々と滑らかに展開している小説というのは(あまり)ないから、内田百間の創意はこれはこれで素晴らしいと思うわけさ。当時の〈屁〉談義の様子を彷彿とさせるね。

 小説では万成青年が通っている学校の教師たちの隠微な確執や教師夫婦の不倫騒ぎを軸に展開する人間模様が描かれている。ストーリーは中途半端に途切れていて(新聞連載が廃刊で途絶えたため)成功した小説とは言えないが、〈屁〉談義はそういう小説の流れとは全く無関係に自立して読めるところが面白い。

 一般に、こういう〈屁〉談義はハ行、バ行の音に着目するんだね。その滑稽味に引きずられて言葉の連想や論理が勝手に飛躍する。「東京ヘー国大学ブー学部」という連想は最初に考えた人はなかなかのもんだと思うよ(そして、すぐに陳腐化するのが〈屁〉談義だけどね)。

 自立した〈屁〉談義は一人歩きする。屁ほど身近なものはないから、それなりに身につまされる滑稽にして不思議な挿話となるのである。そういう〈屁〉談義を見事に組み込んだ小説はこれからも現れるだろうか?

 一言=この小説は、その〈屁〉談義によって登場人物の博識(の広狭さや浅薄さ)を表現したのであ〜る。


posted by 楢須音成 at 23:37| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 作品探求 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月11日

使い分ける「ヘ」「おなら」「B型」「S型」

 屁を「ヘ」と呼ぶか、「おなら」と呼ぶか、微妙な使い分けがあるね。使い分けられる同名異称には心理の奥深い動機があるわけさ。中重徹の『一発』に収録されているエッセイ(和田健治「岡山県医師会報」)でこんな報告と見解が披瀝されている。

 和田は江戸時代の小咄18題を精査して、そこに出てくる「へ」と「おなら」を調べてみたのである。合計25の出現を数えたのだが、その使い方に傾向が出ていた。

 男の会話の中で  「へ」7回   「おなら」3回
 女の会話の中で  「へ」3回   「おなら」6回
 会話以外で    「へ」4回   「おなら」3回

 和田はこう指摘する。@「へ」は男の会話に多く、「おなら」は女の会話に多いAこれに当てはまらない(「へ」と言った)女は女郎、山から出てきた女、下女といった身分の低い者ばかりであるB「おなら」と言った男は大店の旦那、医者、気取ったご用聞きといった教養人ないしはスノッブ的な振る舞いの者であるCこうした会話以外での使われ方は、「へ」と呼ぶときの主語が男の場合は1回、女の場合は3回となるが、このときの女は女郎(2回)と下女(1回)であるDまた「おなら」と呼ぶときの主語はすべて女(女郎2回、嫁1回)ばかりである。

 要するに、概ね「へ」は男性が使い、「おなら」は女性が使う傾向を示すのだが、社会的な身分や価値(品位)を背負うことによって、「へ」は下位の者が使い、「おなら」は上位の者が使う傾向を示すわけだね。

 なぜこうなるのか? 音成の解釈のポイントは「へ」がモノを指し示すのに直接的な表現なのに対して、「おなら」は間接的なぼかし表現(お鳴りの転化)で発生したことにあるのさ。肝心なことをぼかして表現する心理の綾は、〈屁〉の場合、もちろん羞恥に絡む社会関係を背景にして発生したのである。

 和田のエッセイでもう一つ注目したのは次の一節。ここが面白い。

「それはこの気体に付属する音と匂いの問題である。
 そもそもオナラはその発生機転よりみて、二つの型に分けられる。一つは腸内での発酵によるもので、セルローズ・含水炭素・脂肪に由来し、炭酸ガス・メタンガスを主体とするガス量は多く、音の大きい、しかし匂いの少ないもので、芋・豆を食べたあとに出るのが代表的なものである。
 もう一つは腐敗によるもので、消化不良気味のときに出るやつで、ガス量は少ないが、アンモニア・硫化水素を主体として悪臭いちじるしく公害を起こすやつである。
 音の面からは前者は大音かつ低音であるのに、後者は高音または無音である。前者をB(ブー)型、後者をS(スー)型と名づける」

