2006年05月04日

結婚式に〈屁〉はあるまじきは何でだろ〜ヵ

 儀式の場で〈屁〉はあるまじきものである。ことに結婚式となると事は重大で、花嫁の〈屁〉はタブーの頂点にある(とされたようだ)。それは死を意味したんだよ。
 歴史的な証言として最近の事例は、音成が知る限り1940年頃の話が存在している。山名正太郎の『屁珍臭匂臭』に著者が身近に見聞した話として紹介してある。

「ある良家の娘さんが結婚しました。晴れの結婚式で、花嫁になったその人が、放屁したのです。
 『出ものはれもの所きらわず』の諺もありますが、緊張したせいもあったでしょう。だいいち場所がわるかった。仲人などが、おやっと思う間もなく。花嫁の姿は席に見えない。花嫁姿のまま抜け出して、一目散に走りつづけ、木曽川に飛びこんだのです。
 岐阜というところは、織田信長に縁の深い町ですが、早くから城下町ではなくなり、町人の町になりました。四角ばったところもなく、自由の気があふれ、人情もよく、暮らしやすい。そんな町に起きた事件なのです。
 とにかく、花嫁さんはもとより、関係者にとっては、あきらめきれぬ、意外な出来ごとだったのです。
 昭和十五年の春でした」

 山名は新聞記者で岐阜に転勤したとき、まず聞かされた話だったという。当時、市中を駆けめぐっていた話題だったらしい。

 山名も指摘しているが、民話や明治の新聞記事などに、昔からこれに類する話はあるのである。〈屁〉的現象としては一つの典型なのさ。
 福富織部の『屁』には明治の大阪錦繪新聞(第55号)が載せた「花嫁の放屁」の記事が紹介されている。これは1875年(明治八年)頃の話である。

「相州江の島の漁夫松本作兵衛の娘おとらは今歳十九にて、片瀬村森田安次郎方へ同村寅次が媒酌にて嫁入なし、翌日親類へ巡り媒酌の家に行き寅次の女房おくめに挨拶せんとして思わずブウと大きな放屁を發せしが、おくめも默つて居ればよきに、これはこれは初めてのお出に何よりのお土産なぞといろいろ嘲けり笑ひしが、嫁は顔を眞赤にして、其場は宅へ歸りしが、親族へも恥かしく、人に笑はれるが殘念との書置をして死せしが、安次郎は大いに驚き、おとらの首を切、書おきと共に寅次が宅へ持行き、おくめに見せしに、おくめは見て驚きわたしが過言より花嫁を殺せし事言譯なしと自殺せしが、安次郎は寅次に言譯なしと身を投げしとぞ、放屁一つで三人が命を落すとは、落し所のわるい屁で有ると諸新聞紙の評なり」

 すさまじい連鎖の事件だが、花嫁の切迫した心情が際立つ。同種の話で落語に「満員」(三遊亭円馬)というのがあるが、こちらは「花嫁の放屁」で関係者が次々に井戸に飛びこんで自殺する連鎖を単純に笑い飛ばす話になっている(井戸が満員御礼になったというオチになる)。
 問題は発端となった「花嫁の放屁」である。

 一般に儀式の場で異音、異臭がタブー視される度合いは極めて強いと言わねばならないね。まあ、儀式でなくともタブーではあるのだが、緊張した場の雰囲気を根幹から台無しにするものとして、〈屁〉はとても強烈に作用する場合があるわけさ。

 その異質性は悲劇喜劇を生む。ここで〈屁〉がもたらすものは「恥」なのである。恥の心理は時代によって推移し濃淡を見せるが、「花嫁の放屁」は〈屁〉に内在する恥を、花嫁という社会的立場を通して提示している。(江戸時代の嫁の立場については前にも「江戸の嫁たちは〈屁〉に泣いた」で取り上げた)

 現代の嫁の立場(こういう言い方自体どうかねー)は昔とは違うにしても、少なくともこの記事に描かれた花嫁は(男性上位社会の社会性から見れば)一番の弱者である。花婿・花嫁は結婚によって世間に登場するスタートラインに立ったばかりで、厳しく世間体(礼儀・節度・体面・要領など)が要求される。花嫁の場合は(弱者であればあるほど)完璧でありたい(でなければならない)という内外の要求が強いのである。

 かくして「恥」の強度は増す。それが身も蓋もないのは〈屁〉であるがためである。たかが〈屁〉は完璧に制御するのが世間体である。されど〈屁〉は制御しにくいのである。糞や尿にくらべても「つい」取り外す危険性は高いという意味で、実のところ「恥」の強度は深刻なのである。弱者ほど恥は深刻でもある。だけど、実際に放出した後の影響度合いからいえば、誰が深刻な被害に遭うわけでもないんだね。

