2006年02月04日

続・〈屁〉の考察が戯作となるのは何でだろ〜ヵ

 〈屁〉に関する考察が戯作(作品)となる事情はどういうところにあるのだろうか。
 考察とは論をなすことであるから、何らかの体系化をめざすものなのであるが、ダリの『「放屁の術、または陰険な大砲に関する概論」の抜粋』の論の展開はこんな感じである。

「三流文法学者は、文字を母音と子音とに分類しています。つまりこれらの諸先生は一般に素材の上っ面をそっと撫でているにすぎません。しかし、その素材のあるがままの姿を感知させ、かつ吟味させることを公然と主張しているわれわれは、屁を厳密に『有声』と『無声』、あるいは『すかしっ屁』とに分類しようというのであります。
 有声の『屁』は当然のことながら、それらがつくりだす音の相異なる種類に応じて、ちょうど下腹部が爆薬で満たされているというごとく、放屁するという意味で『Petards』とよばれています。この点につき、ウイリシウス・ジョドシュスの《ペタール》に関する論文を参照されたい。
 ところで、その『ペタール』は、乾燥した水蒸気によって製造されたうるさい爆発音であります。
 それはその成因や諸条件の如何によって大きくもなり小さくもなる。
 大きな屁はとりわけはっきりとした有声、または有声であり、小さなものは半有声とよばれる」

 一読すれば、ここでも滑稽味が漂っているね。ただし、言っていることは論理的だし、特に異論をはさむ余地もなく「そうだよね」とうなずけるような内容ではある。(そうでない人もいるかもしれないけどね)

 ダリの言っていることはこうである。文法学者は上っ面だけ見て文字を母音と子音とに分類するが、われわれは〈屁〉のあるがままを実地に感知・吟味し、厳密に有声(の屁)と無声(のすかしっ屁)に分類する。さらに有声の屁の爆発音(ペタール)は成因や条件によって大きくも小さくもなるのであると指摘しているんだね。

 前回触れたような大仰な語りのスタイルで語られるわけだが、スタイルになっている「分類する」「成因や条件を指摘する」という論法(分析)は、もちろん作者の意図するところである(考察するわけだからね)。ただし実のところ、スタイルは滑稽味を加速しているだけであって、滑稽味が漂う根拠は〈屁〉そのものにあるんだよ。

 では、〈屁〉そのものの滑稽味とは何か。
 われわれは〈屁〉と声にしただけで笑ってしまったり恥じ入ったりする心性があるね。言葉以前の現象として〈屁〉はわれわれの日常生活に場面を持っていて、すでにわれわれは〈屁〉的なことを振る舞っているわけさ。身も蓋もなく言ってしまおう。われわれには〈屁〉の日常的地平において、もともと〈屁〉には分類したり成因や条件を云々する価値はない(論ずるに足らず)という、抜きがたい心的基準(偏見)が存在しているのさ。われわれが屁をしたり〈屁〉を声にした瞬間に笑う(または恥じ入る)のは、無価値なものという意識下の評価があるからである。

(われわれが〈屁〉に対して意識下で「無価値」「論ずるに足らず」という基準を持ち込むのは、本質的には〈屁〉的現象が常に恥を内包しているからである。恥に絡んで〈屁〉の無価値や笑いが発生してくる過程は独特であり、これはまた別の深い議論になる。この心的基準は〈屁〉を全否定ができないところで成立している二律背反である)

 さて、無価値なものは無視するのが正統である。それをあえて口にしたり論じること(スタイルをもって振る舞うこと)をすれば、一般に語る本人よりも受け取る側でより滑稽感が生まれる。語る本人はそれを意識下で自覚しており、そこから心的な先回り現象(可笑しいことを可笑しく語ろうとする)も起きるのである。

 ともあれ、無価値な〈屁〉を語れば滑稽味が漂う(可笑しい)のである。まして「考察」となると滑稽味は加速する。〈屁〉の「考察」においては考察という振る舞いが作者の意図である。だけど、語る価値のない(議論するのが無意味な)〈屁〉を敢えて考察することは一種の自己矛盾だよね。ここに戯作となる契機がある。

 戯作という「作品化」においては世界(時間)の現出があるわけさ。
 世界とは意味があり無価値ではないのだが、〈屁〉の無価値を踏み越えて考察を強行する(無理に意味を持たせようとする)ことによって、一種の虚構(事実または事実っぽさの演出)へと冒険してしまうのである。もともと〈屁〉は解明されていない(ほとんどそういうことをしてこなかった)現象だから定説がないし、〈屁〉の考察における虚構とは、ホントのようなウソのような強引な議論なのさ。戯作と言われる由縁である。

 先に引用した「屁を厳密に『有声』と『無声』、あるいは『すかしっ屁』とに分類しよう」という、ダリの論法は間違ってはいないようだが、「厳密」に考えると、恣意的(表面的)分類と言わざるを得ないね(本質的な分類基準か?)。恣意的なのだけれどダリは敢えてそれを絶対化して(基準にして)論を進めるのである。

 ダリの場合、この「有声」と「無声」(つまり、音のあるなしや大小)に随所で大変こだわっているのが面白い。その視点から〈屁〉の考察は展開し、そこに成因や条件が結びつけられていくという手続きなのである。