 和田は、B型のときを「おなら」、S型のときを「へ」と呼んでいると指摘して、川柳を例示している。卓見である。

 音に着目するとわかりやすい川柳はこんな感じ。

 屁(S型)をひったより気の毒はおなら(B型)なり
 屁(S型)ならまだいいがおなら(B型)の気の毒さ


 これをニオイに着目するとこういう川柳もある。明らかにS型だね。

 紙帳では自業自得の屁(S型)の匂い
 炬燵の屁(S型)猫も呆れて顔を出し


 さて、あなたは屁を言葉にするとき、「へ派」「おなら派」のどちらであるか? あなたの屁は「B型」「S型」のどちらであるか? 

 実はこの「へ派」「おなら派」「B型」「S型」の関係と表現は四つに組んで深く深く複合しており、解明すべき構造があるように思われるんだけどねー。
posted by 楢須音成 at 12:55| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月18日

〈屁〉談義が凝りに凝って戯作となる〜

 そもそも〈屁〉談義は面白オカシイことが身上であるが、凝りに凝って一つの物語や議論へと骨格を構成し始めると〈屁〉の戯作となるのである。幕末の勤王の志士、伴林光平(ともばやしみつひら、1813-1864)の手になる一編に『楢の落葉物語』(1851年)という作品がある。こんな書き出しで始まる。


「昔後奈良院の御時、武州建部(ぶしゅうたけべ)のさとに仏雛(ぶつすう)上人と申(もうす)貴き聖(ひじり)おはしけり。もとは備後国穴太の郷の兵士にて、物部音成(もののべおとなり)とて世にきこえしものゝふなりしかど、怪う後(しり)へをならし給ふ癖有りければ、おのづから世の交らいも懶(ものう)しとて、つひにさまかへたまひて、西に東にうかれありきつゝ、しばしも尻はすゑ給はざりしを、年たけ給ひて後、今の建部にはとゞまりたまひしなり」


 武州建部の里に住んでいた仏雛上人という貴い僧の物語なのである。この上人、もともとは武士だったが、かなりの放屁癖があって、それがために世の交わりを面倒に思って出家してしまった。諸国放浪して年を重ね、建部の里に住むようになったというわけさ。

 「後奈良院」「武州」「建部」「仏雛」「備後」「穴太」「物部」「音成」など、音韻などからくる〈屁〉的な連想を散りばめて語り出されている。『楢の落葉物語』というのも、オナラを集めた物語というような意味だね。このセンスは終始一貫していて、そこから上人の行状が次のようなエピソードを無造作につないで綴られるのである。

 @和泉国草部の津から阿波の辺嶋へ渡ろうとしたとき、海女おとめの中に音高く放屁した者がいた。上人が「小舟漕ぐ草部のさとの海おとめ鳴戸の沖の道しるべせよ」と詠んで道案内を請うと、かのおとめは騒ぐ気色もなく上人を尻目に見上げて「よるべなき海士にはあれどおとたかく鳴戸ときけばやさしかりけり」(素性もない海女ですが大声で鳴戸と言われると恥ずかしいですわ・鳴戸はすぐにわかりますよ)と返して立ち去った。ゆかしく思った上人が海女の素性を聞くと平家何某の密子の末裔ということだった。
 A上人が熊野の山中で修行をしたとき、ホトトギスが鳴くのを聞いて「おとなしの河添うつきおりおりに忍音もらすほとゝぎすかな」と静寂を風雅に詠んだが、いつもの上人の放屁音は(周囲に頓着なく)音高かったそうだ。
 B上人があるとき梅の香に誘われて、若いときからの友で式部丞薫という役人(この人も放屁癖があった)を訪問した。このとき、どうしたものか屁を催して我慢したが、とうとうこっそり漏らしてしまった。匂いがはなはだしいのを、かの主人はすぐに心得て「春の夜の闇はあやなし梅の花色こそみえね香やはかくるゝ」(古今集)と声さわやかに古歌を吟じつつ出迎えた。上人も悪びれた様子もなく「花の香を風のたよりにたぐへては鶯さそふしるべにはやる」(古今集)とすぐにこれまた古歌をもって応えた。
 C豊後(ぶんご)の国矢部の郷の菅辺(すがべ)足人という儒者と上人が遊んだとき、上人は華やかに屁を鳴らした。足人は手をたたいて「仏々平等」と声ものどかにはやし立て、続いて自分も(少々貧弱ながら)鳴らしてみせた。上人はすぐに膝を立て直して「文武(ぶんぶー)の道未だ地に墜ちず」と事もなげに応えて鳴らしたので、足人はひどく恥じて顔を赤らめて鳴らすのをやめた。
 D上人が年老いて建部にいたとき、五月雨が降り続いて誰も訪れる人もなく、一日中眠りがちであった。そんなとき草垣を押し倒して老いたイタチが飛び込んできた。上人は起き出して「鼬丸いま一かえり(もう一度)おとづれよわがとしごろのしらべ(生涯最後の屁)きかせん」と詠んでやり、イタチの再来を期待したがかなわず、この歌を最後に遷化(せんげ)された。

