2006年04月05日

屁文学は未完の大陸なのだろ〜ヵ

 「作品探求」としていくつか作品を取り上げてきたが、ここで音成が着目しているのは、そこに〈屁〉はいかに現象しているか、ということなのだね。〈屁〉を語る作品ではあっても、現象する〈屁〉そのものが眼目(テーマ)となっている作品は極めて少ないわけさ。

 これまで取り上げてきたのは明治以降の作品である。近代人が描く作品として、深浅はあれども自我という人間心理を見据える視点(内面志向)をもって〈屁〉を描いているね。そこはやっぱり近世の戯作の姿勢とは違うのである。

 近代的自我の「合理精神(実学志向)」や「個我の自覚(内面志向)」という二面性は〈屁〉にも及んでおり、これは「研究(化学分析など)」とか「心理(人間分析など)」とかに目を向けることで時代の波をかぶってはいるわけさ。

 もちろん文学作品は内面志向によって描かれる。〈屁〉の文学的なアプローチもしかりだが、そういう模索は常識とか道徳とか理念とか、共有を強制する観念の側から描かれるわけではないんだね。もっとも、文学にはストーリーという枠組みの強制力(そこにはキモチ良い時間の整合性がある)を心地よしとする習癖もあるから、内面志向を上滑りさせる(観念に流れる)恐れはあるものの、時代を映して〈屁〉もまた近代的な表現を獲得してきたわけである。

 内面志向というのは心身の人間的な現象に向き合う姿勢である。心身という場合、「心」に傾くか「身」に傾くかでニュアンスは変化するのだが、そもそも〈屁〉の場合は(音もニオイも強烈だし)「身(身体の諸要素)」に傾くきらいがあるわけさ。(もちろん心身は表裏の関係だけどさ)

 では、〈屁〉的現象(の深層)をふまえた屁文学の最高峰は登場しているか?
 これまで取り上げてきた明治以降の作品を、ちょっと強引にまとめてみよう。

 『おなら次郎吉』(長谷川伸、1925年)制御不能の放屁がもたらす地獄:テーマ性→人情
 『屁』(新美南吉、1940年)クラスに放屁癖の男がいることによる波紋:テーマ性→社会
 『お奈良さま』(坂口安吾、1954年)〈屁〉を禁止する勢力との闘争と夫婦愛:テーマ性→死・愛
 『中城ふみ子のおなら』(金沢恒司、1956年)末期の女性の放屁にこめた愛惜:テーマ性→死・愛
 『屁学入門』(藤本義一、1971年)屁の研究家のドタバタ:テーマ性→研究
 『へへへへもへの』(藤本義一、1978年)屁の研究家のドタバタ:テーマ性→研究
 『放屁抄』(安岡章太郎、1972年)女性の前での放屁が心的外傷となった男の救済:テーマ性→性

 文学的な深浅はともかくとして、各作品の〈屁〉に対峙する(あるいは〈屁〉が喚起する)テーマ性を取りあえず挙げてみたのである。

 こうみると、まだまだ〈屁〉の文学表現は達成された範囲が狭いんだね。というか、端的に、作品が少ない→作家があまり取り上げない→文学的表現になじまない(書きにくい)→だって〈屁〉なんだもん、ということになる(のかな?)。

 逆に言えば屁文学とは未完の大陸なのである。


posted by 楢須音成 at 02:25| 大阪 ☔| Comment(2) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年04月11日

続・屁文学は未完の大陸なのだろ〜ヵ

 屁文学というようなジャンルが確立(認知)されているわけではない。それでも〈屁〉の文学は細々とではあるが、綿々と語られてきたし、これからも語られるだろうね。『一発』をまとめた中重徹が別の著書『新編 薫響集』のあとがきで、屁文学への見解を披瀝している。