「二重母音的屁が雷鳴より恐ろしいものならば、またそれに続く落雷が多くの人の肝をつぶし、人びとを聾にし、また他の人びとを茫然自失させるものならば、二重母音的屁が雷鳴をこそ伴わなくとも、たんにあらゆる雷電の事故をもたらすだけではなく、また、たちどころに、生来臆病で偏見に支配されがちな人びとを殺傷することができる、ということは疑う余地がないのであります。われわれはこの屁の構成要素と、また極めて強大な風圧を理由にそのように判断するのです。この風圧は、解放されて、噴射の際にかくも激烈に外部の気圧を振動させるがために、瞬間的に、脳のもっとも精妙な繊維を破壊したり引き裂いたりむしり取ったりすることができ、さらにただちに、めまぐるしい頭の回転運動を与えて、風見のように頭を肩の上で回転させたり、第七脊椎において引きのばされた骨髄の皮膜を破壊したりすることができるのであり、またその破壊作用によって、死をもたらすこともできるのであります。
 これらすべての原因は、カブ、ニンニク、エンドウマメ、ソラマメ、カブラの根などを食うことによって創られるのであり、また一般に、呪術的効果が認められているすべての風を生む食物によって生成されるのであります。さらに、それらはわれわれが屁の発射の際に聞く明瞭な、連続的なそして間隔の短いひびきを形成するのであります」

 ここでは幾層もの世界が提示され時間が生起している。ダリは肉体という条件の下で生起する〈屁〉を様々なイメージによって描写的に考察しているわけだが、極限に達した二重母音的屁(連続的な有声の屁)の爆発音の破壊力(影響)を人の生死を左右するものとして語る。われわれはこれを読み、笑い、〈屁〉という爆発音の極限を知って、熱い「恥」の感覚とともに身辺のパーソナルな〈屁〉のエピソードを思い浮かべるかもしれないね。

 かくして爆発的に出現する〈屁〉の影響を語るダリの放屁ワールドは、ホントのようなウソのような世界(虚構)の論理へと踏み込んでいくのである。

 以上のまとめをしておく。
 第一レベル「〈屁〉を振る舞う→笑いや恥がある」←言葉以前の現象
 第二レベル「〈屁〉は無価値→語るに足らず」←意識下の心的基準
 第三レベル「〈屁〉を語る→スタイル(論法)を用いる」←滑稽味の発生と加速
 第四レベル「〈屁〉が虚構化される→戯作の世界を生む」←作品化

 われわれの意識は第四レベルに向かう。このとき意識は、行きつ戻りつスパイラルな動きで〈屁〉的現象を感知・吟味し、〈屁〉の作品化に向けて自らを振る舞っているのさ。


posted by 楢須音成 at 00:14| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月05日

屁に色はあるやなしや

 屁に色があると断ずることはできないようだ。採取した屁はことごとく無色であるというのが定説である。
 福富織部の『屁』で屁の色について考察しているのを紹介する。

「一般には、黄色とされてゐるが、之は糞便の色から類推した結果であつて、謂はゞ想像にすぎない。南方熊楠氏は、曾て屁の色の研究を志し、湯の中に入つて放屁し、之を試驗管に取つて燃やしてみたり熱して見たり、いろいろやつてみたらしいが、少年時代のことであつた爲、うまくゆかなかつたらしい。従つて屁の色が黄味を帶びてゐるといふようなことは、まだ発表されていない。
 今屁の主成分の個々を取出して檢査してみると、窒素といひ、二酸化炭素といひ、叉水素といひ、メタンといひ、インドールといひ、悉くこれ瓦斯體であつて、瓦斯體である間は何れも無色である。故に屁は無色であると斷ずることが正當である」

 このように論を進める一方で、織部は不思議な論を持ち出す。白いフンドシなどが幾分黄味を帯びていることがあるのは、屁の色ではなく、腸の微細な内容物が付着したものであると、一応は否定しながらも、こういう考察を繰り広げるのである。

「若し叉糞尿の微分子が、屁と同時に放發されることを想像するならば、當然其の人の糞便の色に伴ふものであるから、之は頗る多種多様であって、一概に黄とか黒とか云う單純な色彩に依つて一般を律する譯にはゆかない」(と、論を転換し、食物によって糞便の色が変わるウンチクを傾け、その糞便色の変化をもって五色の屁のひりわけも可能だというのである)

 おいおい、内容物から微分子に目を転じて何を言い出すのやら。屁の色は無色だけれど、糞便の微分子によって色つきの屁になるというわけさ(笑)。ありえねー、と思うけどさー。

 織部の執着ぶりが面白いね。
 色を敢えて想像するなら〈屁〉は黄色系統となるわけだが、織部はこれを否定しながらも、色を付けたいんだね。何とか色が付く根拠を述べているわけである。(事実または事実っぽさへの冒険だね)

「人糞の色彩は病的でない限り普通暗褐色を帶びている。是は變化せる膽汁色素を混入してゐるからであつて、この理由から云へば、屁は暗褐色でなければならない。また糞の色は其の攝取する食物に依つて異なるものであるから、糞と屁とが同色であるとしても、其の色は常に多少變化して行くものと見ねばならない。即ち肉類を多食するものは暗褐色を帶び、牛乳を飲む人、母乳に育てられてゐる子供のは鮮黄色、鐵鹽(鉄塩)類なれば濃暗褐色、コゝアは褐紅色、葡萄酒、苺が黒褐色に緑色様の光を帶びてゐる。さすれば自分の好む處の色彩を帶びた屁を放り出さうと思つたら、適当に其の食物を撰擇して取れば、昔両国で興行して當たりを取つたという曲屁福平のように五色の屁の放り分も出來る筈ではある」

 人は見えない〈屁〉を何とか見たいのである。そういう潜在的な渇望(屁への思いのほか深〜い渇望だよ)によって、〈屁〉というものが色をまとう根拠をめぐる議論があるわけなのさ。
posted by 楢須音成 at 05:05| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月08日