 以上の抽出したストーリーのこと以外は、ほとんど何も語られていないような荒削りな短い作品であるが、〈屁〉に向き合う上人の「境地」の表現がこの作品のポイントなわけさ。よく言えば超然とした、笑って言えば半ばとぼけた境地なのではあるが、この上人がどこか風格ある人物に見えてくるところが面白いね。深読みで解釈してみよう。

 上人の放屁癖は出家の前も後も変わりがないが、出家することによって〈屁〉のランクを上げた。というか、出家によって世間的な恥(にまつわる俗事)を捨て去り、恥じらいなしに〈屁〉に向き合うステージを獲得したんだね。上人の〈屁〉の自在な振る舞いは見事だし、一種悟りの境地にあるわけなのである。

 上人が口笛の達人であっても似たような作品はできるであろうが、それが〈屁〉であることによって作品世界は独特である。@における海女の〈屁〉に対する健気な振る舞いへの共感、Aにおける自然界での放屁への無頓着さ、Bにおける古歌への〈屁〉(の匂い)の読み替え、Cにおける堂々の放屁返し、Dにおける年老いたイタチへの思い遣りと自分の〈屁〉への思い...という具合に、それぞれのエピソードは上人の境地(や放屁力や教養)を角度を変えて語っているね。作品の流れは無造作なようでいて、よく考えられ凝った構成になっていることがわかる。

 もちろん、作者は上人と自分を重ねているさ。そういう意味では、面白オカシイだけの作品ではなくて、自己批評的な視点も持っているね。〈屁〉を信念化して(前提にして)生き抜いた上人の生涯のエピソードを読み込むほどに、この作品の味が出てくるのである。

(『楢の落葉物語』には上人のエピソードに加えて、上人の著作物として『放屁音義』という屁音についての書が付属している体裁になっている。物語とは直接関係はなく、独立した戯作ととれる。この『放屁音義』は改めて取り上げることにしよう)

 一言=作者の伴林光平にとって〈屁〉とは何だったのか。〈屁〉には違いないが、時代の波に洗われていた彼が奉じた皇道思想(への姿勢)を、批評的に重ね合わせたのであるというのが音成の解釈であ〜る。
posted by 楢須音成 at 03:47| 大阪 🌁| Comment(2) | TrackBack(0) | 作品探求 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月24日

〈屁〉の五段階論が人間を語る〜

 漢籍などの語句の音韻や字義を解説したのが「音義」であるが、『放屁音義』という文書が発見されている。伴林光平が『楢の落葉物語』(1851年)の関係資料として付け加えたもので、物語の主人公の仏雛上人(ぶっすうしょうにん)または登場人物の儒学者、菅辺足人(すがべのたると)の作であろうとしている。(もちろん、そういう来歴からして戯作なんだけどね)

 『放屁音義』とは屁音と字義の考察である。〈屁〉談義の議論をもって〈屁〉が人間界に根拠を持つゆえんを解き明かそうとしているわけさ。
 〈屁〉を採り上げた音義は「和名(わみょう)類聚抄」(931〜938年)「和漢三才図絵(わかんさんさいずえ)」(1712年)「善庵随筆(ぜんあんずいひつ)」(1850年)などにも見られるが、これらは戯作ってわけではない。(江戸の儒学者・漢学者、朝川善庵による『善庵随筆』の記述は伴林に刺激・影響を与えているかもしれない。転矢気=屁を考察している)