 要旨はこうである。

 ──昔から放屁に関する戯文をもって文学の外道と白眼視する人もいたが、そういう考え方は人間の真実性を歪曲している。人間第一主義の近代の新しい文学論によってそれは一蹴される。(中重はフランスのグールモンの言葉を引用しつつ)すべての文学は消化器系と生殖器系にに分かれる。つまりは「消化器系→屁の文学」「生殖器系→愛の文学」であり、両者はあたかも左右の手のような関係である。ところが、両者への評価は雲泥の差がある。これは昔も今も変わりない。特に上代文学では屁は完全に無視された。日本文学の淵叢(えんそう)である古事記は全くの生殖系文学であり、屁は出てこない。
 こういう不均衡は時代を追って是正されてはきた。室町末期の一休、江戸中期の平賀源内、明治初年の団々珍聞(まるまるちんぶん)などが援護射撃もした。しかし、それでもなお、〈屁〉は末座にある。もちろん、いつまでもそうである理由はないはずだが。
 屁の宿命説では、屁は時により、かのガルガンチュワのように、すかし屁でも風車の四つを回せるエネルギーはあるが、残念ながら人間の運命を転換するほどの情熱には欠けているという。卓見である。しかし、「わが親の死ぬるときにも屁をこきて にがにがしくもをかしかりけり」という狂歌を親不孝と切り捨てた松永貞徳の評言の浅はかさと俗人ぶりはいただけない。
 ともあれ、消化器系文学の偏見は是正されつつある。屁は末座に変わりないが、末座こそ屁文学の唯一の母体なのだ──

 大体こんなことを言っている。中重の言う「末座」とは〈屁〉の貶められた処遇の位置を言っているわけだが、〈屁〉は日常のあらゆる場面で軽んぜられ、観念のあらゆる展開で軽視されているわけなのさ。そういう無用の〈屁〉だって、〈愛〉や〈涙〉と同様に心身の現象には違いないのに、最近の心身現象の解明(哲学とか脳生理学とか心理学とか)においても、〈屁〉は顧慮されず末座以下の扱い(全く登場しませ〜ん)ではある。

 中重が憤慨している松永貞徳の態度もまた、これほどの人でも〈屁〉というものを顧慮(洞察)しない(できない)困難さを示す。だけど、「わが親の死ぬるときにも屁をこきて にがにがしくもをかしかりけり」という〈屁〉的現象を観照するのに特別な資格はいらないわけさ。わかる人にはわかるんだよ。

 さて、日本の近・現代文学における〈屁〉の作品の様子を前回まとめたが、作品が萌芽的にしか出現しない状況は広がりという点でまだまだなわけである。形式的にも短篇だもんね。さらに長く、広く、深く大河的に〈屁〉が作品化されることが期待される。

 かくして、中重が言うように「末座こそ屁文学の唯一の母体」なのであるが、この「末座」の含蓄をもって探求することこそが屁文学のめざす大陸なのですぞ。
posted by 楢須音成 at 07:30| 大阪 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年04月18日

音楽肛門が奏でる〈屁〉の歌を聴け

 放屁の芸は「奇芸」としてとらえられるわけだが、これを主に医学的見地から取り上げた記述が『奇・珍・怪』(田中香涯著、1953年、鳳鳴堂書店刊)に出ている。「人體奇藝の見世物」という章の一節である。

 田中香涯(1874-1944)は医者であり医学知識を背景に江戸時代の風俗・人情・習慣などを渉猟し研究した人。この本は人間の「奇形」(別に悪い意味で言ってないよ)を様々の角度から集めて(科学的に)論じている。読めば、人間というものが容易に「奇(なるもの)・珍(なるもの)・怪(なるもの」と行き来し、つまりは隣り合わせに生きているということを教えてくれる。人間の存在のあり方(現象)の不可解さを、驚嘆と納得をもって思い知るのさ。

 〈屁〉もまたそんな人間の一現象なのであるが、田中は「人體奇藝」の一つとして〈屁〉を取り上げているんだね。ここでは「一旦嚥み下したものを再び随意に吐き出す奇藝」「眼球を自由に出没せしめる奇藝」「不具者の足藝手藝」「耳より聲を發する奇藝」「腹を洞穴のやうに凹せる奇藝」「放屁漢の奇藝」「齒力の奇藝」の七つを紹介しているが、その自らのスタンスをこう述べている。

「江戸時代の見世物には、與太(よた)ものやインチキものが多かつたが、併(しか)しまた今日では見られない珍奇の見世物も尠(すくな)く無く、その中にも不具者や異常畸態の人間によつて演ぜられた種々の奇藝に至ては、醫學の方面より觀ても好個の参考資料として興味を感ぜしめる者が稀ではない」

 さて、〈屁〉であるが、まず紹介してあるのは、平賀源内の『放屁論』の材料になった江戸の人物。音成もしばしば取り上げてきたね。江戸・両国や大阪・道頓堀の見世物小屋で興行した放屁漢で「霧降花咲男」とか「曲屁福平」とか名乗った人である。

 彼の芸は源内『放屁論』や同時代の木村孔恭『蒹葭堂(けんかどう)雜録』に描写されている。『放屁論』からは何度も引用しているので省略し『雜録』によれば、「梯子屁長刀屁などいへるものは更なり、三絃、小唄、浄瑠璃に合せ、面白く屁をひりわけたり」となっていて、放屁音を歌舞音曲に合わせてかなり自由に操っている(制御している)のがうかがえるわけさ。