 ここに〈屁〉的現象の特異な相貌があるわけさ。異音、異臭の役立たずな(意味不明の)ガス体は下半身から突然(制御不能で)飛び出してくるのである。

 それにしても、なぜ花嫁は死に急がねばならんのか? 「花嫁の放屁」に類する話があちこちで繰り返し取り上げられる背景には、人間心理(恥)の絡み合いの深い構造があるようだね。そこは実に興味深いと言わねばならんよ。


posted by 楢須音成 at 18:07| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月09日

続・結婚式に〈屁〉はあるまじきは何でだろ〜ヵ

 花嫁は一発の〈屁〉によって死に急いだ。明治の大阪錦繪新聞に載った「花嫁の放屁」事件は関係者まで死に追いやってしまい、怪奇な様相を呈したのであるが、そもそも花嫁を駆り立てた動機は何だったのか。
 むろん、一発の〈屁〉は深刻な「恥」をもたらしたのである。

 大阪錦繪新聞から登場人物たちが引き起こした事態の推移を追ってみる。
 
 @花嫁・おとらは意図せずして屁を取りこぼした。
 Aおくめはおとらの不覚(放屁)を嘲った。
 Bおとらは恥じ、自殺をもって恥を封じ込めた。
 C花嫁の夫・安次郎はおとらの首を斬り、持参しておくめに抗議した。
 Dおくめは「自分の過言でおとらは死んだ、言い訳しない」と自殺した。
 E安次郎は「自分の抗議でおくめが死んだ、言い訳しない」と自殺した。

 こういう流れになるが、「恥」をめぐって深刻な心理の劇が展開されていると見なければならないわけさ。一つの解釈を試みる。

 @→花嫁は自分の不覚によって消え入りたいほどの恥を突きつけられた。このとき、逆におくめが同情して気遣い、何も言わなかったとしても、おとらは恥にまみれた(はずである。やっぱり自殺したかもしれないね)。

 A→おくめが基本的にお喋りで一言多い性格なのは間違いない。ただし、彼女の嘲りがどういう方向性なのか記事だけからはつかみにくい。おくめの人柄はいろいろに解釈できるわけである
 一体、おくめは「意地悪」な女であるのか、単に礼儀に厳格な「真面目」な女であるのか、根のない「ひょうきん」な女であるのか、「あっけらかん」とした豪放な女であるのか。こういった個人が引き受けているいろいろな存在様式(性格)によって、行動の意味づけは変わってくるはずだね。
 さらに、おくめが花嫁を見る目には世間体(礼儀・節度)というフィルター(基準)があるわけだが、おくめが世間体というものに、どう向き合っているかによっても意味づけは変わってくる。世間体に保守的・迎合的だったりする度合いが強ければ強いほど、指弾は厳しくなる(はずである)。
 もっとも、おくめがどういうスタンスであっても、おくめ(世間)という存在が花嫁の眼前にいる限り、きっちり恥は突きつけられているのさ。

 B→「結婚の儀式」を締めくくる場面での「不覚の放屁」は内に持つ世間体を破壊したのである。花嫁は自分自身が原因で、存在を揺るがすほどの恥の烙印を受けたと感じたのである。恥はプライドが高いほど深刻になるし、社会的立場が低いほど(そして上昇志向が強いほど)強く感じるのさ。それにしても、そこに死ぬほどのことはあるか。
 ともあれ、自殺するのは一生消えぬ烙印をすぐ消すためである。
 花嫁の心は「有り余る悲しみ」「有り余る絶望」「有り余る怒り」「(侮辱された)当てつけ」「抗議」「恥を忘れて楽になりたい」といった感情や思いの重層するルツボと化したのである。

 C→安次郎がおとらの首を斬っておくめに見せに行くという異常行動に出るのは、愛のためであるか? そうかもしれないが、彼の心は突然の喪失感から「有り余る悲しみ」「有り余る絶望」「有り余る怒り」「(妻を奪われた)当てつけ」「抗議」「おくめを苦しめる」といった感情や思いの重層するルツボと化したのである。

 DE→ここは、原因(相手から妻を奪った)を作った者同士が「言い訳しない」と責任を取って自殺するのである。おくめは安次郎に対して、安次郎はおくめの夫・寅次に対して謝罪の意味があるわけである。これは世間体の典型的な心理だね。