 『放屁音義』の戯作ぶりを見てみよう。わざとらしく一部虫食いありの漢文で書かれていて、なかなかの傑作である。概訳を試みる。(浅学にて解らんところは“超訳”で...笑)


 ──大体において物事は穏やかならざれば音を発するのである。草木に声はないが風が乱せば鳴る。水に声はないが風が動かせば鳴る。岩鉱石に声はないが強く叩けば鳴る。人体の五つの穴においても同じである。嘔吐、咳き込み、耳鳴り、くしゃみの類も(穏やかならざるために)止めることができずに鳴るのである。その急な切迫した状態にさらされたり、その烈しさを必死におしとどめたり、そのあまりの数の多さに虚脱することもある。

 放屁は体内にこもったものを外に排出するのである。放屁の原因になるものを食べればよく鳴らすことになる。甘い果物や菓子餅、辛いものや酒肉の仲間はよく鳴らすものである。食べ過ぎれば夕べに鳴らし、飲み過ぎれば朝に鳴る。その(音の)大小、高低、遅速、緩急というものは、必ずや穏やかならざることが原因となっているのである。

 《虫食いあり》放屁は転失気(てんしき)とも言い、俗にオナラとも言う。これは「御鳴る」の意味であろう。放は放散転失の意味である。放屁は胸のあたりを塞いでいる汚毒を転失し、胃のあたりに鬱結している臭気を放散する。かくして心のよどんだものが去り、体は安らかになって、穏やかさを取り戻すのである──


 さて、ここから独自の「音義」が展開される。


 ──屁は比(ひ・び)である。大人はその音が宏大であり、子供はその音が微小である。字の形は「比」が「尸」に従う姿になっている。字体も発音も同じ意味を示しているのである。屁の音は五つある。一つは「文(ぶん)」、二つめは「武(ぶう)」、三つめは「鄒(すう)」四つめは「窮(きゅう)」、五つめは「毘(び)」。

 文とは分(けじめ)である。およそ君子は飲食において《虫食いあり》絶対無理をしない。まず臭いものは食べないし、切った面が崩れたものも食べない。このように飲食が正しければ、動作はよろしく整い、五臓はその本分に安んじ、水分や穀物はその本分によってすみやかに動く。ここにおいて心身は常に和平を得て、この音(文)を発するのである。その音は宏大であり、温和である。おおいに君子の安らかに楽しむ品格がある。

 武は部(区分け・節)である。飲食が節度を失わず、動作がよろしく整っておれば、生気は滞ることはなく、臓腑はその編成を失することはない。水分や穀物の汚臭の気が内にこもって停滞することなく、この音(武)を発するのである。その音は豪烈であり、単直である。あたかも壮士の怒りが発する気品がある。

 鄒は数(数の多さ)である。動作に節度がなく飲食に節制がなくなれば、水分や穀物もその本分を失ってしまい、これがために臓腑はバランスを欠き、生気は閉塞し、やっとのことで外に排泄する音がする。かくしてその音は数多く分散し、乱雑でけじめがない。君に仕えて多く発すれば辱められ、朋友に発すれば拒絶される。小人のよこしまで正道から外れている音と言うべきである。

 窮は丘(行き詰まり)である。およそ卑しく下品な田舎者は家が貧しく財産が乏しい。いつもは豊かで滋養のあるものを食べることができない。粗末な菜食を有り難がり、貧弱なあつものをよしとする。たまたまお祭りや婚礼のおめでたがあると、幸いにもその席に並ぶ。そこでは珍味がたくさん積まれ、美酒がふんだんに出される。満面に笑みを浮かべ、これまで抑えていた欲を解き放って腹一杯食べる。かくして手足はだるくなり、心も腹も膨満し、一気に食べ過ぎた報いが胃腸を動き回り、しきりに外に排泄されんと欲するのである。その危急を我慢して言うこともできない。ついには抑えることができずに、突然のように漏らすのである。かくしてその音は窮迫し、鄙俗(ひぞく=いやしくて俗っぽい)である。主人も客人も顔を伏せ、あまりのことに左右に首を回す。そのはなはなだしく厭うべき事態は、ここに窮まるのである。孔子は言った。小人が窮すれば、すなわち乱れると。確かにそうである。