 田中はその制御の仕組みについてフランスの医学者の所見を紹介しつつ推論している。(福富織部の『屁』でも医学誌「メヂチーネル」を典拠に同様の紹介がある)

 フランスのウエルノイユが見た放屁漢は、直腸下端の組織内に気瘤があり、上部より圧力を加えると内部の空気を圧出して笛筒のような作用で音調(調子)と呂律(旋律)にかなう音響を発したというのであるが、これを「音楽肛門Anue Musicale」と言っている。また、痔瘻や肛門奇形症の者にもこういう「音楽肛門」と言ってよいものがあったという。放屁に関わる身体の解剖的変化(構造上の変異)を認めているわけである(Aパターン)。

 さらに、同じフランスのボーズアンが見た事例では、大腸下部の運動が随意的(自由自在)に行われるもので、まず空気を直腸内に吸い込み、次にこれを放出して音響を発するのだが、その際に肛門括約筋が調節力を有して、風琴やラッパなどの楽器の音を模倣するのである(Bパターン)。これは口笛みたいな感じだね。その演技は尻をあちこち振ることも種々の音を発するのに供し、また少しも不快な臭気はなかったという。

 かくして田中はこれらのA、Bパターンをもって、少なくとも日本の放屁漢も直腸内に随意に外気を吸いこみ、これを放出するときに肛門括約筋を巧みに調節して呂律(ろれつ)のある音響を発したのであろう、と推論しているのさ。

 この本は放屁芸を身体の「奇形」として取り上げ、〈屁〉というものを医学的所見で位置づけているわけである。一つの〈屁〉的現象が特異な身体構造を踏まえて起ち上がってくる様(根拠)がわかり、どうでもいいようなものの、面白いね。

 田中は時代的に「曲屁福平」のあとに登場する、大阪の遊郭にいた「綾鶴(あやづる)」という放屁太夫のことも紹介している。福富織部の『屁』でも紹介されているこの太夫については、別の機会に触れることにしよう。もちろん、このほかにも現代に至るまで「放屁漢」の系譜は続いているのである(らしい)。
posted by 楢須音成 at 01:15| 大阪 | Comment(0) | TrackBack(0) | 文献探索 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年04月23日

続続・屁文学は未完の大陸なのだろ〜ヵ

 実のところ、近・現代に至るまでに「屁文学」は江戸時代に開花していたといえる。俳諧、川柳、狂歌、戯作などにおいて〈屁〉は隠蔽されることなく表現域を獲得しており、笑いや人情の機微を掘り当てるネタ(またはジャンル)として相応の探求の流れを用意してはいたんだね。

 ただし、明治と元号が変わったからといって近代文学が生まれるわけではないように、〈屁〉が文明開化でいきなり「近代化」した表現を獲得するわけもなく、逆に表現域は凋(しぼ)んでしまったと音成は思っているのさ。二葉亭四迷の『浮雲』(の表現世界)に〈屁〉はとんと無縁だし、近代文学は文学表現の世界に〈屁〉をなかなか認知してくれないのである。(笑いの文学が育たないというような日本文学の潮流は技術の問題じゃなくて、現象に対して向き合う人間たちの資質の問題さ)

 では、江戸期の屁文学の大陸は明治の文明開化の波に洗われてどうなったのか。表現を担った主流の人たちは戯作者といわれる当時の小説家(や愛好家)たちであるが、彼らの事情を『新編 薫響集』がこう解説している。

「この時代においては、江戸生き残りの小説家である戯作者たちも、武士階級にもまして不安な生活状態に追い込まれていた。(中略)そういう戯作者たちをすくったのは、新時代において、ぞくぞく創刊された新聞、雑誌の世界だった。(中略)ジャーナリズムに生活の場を見い出した作家たちであってみれば、いずれも人目をひく記事によって筆を競うことになった」

 かくして、衆目を集める〈屁〉が新聞や雑誌にしばしば登場することになる。『新編 薫響集』から紹介する。

「放屁で罰金五円
 京橋区木挽町六丁目に住む長崎県士族深川弥作は、横浜より汽車に乗り、新橋まで来かかる途中、いかにも腹が筋張りて堪らねど、中でやっては、他の人に気の毒と、ぐるりと臀をまくり、窓からブーッと一発やると、遂にその筋の聞く、否、嗅ぐところとなり、鉄道規則第六条に依り罰金五円申し付られたるは、昨十八日のことなり」(東京日日新聞、明治十四年十一月十九日)