 こう見てくると、@ABにおける花嫁とおくめの心理劇は何やら根深いものがあり、いささか謎めいている。
 CDEは斬首や自殺の応酬という派手な異常行動の割には、世間体という尺度からみればわかりやすい事態といえる。引き起こされた事態や、引き起こした事態に対するリアクションとしては、少々エキセントリックではあるものの、「抗議」と「責任」という世間体の枠組みを逸脱するものではないね。

 それに比べ、@人前にさらした自分自身の理不尽な生理(放屁)がA世間体(おくめの目)に触れて恥の極みに追い詰められB情況を無化するために自殺へと走る...という精神の自滅運動は内にこもっていて、わかりにくいところがあるわけさ。それでもこれは、純粋に恥を背負った者が示す行動パターンなのである。

 人はしばしば自滅へと向かう精神の動きを示すが、同じように自滅しても、おくめや安次郎と、花嫁・おとらとの違いは、恥を背負っているかどうかにある。恥によって(恥の極みで)自殺することは、他人との関係(世間体)の中に身を置きつつ、自分自身の問題(自責する恥)なんだね。このことが恥をはらんだ〈屁〉的現象の構造を浮き彫りにするのである。

 それにしても、おとらの恥がとめどなく増殖してしまうのは、つまらない〈屁〉であればこそなのである。自責の念(恥)は、たかが〈屁〉の失敗であることによって、強く吹き上げてくる。それが、記念すべき結婚というスタートに際しての〈屁〉であることによって、強く強く吹き上げてくる。それを、ほかならぬ、おとらに笑われたことによって強く強く強く吹き上げてくるのさ。

 やはりトドメは、これから迎え入れてもらおうとしていた相手(おくめ)に指弾されたことによる絶望なのである。

 実は、花嫁・おとらの前に立ちふさがったおくめ(世間)は、巡り巡っていけば将来のおとらの姿なんだね。つまり、姑と嫁の関係と同様に、人は年齢を重ねてやがて役割は入れ替わっていくという世間の暗黙の道筋が前提されているわけさ。世間とはそのように囲い込まれた関係である。花嫁・おとらはここにつまずいた。〈屁〉という無作法な振る舞いを制御できないようでは世間はつとまらないのである。将来、おとらがおくめになったとき、花嫁の粗相を笑えないではないか〜。

 さて、この記事から「意地悪で醜悪な婆ァ→清純な美人の花嫁」という構図をイメージしてもよいが、仮にそれが「高潔で端正な老婦人→ 意地悪で醜悪な花嫁」であったとしても、@ABの恥の流れや結末が変わる理屈にはならない。〈屁〉の恥はあまねく平等なんだし、世間の役割は変わることがない。世間体の展開に人の「個性」は出てくるかもしれないが、人の「個性」に合わせて世間体が変わるわけではないからである。

 この記事で読者があきれるのは、一発の〈屁〉が引き起こした結末の異常さであろう。それにしても、なぜ〈屁〉はそれほどまでに無作法なのか。作法に照らして〈屁〉を恥とするのは世間体であるが、世間を血肉化することが人生の目標であるような世界では、人は〈屁〉と敵対せざるを得ないのである。たかが〈屁〉なのに、そこでは〈屁〉があたかも原罪のように立ち現れてくるんだよ。

 と思えば、〈屁〉は罪のない哄笑の対象にもなっておる世界がある。曲屁師が腰を振りながら屁芸を演じる娯楽の殿堂では、〈屁〉は誇らしげにキモチイイものとなる。ここには「花嫁の放屁」とは異なる心理の劇があるではないか。

 かくして、人は〈屁〉の光と影を背負って生きるのである。
posted by 楢須音成 at 01:08| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月20日

屁のヘンタイってどういう人?

 人の〈性〉の奥深さ(趣味の違い)は想像を超えるものがあるね。まあ、「ついていけんわ」と思考放棄してシラーッとなることもままあるが、『ヘンタイの哲学』(2005年、キム・ミョンガン著、日本文芸社パンドラ新書)を読むと、〈性〉的なヘンタイが極めて文化的な現象であることがわかる。(音成は〈屁〉もまた極めて文化的な現象だと思っているわけさ)

 キムは「ヘンタイとは、人類が長い歴史をかけてつくりあげてきた、音楽、会話、宗教、スポーツ、言語、料理、道具、テクノロジーなどと全く同じ高度な次元のものである」として、「不自然」「倒錯」「異常」などという評価は不当であり、「ヘンタイこそ進化と脳の勝利の象徴」であると言っている。