 毘は微(衰弱)である。《虫食い》 多淫で精力を失った連中や腹一杯食べた下痢腹の客は、常にこの音を発する。かくしてその音は淫らにして哀しく、衰弱していて虚しい。おおいに小人の国を滅ぼす音韻である。《以下、虫食い》──


 このように屁音を五段階に分けて考察しているわけであるが、〈屁〉というものの音の背景を観察して「文(ブン)・武(ブー)・鄒(スー)・窮(キュー)・毘(ビー)」の等級をつけたわけだね。説明されてみれば「なるほどね(でも、なんかウソ臭いー)」と笑ってしまう。

 こういう考察はどこかで読んだような気もする。ありましたねー。サルバドル・ダリの『天才の日記』の中にある『「放屁の術、または陰険な大砲に関する概論」の抜粋』がそうだった。ここでも〈屁〉というものの因って来たるところを身体との関わりで延々と説いていたね。それに比べれば伴林の論は以上に紹介した内容に尽きており、とても簡潔でわかりやすい。

 両者の比較はしないが、それぞれ〈屁〉を語って「人間」を語っているのである。そこが戯作たる根拠なのだけれど、〈屁〉談義においては、観察された〈屁〉は深く深く(そしてウソ臭く)人間を語る。ここが明確な実体を持つ糞などと違うところなのさ。

 一言=確かに音成の周りにもブンな奴、ブーな奴、スーな奴、キューな奴、ビーな奴がいるわい〜。
posted by 楢須音成 at 19:41| 大阪 | Comment(0) | TrackBack(0) | 作品探求 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月30日

〈屁〉の映画は屁で始まりパンツで終わる〜

 まれに〈屁〉を描いた映画を観ることがあるが、正面切って取り上げている作品はほとんどないのである。〈屁〉(の深層)が映像表現しにくいことは、アダルトビデオの性表現にも通底してる問題だね。そんな中で、小津安二郎の『お早よう』(1959年)はストーリーの展開にからめて〈屁〉を効果的に使った映画である。

 この作品は〈屁〉がテーマというわけではないものの、〈屁〉を人間の振る舞いの自然な延長ととらえてユーモラスに織り込み、作品の重要なファクターにまで高めているのさ。映画は〈屁〉に始まって〈屁〉で終わるのである。素晴らしい。

 場所は東京郊外の住宅地。隣近所の家族の交流が描かれるのであるが、この交流は重なり合う三つの層(子供たちのレベル、奥さんたちのレベル、だんなたちのレベル)があり、物語の進行と背景を立体化している。主となるストーリーは、テレビを買ってもらえずに反抗する林家の兄弟を軸に、とうとう林家にテレビがやってくるまでの人の動きをユーモラスに描いている。──などと、当たり前に観てしまうと、〈屁〉はどこに行ったんだということになるんだよ。

 ここは〈屁〉に着目して鑑賞してみなければいかんね。

 映画は冒頭、登校する少年たちの放屁遊び(額を押してもらって、プーと一発出す)シーンから始まる。放屁の「タイミング」と「快音」が求められるわけだが、どうしても下手な少年が一人いて、音にはならず屁じゃなくて実≠出してしまうのである。それは、その少年のパンツの中の秘密なわけさ。

 少年たちはテレビを観るのが大好き。テレビは憧れの的(昭和30年代相撲のテレビ観戦は大人気)だったが、どの少年の家にもテレビはない。
 仲良し三人組の少年たちの関係はこうなっている。
 @大久保少年 → 〈屁〉を操る父を師とする放屁遊びの達人。遊びの考案者らしい。
 A林兄弟 → 放屁の技量上昇中。テレビをねだって、買ってくれない親に反抗する。
 B原田少年 → 放屁の技量がなくいつも実≠出す。叱る母は胃腸が悪いので粗相をすると思っている。家ではテレビではなく洗濯機を買った。
 三人は、近所で唯一テレビを持っている若夫婦の家に相撲を観に入り浸り、親に叱られているのである。