 他愛もない新聞記事だが、そもそも〈屁〉で法外な罰金を取るという事実に時代的な可笑しみを感じているんだね。可笑しみを提示する批評精神(パロディ)による建白書なるものも登場する。『一発』から(原文はカタカナだが、ひらがな表記で)紹介する。

「ご維新以来、新令朝暮に出で、御実行の立ちたるはすくなし。ひとり税則のみ、御実行相たち、雪隠・沐浴場の如き、至つてけがらわしきも、いとはせられず税をとり給う。恐れながら天皇は希世の聖明にて上に在り。官吏は抜群の賢良なれば、下々の疾苦は「屁」ともおぼしめさず、その(税を)取る事における、至らざる所なし。(中略)しかれども、いわゆる、鷹の目にも見落しとか申す如く、いまだ尽くさざるもの五ヶ条あり。
その一に曰く、盗人の税。
二に曰く、贋の楮弊(ちょへい)の税。
三に曰く、子産の税。
四に曰く、食物の税。
(以上の四ヶ条の細目は省略)
五に曰く、放屁する者の税を取るべし。
日々飲食し、いたずらに放屁をなす。方今しきりに開拓すれども、糞肥足らず。然るをみだりに放屁を発し、糞の精気をもらし、甚だ不埒なり。よろしくこれを厳禁し、肥料を足らしむべし。
もし過つて放屁する者は必ず税を出さしむべし。これ屁を放りて尻をすぼめるなり。古語を按ずるに、屁は体の作るもの、ぶうぶうとラツパを吹き、ぽんぽんと放発す。これがために金穀を費やし、肝心の時には糞の役にも立たず、是は無益とはじめて心付く。これをさして、尻をすぼめるとは云うが如し。放屁の税を取るの策をたて、よろしく皇国を肥やすべし。
右の条々、天下今日の急務なり。足下(横山正太郎)は無駄腹を切って建言せられしこと、世上に於て称賛す。足下にあらずんば、政府をせむる者や無かるべし。よろしく(政府に)ご執奏頼み入り候なり。
庚午(明治三年)十月
             桑奈井入牢青綬(くわないにゅうろうあおさし=貧しくて食えず、銭さしに銭もない)
             大木二古丸減三(おおきにこまるげんぞう=大きに困るけんぞう)
             宋竜甚六郎鼻垂(そうりゅうじんろくろうはなたれ=総領は甚六で鼻ったらし)
横山正太郎 殿
        泉下     」

(この建白書は、語呂合わせしたオフザケ三人組の連記。横山正太郎というのは薩摩藩士で、当時の日本を憂えて集議院に建白書を出し諫死した人。三人が横山に建白しているオフザケである。どうかと思うけどねー)

 福富織部の『屁』では彼らを操觚者(そうこしゃ=今で言うジャーナリスト)と呼び、〈屁〉を表現の対象にした一つの意図を次のように指摘している。

「(また一方で)屁は、操觚者の為に、重要視せられてゐた。いひかえると、政府攻撃の有力なる資料となつて居る。つまり、正々堂々と反對をするに於いては、直ちに捕へられて、牢獄にぶち込まれねばならない。そこで、屁といふ愛嬌者を捕へ來たつて、時事を諷刺することが多かつた」

 こういう状況が江戸の屁文学の延長にある〈屁〉を襲った文明開化の一つの波なんだね。日常生活における〈屁〉の突飛さや可笑しさが、時代の波に乗って事実への好奇心やナンセンス、パロディの批評精神によって掬い上げられたのである。戯作者崩れのジャーナリストたちが手練れの筆を振るって〈屁〉を取り上げたわけさ。

 もっとも、〈屁〉に関して近代的な批評精神がすくすくと育っていった形跡はなく、ただ可笑しいだけの衰弱した笑いに堕する面が強く、戯作者たちに発祥する(戯作という流儀の)〈屁〉の表現獲得の流れは途絶えていく。日本の近・現代文学における〈屁〉の作品との断絶感は否めないのである。

 文明開化で凋んでしまった江戸の屁文学(の系譜)ではあるものの、もちろん面白い作品はあるよ。近代を語るなら、こういう作品群も視野に入れて屁文学の大陸を探検してみないといけないのである。
posted by 楢須音成 at 00:09| 大阪 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年04月27日