 様々なヘンタイの中で〈屁〉に関するヘンタイはあるのかというのが、音成がこの本を手にした動機である。〈屁〉のヘンタイはどんなスタイルを示すのだろうか。糞尿への趣味・趣向の一派の中にないかと思ったけれど、そこに確たる〈屁〉の姿はない(ようである)。殘念に思っていたら「淫臭症」「異臭症」ということが解説してあった。

「(淫臭症)はギリシャ語のオゾ(臭い)とラグニア(快楽)を合わせて、これは『オゾラグニア』という。
 においには匂い≠ニ臭い≠ェある。
 アリストテレスや貝原益軒などが分類したらしく、前者は『快いにおい』『脂っこいにおい』『酸っぱいにおい』『刺すようなにおい』『辛いにおい』『猛烈にくさいにおい』として分類している。
 後者は五気五臭≠ニいって、五気には@香気(こうばし)Aそう気(くさし)B焦気(こげくさし)Cしょう気(つちくさし)D腐気(くちくさし)があり、五臭には、@香臭(こうばし)Aそう臭(くさし)B焦臭(こげくさし)Cしょう臭(つちくさし)D朽臭(くちくさし)がある。
 さらに他の人が、『芳香』『芳香系』『麝香(じゃこう)』『にんにく臭』『山羊臭』『不快臭』『嘔気臭』などに分類したり、さらに『エーテル系』『芳ばしい』『樹脂類』『アムブロジオ系』『アリル系』『こげ臭い』『カプリール系』『不快な』『嘔吐をもよおしそうな』という分け方もあるようだ。
 このうち、ズバリオーガズムを覚えるのはカプリール系らしく、これはカプリール酸すなわち腐臭味たっぷりのチーズ臭のことである。
 また、臭いといえば、異臭症というのがある。自然界にはない臭いが好きな人のことで、エーテル系、ガソリン系などがそれにあたる。
 (中略)
 異臭症ではガソリンのほかに、ホルマリンや消毒臭、ビニール製品臭、メタンガスや硫化水素などに強く反応する人もいる」

 この記述には概ねニオイのパターン(傾向や感じ方)が少々乱雑に網羅されているね。では〈屁〉はどこにあるのだろうか。成分的にはメタンガス(メタンは無臭)や硫化水素の系統であるが、硫化水素はタマゴの腐ったような腐敗臭である。

 ニオイでオーガズムを感じるのはカプリール系だというが、これは体臭のように発酵した脂肪酸のニオイである。チーズも発酵食品である。

 まあ、よくわからないけれども、臭い≠ェ匂い≠ノ転じるところにヘンタイの真骨頂があるわけである。〈屁〉にもそういう人はいるんだね。『においカミングアウト』(林雄司編、2001年、光進社)には、屁を愛する人たちがカミングアウトしている。

「私の好きなにおいは、ズバリお父さんのオナラ。それはもー臭いです。どれぐらい臭いかというと12畳の部屋のハシッコでオナラをしたら、その反対のハシッコにある空気清浄機のセンサーが、なぜか全開になるほどです。最近私は結婚をしたので、そのにおいを嗅ぐことができません。今の旦那さんは臭くないんです。あーあのにおい、嗅ぎたいです。旦那に何かへんなものでも食べさせようかなー」

 確かにヘンタイである。
posted by 楢須音成 at 23:43| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(2) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月29日

見えない〈屁〉のスカトロの道

 〈屁〉に対する性的なアプローチはあるにはあるが、本格的な展開をみるほどには至っていない(一般化していない)というのが音成の感想なのさ。かつて東京・神保町のアダルトビデオ店を何軒かのぞいたときには、スカトロジーのコーナーはあっても、〈屁〉はないか、あっても微々たるものであった。

 嗜好はともかく、だいたい〈屁〉(だけ)のプレーなんて表現(映像)として成立しがたいようだね。音成が目にしたビデオでは端から「本編に本番シーンはございません」と注記してあり、内容は若い女性の「単独」の放屁シーン(芋食ったりして涙ぐましい努力をしている)が様々な姿態で延々と続くのであるが、やってる本人が思わず吹き出していたりする。見えない屁を映像として見せるために、水中で出したり、白粉を飛ばしたり、音を拾ったりと工夫はあるんだけど、やればやるほど映像には滑稽味が浮き立つあんばいなのさ。

 そういう〈屁〉に対するアプローチ(特集)を写真と活字の面から追究した「ビーバップオナラ」(発行年記載なし、ペガサス企画編集、K・Kジャクソン刊)という本がある。〈屁〉一本槍というわけではなく糞尿あわせたスカトロの特集になっているが、〈屁〉をメインにした点で珍しい本だね。編集後記にこう言っている。