 さて、少年たちの放屁遊びは「芸」の競い合いになっている。映画で描かれているのは芸を披露して愛でるという向日性をまとった〈屁〉なのさ。ところが、それに(チャレンジして)失敗する悲しい少年の姿も描いて物語は始まるわけである。(そこで観客は笑うわけだね。リアルな笑いの現場には往々にしてこういう陰りがある=必要悪なんだよ)

 この放屁遊びに象徴される〈屁〉は何を意味するのだろうか。かなり意図的に〈屁〉が物語に織り込まれて展開するのであるが、ヒントになる会話がある。林兄弟がテレビをねだって父親に叱られるシーンで、「大人だって余計なことを言うじゃないか。こんちは、おはよう、こんばんわ、いいお天気ですね、ああそうですね、あらどちらへ、ちょっとそこらへ、ああそうですか、なるほど、なるほど・・・・」と大人の口真似をして口答えするシーンがあり、大人の日常生活で際限なく繰り出される無駄(?)な会話を皮肉っている。実はそういう無駄が大事なんだと映画は繰り返し言っているんだけれど、一般の大人から見れば〈屁〉ほど無駄なもの(馬鹿なもの)はないわけさ。

 つまり、言葉の(無駄に見える)振る舞いに〈屁〉を対置させているというのがこの映画を観る音成の視点になるわけだが、放屁遊びは少年たちにとっては無駄どころか仲間同士を確認し合う振る舞いになっている。それがため原田少年はパンツの中の失敗を繰り返しながらも遊びを捨てられないのである。

 言葉と〈屁〉の対置で小津は「言葉」を語ろうとしたのか。あるいは〈屁〉を語ろうとしたのか。もちろん、音成の確信は〈屁〉さ。言葉と〈屁〉の違いは、単純に〈屁〉は言葉ではないということ。〈屁〉は言語化せずにそれ自体で存在しているモノなのである。そういうモノのやりとりが放屁遊びである。

 そこには言葉を超えた交流があるわけだね。まあ、言葉と〈屁〉は、言ってみれば「こんにちは」という言葉と「キス」という行為の対比(関係)と同じようなものだと考えられる。ただし、残念ながら〈屁〉は関係性を築く行為とは見なされないね。大人の世界で〈屁〉は排除される。

 映画の中では〈屁〉を操る者を通じて〈屁〉は「われは〈屁〉なり」と自らを主張する。そのときの人間の振る舞いが可笑しい。原田少年のように〈屁〉に失敗する者は孤独である。その孤独に耐えて彼は大人にならなければならないわけさ。大人の世界は言葉で〈屁〉を無化する世界である。無駄とはいっても、言葉と〈屁〉では質が違うわけで、〈屁〉を隠蔽する(無作法で恥ずべきもので無駄なものだと意味づけする)ことによって大人の世界はできあがっているんだね。

 この作品で描かれた〈屁〉は実にコミカルである。登場する女性は〈屁〉(の存在)を全く認識していない(無視している)し、男性(大人)は認識はするが無駄なことと一顧だにしない。ここには大人と少年の世界という図式ができあがる。もっとも、映画では周到にも、大久保少年の家で父親が放屁して家族の絆を作っている、とぼけた〈屁〉のバリエーションを描いて単純な図式を突き崩すのだが。(このほかにも、この映画の含みのある緻密な構成には本当に感心するね)

 少年たちの世界の〈屁〉の存在感は軽いようで重く、原田少年を孤独感でさいなむ暗黒面を見せる。決して〈屁〉は万人に平等ではないし、経済的不平等などと違って〈屁〉の不平等は誰に愁訴もできず致命的であるほかないのである。

 映画は少年の洗ったパンツが風に翻るところで終わる。われわれは「お早よう」という一言を獲得するために、パンツの中を通過してきたことを忘れてはいかんよ。

 一言=誰にだってパンツの中の秘密の一つや二つはあるんじゃないか〜。
posted by 楢須音成 at 18:04| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 作品探求 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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