江戸の嫁たちは〈屁〉に泣いた

 江戸川柳には〈屁〉を題材にしたものがたくさん出てくる。古川柳の世界に江戸の排泄文化を探求した『江戸のおトイレ』(渡辺信一郎著、2002年、新潮選書)には、「於奈良(おなら)」という章が設けられている。「屁」に対して「おなら」、「トイレ」に対して「おトイレ」という言い方は女性のものであるが、渡辺は女性を通して江戸のトイレ文化の構造に迫っている。(この本は前著である『江戸の女たちのトイレ』(1993年、TOTO出版)を発展させ集大成したもの。どちらも面白いよ)

 渡辺のスタンスは@庶民文化の褻(け)の世界(生存には必要不可欠であるが、公にはしない部分)を描くA全容をとらえるためにはトイレの使用が多様な女性を通して描くことが必須──というものである。逆に言えば古川柳には、排泄文化の褻(け)の世界が描かれ、それも女性を題材にしたものが多い(多様な特徴を有する)ということなんだね。

 古川柳という人情の機微に徹する表現世界を素資料にして展開しており、一つ一つの川柳を読み解くことで江戸の庶民の生態が生々しく伝わってくる。排泄文化というのは渡辺の造語だそうだが、その一角に「おなら」を据えているのは慧眼である。
 大体、排泄という観点から世評高いリサイクル都市・江戸を語るとき、糞尿は明快だが、屁はどう転んでもリサイクルにはならないもんね。リサイクルという機能性を追求する立場からは〈屁〉って無意味な現象でしかないわけさ。渡辺はそうじゃなく、〈屁〉という、まさしく褻(け)の深層をもって排泄を語ろうとしているのである。

 さて、この本を読むと「おなら」の古川柳に登場するのは女性、それも「嫁」が圧倒的に多いのである。なぜだろうねー。

「現代でもそうであるが、女たちは人前で放屁をしないように心掛け、はしたないとか不躾に陥らないように気を配っている。

     屁をひりに嫁は中便たれに行き・一二○39

 ガスが腹中に溜まって放出するのを堪えるのは、中々つらい事ではあるが、本来ならばすぐに放つのが最適である。しかし、他家へ嫁いで来たばかりの嫁はそれをじっと耐えて、トイレに密かに赴く。大便でもなく小便でも無いので、放屁を「中便」と表現した可笑しみである。
 ガスが溜まってくると、嫁は我慢に我慢を重ね、その果てにやっとの事でトイレに到達し、そこで静かに放つ。その様相は、

     一つ屁を花嫁七つ程にひり・明八鶴2

と描かれる。いっぺんに放出すると音高くなるのを警戒して、それを小分けにして出す。なぜ「七つ」なのかは不明であるが、語呂がよいためかも知れない。俚諺に「色白は七難隠す」(色白の女はほかに醜い点があっても目立たない)というのがあるが、これを下敷きにしたとも考えられる。ともかく、一つ屁を放るにも嫁の苦労がしのばれるのである」

 女性はおおっぴらに放屁をすることはないんだけれど、このように川柳の〈屁〉に嫁が頻出する理由は、当時の嫁の社会的地位に関係していると音成は思うわけさ。

 〈屁〉的現象というのは恥を内包していることは言うまでもないね。江戸時代の嫁はこの〈屁〉の恥を最も感じる身分(立場)だったのだよ。嫁は放屁の露見に相当な恐怖心を持っている。〈屁〉という無作法をしでかすことは、嫁の羞恥(や恐怖)が大きければ大きいほど、格好の川柳のネタ(可笑しみ)になったんだね。

 一般に社会の中で羞恥というのは力関係(立場)に左右される。簡単に結論だけ言えば、力の強い者ほど羞恥に鈍感になるのである。だから男性上位の社会では女性の方が羞恥をより感じる。女性の中でも下位にいる弱い者が羞恥をより感じる。万人が平等に抱え込んでいる〈屁〉においても、そういう羞恥のヒエラルキーが厳然と存在するのである。そこからも江戸の嫁は不安定で弱い立場であったことがわかるんじゃないか。

「    嫁しゃくりツイとっぱずす屁に困り・しげり柳43

 『とっぱずす』は『取っ外す』で、やり損なう事である。意図的に放屁するのではなく、意外なときに放屁する場合である。(中略)この嫁は顔を赤らめて困惑の極致の状況になる。姑でも側に居れば、「はしたない」と咎められる事になるし、どんな対応をするのだろうか。

     花嫁はひとつひっても命がけ・明七松4

 軍記物語に『恥を見んよりは、死をせよ』(源平盛衰記)とあるが、嫁が人前で放屁すると、まさにこの通りの心情になる。自分の放屁が周囲に知られたとなると、顔を赤らめるどころか、むしろ青ざめて、恥を償うために死ぬ覚悟を固めるほどになる。『命がけ』という逼迫した表現を使っているところが、痛切で面白い。
 放屁の三つの効能として、気分がすっきりする、腹がすく、尻の埃が取れる、と言われるが、これを『屁の三徳』と言う。江戸の嫁たちは、この三徳を実感できないほど、世の桎梏に囚われていたのである」

 「於奈良」の章には姑、下女、娘、遣り手婆さん、女郎なども登場するが、〈屁〉にまつわっては嫁の存在感が圧倒的である。川柳の作者の大部分は男性であろうから、〈屁〉的現象のみならず、嫁へのある種独特の視線があったんだろうね。
posted by 楢須音成 at 00:32| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 文献探索 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月14日