「スカトロと言うと『オシッコ』『ウンコ』などの排尿排泄行為を連想しがちですがその中にオナラつまり放屁行為≠燉ァ派なスカトロの一つなのです。
 しかし、ビデオなどと違って音のない写真の世界でいかにして、オナラ≠ニ言うものを表現していくかが長くにわたって考えていたテーマでした。そうして考えた企画の一つ一つが蓄積されてようやく撮影に成功し、今回の本となったわけなのです。
 撮影の際、女のコ二人の自力放屁≠ヘ勿論、空気浣腸して面白いように放出された女のコ達のオナラの音を聞かせる事が出来ないのが非常に残念です」

※目次を紹介する。
少女が咲かせる華麗な放屁花
スカトロ探求企画
 日本人における屁≠ニオナラ≠フ違い
 現代アナルセックス思考学
エアーシャッフル 少女のお尻から発砲される空気の神秘
お笑いスカトロ演芸館 爆笑・オナラ落語特選会
短編読切り小説 バイオレンス・エアー・レイプ
初心者のための空気浣腸実践教室
少女2人のオナラチェック&インタビュー
秋のスカトロ手記 「オナラ」「放尿」「脱糞」告白集

 この本のような〈屁〉にこだわった性的アプローチはあまり例がなく高く評価するよ。結局はアナルセックスに収斂していくフレームワークが提示されているのだが、放屁を放尿や脱糞と並べてプレーに徹する「実学」を盛り込んだ内容にもなっているわけさ。

 それにしても、見えない(透明な)屁を見せるための表現の工夫は、ビデオでもそうだったけど、写真でも滑稽味が漂う。〈屁〉は見えないために、表現域においてリアルにキャッチボールされるよりも、活字(言語)を介した想像力に飛躍する観念性の高い現象なのである。
posted by 楢須音成 at 13:31| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 文献探索 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月31日

男と女の屁の差異を論じる

 屁に性別があるわけではないね。男性の屁も女性の屁も、屁は屁である。そうではあるけれど、同じ屁が性別によって表現を異にし、意味合いも違ってくるのはなぜだろうか。

 溝口白羊の『屁の喝破』には、こんな解釈がある。彼は宇宙の万象にはみな男女の性別があるとして、屁もまたしかりという。

「男の屁は概ね濁音を帯びてバ行ビブの二段に働き、女性の屁は多く透明にしてパ行のピプ二段に働く、其臭い事は共に同一であるが男性の屁は低音にして豪壯の氣を帯び、女性の屁は高調にして優美都雅(ゆうびとが)の韻を含んで居る。これ屁の配劑の妙である。而して男女兩性の中、其何れが最も多く屁をするかと云ふと、表現的に於ては男性である、何故男性よりも多く薩摩芋を嗜食(ししょく)する女性の屁が少ないかと云ふに、これは大いに理由が有る。太古遊牧の時代に於ては、日本の女性も男性と共に武器を執つて戰い、且つ盛んに大屁を放つたのであるが、漸次社會組織が複雜となつて、女性は戰列を離れ、専ら宗教的職司を執ると共に、女王の名は單なる空名と成つて、被征服者の位置に傾向した。其の後家長權の確立すると共に、男性の權威は終に女性に優越して女性の屁の權利は無視せらるゝに至り、欽明の朝の佛教渡來は更に又女權を窘迫(きんぱく)して、遂に便所ですら高聲(こうせい)で屁をすることを顧慮するやうに成つたのである」

 溝口は〈屁〉における男女の差異を解説して、まずは「配剤の妙」を指摘する。これは、まあ、屁の男らしさ女らしさを言っているわけだね。次に、女性の屁が少ない理由を歴史的に語るのであるが、要するに、人間社会の発展と複雑化にともなって社会組織は男性優位の構造化が進み、女性の「屁の権利」が駆逐されたと言っているわけである。

 なかなか鋭い見方であると思うよ。〈屁〉というものが人間関係(社会)の中で現象することを男性・女性という視点から分析している。「配剤の妙」にしても「屁の権利」にしても、その現象は好もうと好むまいと大筋で男性優位(上位)に左右された産物なのである。

 〈屁〉的現象における男女差がそのまま社会の人間関係を映しているという点で、われわれは〈屁〉を社会学的言語で論じることもできるのさ。
posted by 楢須音成 at 23:22| 大阪 | Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。