〈屁〉はなぜバビブベボなのか

 全く〈屁〉について語っているわけではないが、そのまま〈屁〉についての重要な指摘になっている卓見を示す本がある。『怪獣の名はなぜガギグゲゴなのか』(2004年、黒川伊保子著、新潮新書)は、言葉の音のサブリミナル効果(潜在意識に働きかける効果)を分析している。

 すかし屁は別として、〈屁〉と音は切り離すことはできないわけだね。屁音は〈屁〉の重要な属性なのである。すでに福富織部の『屁』では「(屁音は)東西古今殆んど共通してゐる。即ちハ行にあらずんば其の濁音、半濁音、バ行か、パ行である。HかFか、BかPか、罕(ま)れにVである」と指摘していたが、『怪獣の名は…』では音の持つクオリア(触感)を明快に解き明かして示唆を与えてくれる。

 日本語では「ハ行」「バ行」「パ行」あたりに屁音は集約されるが、発音(口腔内の空気流と発声音の関係)に着目すれば、次のような関係になるね。

 H音=ハ・ヒ・フ・ヘ・ホ
 F音=ファ・フィ・フゥ・フェ・フォ
 B音=バ・ビ・ブ・ベ・ボ
 P音=パ・ピ・プ・ペ・ポ
 V音=ヴァ・ヴィ・ヴゥ・ヴェ・ヴォ

 特に屁音の直接的な音のインパクトは「B音」「P音」「V音」に潜んでいるわけだが、「B音」について黒川はこういう指摘をしているのである。

「B音は、閉じた唇から溜めた息を放出させ、両唇を震わせて出す音である。発音直前の溜めた息が唇を膨らますので、私たちの脳には、まず、膨張の印象が強くもたらされる。『膨張』のボウは、まさに膨張のイメージとシンクロする音だ。Bに続く二重母音ouが、膨張した唇の膨張感を逃さないのである。これに対し、Bに続くのがaだと次に来る息の放出が強く印象に残ることになる。
 膨張の次に来る放出は、私たちの脳に力強さ、すなわちパワーや迫力を感じさせる。次に両唇が振動するので、繰り返しの生理イメージがあり、分裂や増大する印象が残る。
 さらに、息を溜めて放出されるB音は唾も飛ぶ。湿度感、粘性も比較的高く感じられる音だ。さらに唾が飛び散るイメージから来る賑やかさのクオリア、うるささのクオリアも、この音の特徴だ。
 両唇を震わせるこの音は、乳児や、まだまだおっぱいの恋しい口唇期の幼児には、ものすごく気持ち良い音である」

 別に黒川は〈屁〉を念頭に分析しているわけではないが、念頭において読めば、実に示唆的ではないか。「P音」も加えて、こうも指摘している。

「PやBのように唇を使って出す音は、赤ん坊が意図的に出す最初の子音である。上下の唇のテンションで、口腔内の空気を破裂させて出すP音と、両唇を振動させるB音。唇に刺激のあるこれらの音は、口唇に意識が集中している授乳期の赤ん坊にとって、とても気持ちが良いのである(その快感度は、大人の想像を絶するはずだ)。空腹でもなく眠くもなくオムツも汚れていない赤ん坊は、プゥ〜とかバブ〜などと、一人で機嫌よく破裂音や両唇音を出している。母親なら誰でも知っている光景である。
 ちなみに、気持ちよいPの拍(パ行音)のうち、息子が一番好きだったのはプ、正確にはその長音プーだった。息子が好んで出す音を観察しながら気づいたのだが、実際に発音してみて、なるほどと思った。パ行音のうち、Puが最も唇がリラックスしている。このため、Puを長く伸ばすプーは、破裂(Pの特性)と振動(Bの特性)の両方の生理的快感を得られるのである。
 そういえば、『くまのプーさん』は、世界中で愛されている。プーが気持ちよい、というのはうちの赤ん坊だけの特性ではないようである。
 また、Bの拍(バ行音)で、破裂と振動の両方を楽しめるのはバーとブーになる。この二拍を使った『バブバブ』は、赤ちゃん言葉を代表する定番の擬音語だ」

 実に明快である。屁音(のクオリア)というものは本来は「キモチイイ」音に属するものだということが、暗に指摘されていると読まねばならん。この本は〈屁〉のことなど何も考察していないが、「文献探索」の一書に挙げるのに躊躇しないのである。

 もっとも、屁音は発した途端に暗転するのさ。周囲はどよめき鼻つまみとなる。黒川の指摘は吹き飛んでしまう。何故だ〜。
 屁音のサブリミナル効果は最終解決していないのである。
posted by 楢須音成 at 23:58| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 文献探索 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。