〈屁〉から糞に転向しちゃあかん〜

 〈屁〉に関する作品はたくさんある。福富織部の『屁』や中重徹の『一発』には古今東西の作品が満載である。作品のあるものは音成の「文献探索」や「断片考察」でも取り上げてきたが、これまでは〈屁〉の批評とは何かという文脈において触れてきたのである。
 「作品探求」として少しアプローチを変えて作品を取り上げてみることにする。

 藤本義一の『屁学(ひがく)入門』(1971年、講談社刊)と『へへへへもへの』(1978年、鎌倉書房刊「巷の奇人たち」所収)は〈屁〉に題材をとった小説である。どちらの作品も〈屁〉を研究している化学教師の話で、どうも『おらな粋門記』の著者である藤田保がモデルのようである。

 まあ、モデルとはいっても実録ってわけじゃなく、藤本はフィクションの着想を得たという感じですかね。両作品とも〈屁〉を研究している化学教師が勤め先の学校と対立して辞めてしまうという筋立て(ストーリー)の枠組みは同じである。展開と結末をもって同工異曲の作品となっているが、二つ読んでも重複感なくそれぞれに楽しめるのは藤本の筆力ではある。


「武市の『屁』に対する研究は、町子の想像を遥かに越えていた。画家と蜜柑だけの関係ではなく、もっと深いところに根ざしたものであった。大学の応用化学の研究室に残った武市は、はじめインドールの研究をつづけた。無色の葉片状の結晶インドールは、純粋なものは花の芳香を放って香料の原料となる。単体香料を大別すれば、炭化水素系、アルコール類系、アルデヒド類系等に分けられるが、彼の取り組んだインドールを含む窒素化合物系には人造麝香の他に、インドールという芳香とは別の悪臭を放つスカトールがあることを知ったのが病みつきの原因であった。
 『糞が臭い、屁が臭いちゅうのは、そのスカトールちゅうもんが、ええ匂いを放つインドールの誘導体になっとるんじゃ。悪貨が良貨を駆逐するちゅうグレシャムの法則が経済上あるけれど、まさしく悪臭が芳香を駆逐するちゅう具合なんじゃ』
 コト屁に関しては、彼は人間が変わったのではないかと思われるほど能弁になった」(『屁学入門』)


「へのへのもへの、は、あまねく日本国中に普及しているが『へへへへもへの』は、おそらく読者諸姉兄は、はじめて耳にされることだろう。私とて、はじめて口にし、はじめて文字にした。
 へへへへもへの、を、へのへのもへのの要領で紙に描いて見ると、笑った人の顔になる。なんともいえない幸福そうな顔になる。
 中村草助は、その笑った顔、幸福そうな顔をしている男である。彼は、広島の高校の先生である。年齢三十八歳、小柄でにこにこ笑って、化学の教え方が生徒にはとてもわかりやすい。だから、生徒たちは、
 ──へのへの先生。
 といった具合に呼ぶ。へへへへもへの先生とは呼ばない。その理由は、草助先生が、こよなく『屁』を愛し、研究しているからなのだ」(『へへへへもへの』)


 二つの作品を文学的にどうかと言われれば、基本的には〈屁〉を巡るストーリーや〈屁〉のウンチクで成立していて、登場人物たちは至って平板である。主人公の素朴な〈屁〉への情熱が眼目と言えば眼目だが、〈屁〉の凄みといったものはこの両作品にはないんだね。

 例えば、主人公の存在感は宇治拾遺物語の藤大納言忠家とか、福富草子の乏少の藤太(や鬼ばばあ)とかに比べれば、明らかに見劣りがするのである。その代わり主人公と〈屁〉との関わりはウンチクを傾けて多彩に詳しく述べられているわけである。だけど、そのことが文学(作品)的なリアルさを用意するかと言えば、そうじゃないんだね。

 日本的日常の中で〈屁〉を研究する(と非日常的に振る舞うことになる)アウトローの姿を描いているのだが、この「研究する」っていうところが、いかにも近代人の習性を引きずっているわけさ。明治以前の作品にはないスタイルだね。そういう意味では、象徴的な作品なのである。大体『屁学入門』というのも小説らしからぬ題名でしょ。

 つまり、面白い〈屁〉を「研究する」ことを面白がっている作品なんだね。〈屁〉を「研究する」とどうなるか。主人公の思想、妻の理解、周囲の反応といった日常生活のリアクションが綴られて物語の帰結へとなだれ込むのである。

 軽快な展開だが、ストーリーの積み重ねに〈屁〉の凄みが乏しいのである。作者が真面目すぎるのかな。両作品ともに研究(者)の気迫や成果が〈屁〉の一点(リアルな〈屁〉的現象)めざして燃焼していないんだなー。

 例えば『へへへへもへの』の終幕では主人公は〈屁〉の研究から糞の研究に転じるのだが、ここだけでも結末の風穴(オチ)が実学(糞のリサイクル)へと向いてしまって、音成は失望したね。何で糞に転向するんだい? 話としては「ウンコ酒」を飲んだりして面白いんだけどさ。〈屁〉の神髄は実学じゃないし、そこをはぐらかすのはちょっとね。


「『それは、なんですか』
 『自家製のもものエキスじゃ』
 『はあ…』
 『さ、さ、飲んでみなさい』
 『飲む…』
 『ウンコ酒じゃ、秘伝のウンコ酒…』
 老人は、旨そうに啜りあげた。
 草助と友子は、茶碗片手に顔を見合わせていたが、暗示にかかったように飲んでいた。
 旨かった。甘い桃の香りと、アルコール精分が舌から喉、胃へと浸み込んでいった。
 老人と草助は、いずれからともなく、笑っていた。やっと屁から糞に到着した歓びがあった」(『へへへへもへの』)


 一言=この二つの作品は〈屁〉の研究者やその転向を描いた作品であ〜る。
posted by 楢須音成 at 22:56| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 作品探求 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月19日

屁学博士の称号を与えん

 〈屁〉に関する知識は奇矯なことのように見なされる(ことが多い)。われわれにとって屁は〈屁〉であって、屁以上のものであるのだが、〈屁〉に関することの一つ一つは他愛もないことだと思っている。というか、〈屁〉に関することを、われわれは(心底から)価値あるものとは思っておらんのだねー。

 15問の正解と放屁技術試験に合格したら屁学博士の称号を与える問題が、藤田保の『おなら粋門記』の中に出てくる。真面目に答えるのか、トンチで答えるのか、屁理屈で答えるのか。問題を見れば、幅広い問いの姿勢と内容になっておるわけだが、この脈絡のなさには唖然とするね。(笑)

※引用する。正解は各自でどうぞ。音成は15問はとてもムリでしたわ。

第一問 フランス語で屁をなんというか。
第二問 屁を音のしないようにだす方法をのべよ。
第三問 屁の主成分をふたつのべよ。
第四問 屁は燃えるか、燃えないかを答えよ。
第五問 「清盛のおならは自然に燃えにけり」を解釈せよ。
第六問 おならの歌をうたってみよ。
第七問 「飯は屁のタネ屁は飯のタネ」を解釈せよ。
第八問 屁を採取する実験方法をのべよ。
第九問 屁どめの方法をのべよ。
第十問 屁に関する川柳または詩をひとつだけつくれ。
第十一問 「屁の河童」の意味を究明せよ。
第十二問 医者の前でだしてよいか、悪いか、答えよ。
第十三問 屁の三つの徳について論ぜよ。
第十四問 屁の音と、ニオイとの関係をのべよ。
第十五問 ナギナタ屁、梯子屁を、こいてみよ。
第十六問 スカンクの屁は、ほんとうの屁か。
第十七問 テンシキの意味をのべよ。
第十八問 屁の象形文字を書け。
第十九問 屁のにおいを消してみよ。
第二十問 屁の定義をのべよ。


 さて、出題は分野的には語学系、国語系、化学系、音楽系、医学系、屁の技(術)系という感じで、多岐にわたる。音成としては、「屁の定義をのべよ」を「〈屁〉の定義をのべよ」にしてみたい。
 〈屁〉というのは、業深き人間のアンビバレンスな展開を見せる現象の一つなのであるからして、これはかなりの難問であるに違いない。
posted by 楢須音成 at 09:15| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月22日

〈屁〉が止まらなければ世界はない〜

 明治以降の小説はいわゆる近代小説である。大雑把に言えば、人間をありのままに写そうという近代的自我の表現(制度や理念ではなく人間の側から人間を写そうとする志向)で始まったわけだが、当然のことながら〈屁〉的現象に対する目の向け方も時代の波に洗われるわけさ。まあ、そうは言っても〈屁〉は小説でマイナーな題材であることには違いない。

 文学の表現の中でも〈屁〉はある種特異な題材であるために、下手に取り上げるとただの笑い話になってしまう危険があるんだね。まともに取り上げようとするとつい言い訳が先に立つこともある。あるいは、その特異さを意識するあまり笑いを先回りすることもあるね。(可笑しいことを「ネ、ネ、可笑しいでしょう」と自ら誇示してしまう心的な先回り現象またはその傾向があるでしょ)

 ありのままの人間を描くために近代的自我は様々な手法(仕掛け)を用意してきたが、〈屁〉において陥りがちな下ネタの笑いの横暴を回避するため、長谷川伸の『おなら次郎吉』(1925年)は周到に準備した小説である。(初めて読んだとき、とても面白い小説で感心したよ)
 書き出しはこうである。

「次郎吉が止め度なく出るおならをどうする事も出來ず、たうとう夜逃をした、といふ處から話は始まる。
 そんな馬鹿な事がと、てんで受附けない人がないともいへない、しかし嘘ではない、嘗て、『解手(てうづ)の話』といふのを書いた事がある。それはぼろ吉といふ男が、自分の小水を肩越させる、といふ突拍子もない話である、それも實話であった。ぼろ吉は本當は高橋吉五郎といふ、私の先輩の土工職であつた、それはどうでもいいやうなものゝ『解手の話』から『おならの話』では、或は受附ない方が常識的かも知れない。しかし、實話である事を豫め斷つて置く。次郎吉の相手役として現れる變哲な人物、長谷川大和知重は私にとつては祖父である。話の骨子は祖父一代の奇行録、その中の一挿話から出てゐる」

 古風な手法ではあるが、うまい書き出しだね。屁が止まらずに夜逃げをするという頓狂な話を持ち出すにあたって、長谷川は「これは実話だ」と強調しているわけである。しかも話の発生元は身内。嘘のような話の確からしさを、自分がかつて小便の実話を書いたことから説き起こして(下ネタの実話を発掘した自身の前歴を強調しつつ)身内の一挿話として(身近な人間であった祖父の奇行話として)提示しながら、読者の〈屁〉への抵抗(や笑い)を封じ込めて引き込むのである。

 ここで手法というのは書き出しの緩衝材的な構造を言うわけだが、まあ、「実話」(実話っぽさ)というのは日本ではリアリズムの陣地の一つみたいにも思われていたわけさ。(誤解だけどね)

 さて、このように書き出したあとで、おならの次郎吉はこう描かれる。


「(次郎吉は)働き好きで正直な、いゝ男なのであるが、おならをする癖があつた、それも始めの中(うち)は並一と通りであつたが、自分でも氣がついて『困った』と思い出した頃にはちと度數(どすう)が激しくなつていた。
 當人もそれを隱すようにしてゐる。こ奴あぶないなと思うと、鼻唄をうたつてその拍子に誤魔化してぶつ放す。収穫(とりいれ)、麥打(むぎうち)、臼ひきの手代り、力仕事をしてゐる時には、何によらず誤魔化すのが樂であつた、しかし、對談(さし)などとなると、どう踵(きびす)で殺しても始末がつかない。冷汗と熱い汗とを併せてかいて大抵の場合は誤魔化してきたが、日毎につのる下腹の工合、この分では遠からぬ将来が、どんな事になるやらと、次郎吉は寒氣だつ程に怖しかつた」


 遠回しな書き出しなどなしに、いきなりこの描写でもよさそうなものだが、読者は「実話」云々と凄まれたあとに語られると、皮相な〈屁〉の笑いに走らず落ち着いて読めるというのが、この小説の展開の構造になっている。病的な放屁癖が不気味に伝わってくるわけだね。

 制御できない〈屁〉を抱え込んだ次郎吉の不安は的中する。この小説は後半につなぐ別のストーリーがあるのだが、ひたひたと押し寄せる次郎吉の放屁の異常さが淡々と描かれ、そこが前半の白眉になっている。リアルだよ。


「或る日隣村から人がきた。
 『次郎さん、お父さん、お母さんは留守ぢやとな』
 『あい、間々田へ行きました、何ぞ用かね』
 『實はな、お末さんの事できたのぢやが』
 お末とは次郎吉の妹、隣村の若者が見染めて是非女房にといふので、話がすゝみかけてゐる事は、次郎吉も聞いて知つてゐた。
 『妹の事で、それは苦勞さまな、わしではわかるまいが、傳言(ことづて)でよくば聞いて置きませう』
 この間に二つ次郎吉はとり外した、しかし、一つは見事に自分の聲を高調子にして誤魔化した、殘る一つは恥しや相手に聞きつけられた。隣り村の人はジロリと次郎吉の顔を尻目で見ただけで、格別何ともいはなかつた。
 『さ、傳言でいゝ、それではいづれ出直してはくるが、向うでは是非といふのぢや、それで見合いをして貰ひたいのぢや、と、かう歸ってきたらいうてくれまいか』
 これだけの口上を聞いてゐる間に、こみあげてくる、いや、こみさげてくる物を次郎吉は、一心不亂に怺(こら)へつけてる爲に、額に小汗を滲ませるまで苦闘したが、たうとう負けて、また一つ今度は明白地(あからさま)にとり外した。
 『あ、濟まんが最う一度いうてくれ、よう聞きとれなかつた』
 排出する氣を殺すので氣をとられ、可愛い妹の縁邊(えんぺん)の話も、次郎吉はまともに耳へ入れる事が出來なかつたのである。
 相手は頗る感情を害した顔をしたが直ぐ思ひ直して傳言を最一度繰り返した。次郎吉は今度こそ、氣を外にとられず、よく聞いてゐた。その代わり、生憎のものを更にまた放發してしまつた」


 やがて次郎吉は妹の見合いの席に立ち会うことになる。そして、ここでも不本意ながら「生憎のもの」を連発して妹の相手の顰蹙を買うのである。次郎吉もショックだし家族も落ち込むわさ。見合いの不首尾の元凶となった揚げ句に次郎吉は思い詰めて夜逃げする。

 ここから話はもう一つのストーリーが織り込まれる。酒造家谷屋の娘に片恋慕して嫁にほしいと座り込む武芸者が登場するのだが、想いに真情が溢れており手練(てだ)れの武芸者(らしい)という、妙に説得力のある男なんだね。娘親はホトホト困り果てる。そこに長谷川の祖父である知重という人物が娘親の相談に乗って調停役として割って入るのさ。知重は武芸者を体よく追い払う算段をしなければならない。

 武芸者が娘をあきらめる条件は「(達人の)拙者にできないと思う課題を出してみよ、できなかったらキッパリ娘をあきらめる」というもので、もちろん最初からできないような度外れた課題はダメ。武芸者は何でもできる「スーパー侍」を自認して自信たっぷり。逆に知重は段々自信が持てんわけさ。そんなとき次郎吉に出会うのだが、次郎吉の度外れた放屁癖を治させることを課題に思いつく。一方、次郎吉にはその放屁癖を治してやると約束する。

 かくして「武芸者 VS 次郎吉」となるのだが、如何せん次郎吉の病的な放屁癖は手練れの武芸者の「喝」をもってしても治らないのである。(そのやりとりが可笑しい)

 武芸者は約束通り退散する羽目になる。娘を護ってメデタシなのであるが、収まらないのは次郎吉だよ。知重に放屁癖を治せと迫るのである。言い合いになり、取っ組み合いの喧嘩になる。ところが、その喧嘩の最中に何の効果か放屁癖が完治するのである。終わり方がとぼけている。


「『怒る、お前さんはわしに怒れるか、お前さんにはわからないのか、あの日からこつち、わしの病は前よりひどくなつた』
 『あ、そういへば成程、大分激しくなつたな』
 『感心してゐる奴があるものか、馬鹿野郎』
 『馬鹿野郎だと、何を吐(ぬか)しやがる間抜め』
 『何が間抜だ』
 『間抜だらうぢやないか、そんな、埒(らち)くちもなくのべたらに變な音をさせやがつて、それで間抜でない料簡なのか』
 『何ッ』知重が憎いものに思つた次郎吉は、膳の上の徳利で毆りつけた。そのトタンにも放發してゐる。
 『しやら臭え眞似しやがるない』
 大和知重、起ち上がると拳固を飛ばした、毆られて刎ね起きた次郎吉は、酒の氣を一時になくして、蒼い顔に段々なつて行った。
 『ぶ、毆(ぶ)つたな』『念にや及ばねえ、痛かつたのでわかつたろう』『この野郎ッ』飛びついてくる次郎吉を、心得たと引き受けて知重は、揉み合ひへし合ひ上になり下になり、畳の上中を轉(ころ)げ廻り、互いに摺(す)りむき傷から血を流したがなかなかやめない。

 血瘡のついた顔をして、次郎吉は在所へにこにこと歸つて行つた。それを見送つたのは知重と、谷屋の主人とであった──喧嘩でこんな病が治るという事があるのかどうか、それは知らない。正木不如丘氏に聞けばわかるかも知れない」


 人物の深みはともかく先を期待させる筋立ての作品で、(ジョーズの登場みたいに)制御不能の不気味な〈屁〉の姿を垣間見せる筆致はうまいね。そこがこの作品の一番のリアルな表現であり、これぞ屁で浮かび上がる人間の〈屁〉の有り様である。

 作品全体は笑いを醸しながらも下ネタにもならず、深刻にもならず、人間の〈屁〉を描き切っておる。読み終われば爽快とまではいかないが、妙にさっぱりした気分になるよ。

 一言=この作品は制御できなくなった〈屁〉の地獄の怖ろしさと、制御さえ可能ならコロッと地獄を忘れている能天気な人間を摘出して〜る。
posted by 楢須音成 at 23:00| 大阪 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 作品探求 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月28日

〈屁〉の隠蔽によって世間は回る〜

 児童文学の中で〈屁〉を扱った作品で知られているのは新美南吉の『屁』(1940年)である。〈屁〉をめぐる少年の心理の展開を描いているが、主人公の春吉君の嫌味さが何ともいえんわい。まあ、やや観念的な(社会性や倫理性に対する説明過剰な)内容の作品ではあるが、春吉君の心理の変転ぶりがとても面白い。

 で、なんで〈屁〉なのか。


「石太郎が屁の名人であるのは、浄光院の是信さんに教えてもらうからだ、とみんながいっていた。春吉君は、そうかもしれないと思った。石太郎の家は、浄光院のすぐ西にあったからである。
(中略)
 石太郎は、いつでも思いのままに、どんな種類の屁でもはなてるらしい。みんなが、大砲を一つたのむと、ちょっと胸算用するようなまじめな顔つきをしていて、ほがらかに大きい屁をひる。機関銃をたのめば、小さいのを連発する。にわとりがときをつくるような音を出すこともできる。こんなのは、さすがに石太郎にもむつかしいとみえ、しんちょうなおももちで、からだ全体をうかせたりしずめたり――つまり、調子をとりながら出すのである。そいつがうまくできると、みんなで拍手かっさいしてやる。
 しかし石太郎は、そんなときでも、屁をくったような顔をしている。その他、とうふ屋、くまんばち、かにのあわ、こごと、汽車など、石太郎の屁にみんながつけた名まえは、十の指にあまるくらいだ。
 石太郎が屁の名人であるゆえに、みんなはかれをけいべつしていた。下級生でさえも、あいつ屁えこき虫、と公然指さしてわらった。それを聞いても、石太郎の同級生たちは、同級生としての義憤を感じるようなことはなかった。石太郎のことで義憤を感じるなんか、おかしいことだったのである」


 いい感じの出だしだね。石太郎の特異な名人ぶりや境遇に、これから何事かが起こらんとするわくわくするような予感があるのだが、冒頭から登場する春吉君というのが曲者なのさ。登場人物の中でも、石太郎(と後に出てくる遠助)は呼び捨てで、「君」付けには多分に作者のある思い入れがあるんだよ。

 石太郎は授業中に屁をこく。


「(都会から転任してきたばかりの)藤井先生は、机間巡視(きかんじゅんし)の歩を教室のうしろの方へ運んでいられたが、とつじょ、ひえっというような悲鳴をあげられ、鼻をしっかとおさえられた。
 みんながどっとわらった。また、屁えこき虫の石が、例のくせを出したのである。
 なんというときに、また石太郎は屁をひったものだろう。春吉君は、すかをくらわされたように拍子ぬけして、わらえもしなければおこれもせず、もじもじして立っていた。
 藤井先生はまゆをしかめ、あわててポケットからとり出したハンケチで、鼻をしっかとおさえたまま、こりゃひどい、まったくだ、さあまどをあけて、そっちも、こっちも、とさしずされ、しばらくじっとしてなにかを待っていられたが、やがて、おそるおそるハンケチを鼻からとられ、おこってもしょうがないというように、はっはっと、顔の一部分でみじかくわらわれた。だがすぐきっとなられて、だれですか今のは、正直に手をあげなさいと、見まわされた。
 石だ、石だ、と、みんながささやいた。藤井先生は、その「石」をさがされた。そして、いちばんうしろの壁ぎわに、発見した。石太郎は、新しい先生だからてれくさいとみえて、つくえの上に立てた表紙のぼろぼろになった読本のかげに、かみののびた頭をかくすようにしていた。
 立っている春吉君は、そのときいい知れぬ羞恥の情にかられた。じぶんの組に石太郎のような、不潔な野卑な非文化的な下劣なものがあるということを、都会ふうの近代的なあかるい藤井先生がどうお考えになるかと思うと、まったくいたたまらなかった。
 藤井先生は相手を見てすこしことばの調子をおとしながら、いろいろ石太郎にきいたが、要領を得なかった。なにしろ石は、くらげのようにつくえの上でぐにゃつくばかりで返事というものをしなかったからである。
 そこで近くにいる古手屋の遠助が、とくいになって説明申しあげた。まるで見世物の口上いいのように。石太郎はよく屁をひること、どんな屁でも注文どおりできること、それらにはそれぞれ名まえがついていること等々。
 春吉君は、古手屋の遠助のあほうが、そんなろくでもないことを手がら顔して語るのをききながら、それらのすべてのことを、あかぬけのした、頭をテカテカになでつけられた藤井先生が、どんなにけいべつされるかと思って、じつにやりきれなかったのである」


 このように春吉君を通して授業中の〈屁〉が描かれるのである。しかし、ここで描いていることの主眼は〈屁〉よりも春吉君(の心理)だってことがわかるね。
 挟み込まれる心理描写による春吉君のスタンスは嫌味だねー(春吉君の「君」付けも作者のそういう意図なのさ)。実はこの「嫌味」の深層こそが、この小説のめざすところなのであるが、場面の面白さを支えているのは「嫌味」を浮き立たす臭気ぷんぷんの〈屁〉そのものの振る舞いなんだよ。

 ところが、春吉君の田舎コンプレックス(都会に象徴される文化的中央を恋い焦がれる志向)からすれば、目映いほどのハイカラ人種であった藤井先生は、次第に田舎に馴染んで他と変わらぬ田舎教師になっていくのである。もっとも、田舎じみても藤井先生は唯一石太郎の屁にだけは妥協できないのであるが、しばしば繰り広げられる授業中の屁こき騒動は儀式のように常態化していく。(石太郎の屁に反応する授業中の子供たちや藤井先生の情景はホントに素晴らしい)

 終幕は春吉君の「粗相」である。手工芸の時間に春吉君は不覚にもすかし屁を取りこぼす。その臭気に周りが騒ぎ出して春吉君は観念するのだが、意外にも周囲は犯人を石太郎と見なすのである。「石太郎はいつもと変わらず、てれた顔をつくえに近くゆすっている。今に、おれじゃないと弁解するかと、春吉君がひそかにおそれながらも期待していたのに、その期待もうらぎられた。石太郎はむちでこめかみをぐいとおされ、左へぐにゃりとよろけたが、依然てれたような表情で沈黙しているばかり」で、ついに春吉君は犯人とはならないのである。

 さあ、ここから正義漢の春吉君の煩悶が始まる。〈屁〉がどうとかの問題ではないのである。「沈黙を守って、石太郎にぬれぎぬをきせておくことは、これは正しいことではない」「たいていのなやみはおかあさんにぶちまければ、そして場合によっては少々泣けば、解決がつくのだが、こんどはそういうわけにはいかない」「じぶんの正しさというものに汚点がついた」などと自責する一方で、「石太郎が弁解しなかったのは、他人の罪をきて出ようというごとき高潔な動機からでなく、かれが歯がゆいほどのぐずだったからにすぎない」「石太郎は、なん度むちでこつかれたとて、いっこう骨身にこたえない。まるで日常茶飯事のようにこころえているのだから、いささかもかれにすまないと思う必要はない」「石太郎みたいな屁の常習犯がいたために、こんななやみが残ったのだ」と、春吉君は自分の心に占める石太郎を冷淡にも切り捨てようとするのである。

 煩悶はやがて治まる。冷めた春吉君は「屁そうどうが教室で起こって、例のとおり石太郎がしかられるとき、けっしていぜんのようにかんたんに、それが石太郎の屁であると信じはしなかった。だれの屁かわからない。そしてみんなが、石だ、石だといっているときに、そっとあたりのものの顔を見まわし、あいつかもしれない、こいつかもしれないと思う。
 うたがいだすと、のこらずのものがうたがえてくる。いやおそらくは、だれにも今までに春吉君と同じような経験があったにそういない」と確信するわけである。

 かくして、そういう欺瞞的な教室風景は世の中の大人たちの世界と同じなのだというオチになるのだが、〈屁〉に始まって最後は〈屁〉が吹き飛んでしまったのがこの作品の展開である。ここは大変残念だよ。

 作品世界は、呼び捨ての石太郎と「君」付けの春吉君を軸に別の時間を持っているわけさ。作者は一貫した春吉君の時間軸を筋立てにして展開していったのであるが、首尾よくいったかどうか。春吉君の理屈で展開したぶん、作品は理屈になってしまったね。春吉君の「君」付けはその理屈(嫌味)を相対化する契機を示してるんだけどね。

 それに比べれば不気味な石太郎(の世界)は体系づけられていないから(そりゃ、石太郎的〈屁〉の近代的な意味なんて誰も考えないわさ)、まさに〈屁〉的現象そのものとして存在しているのである。この作品に描かれた〈屁〉は〈屁〉として十分面白いよ。

 一言=この作品は己の〈屁〉でつまずいて一生のトラウマを背負いつつ、世間に開眼した男の物語であ〜る。
posted by 楢須音成 at 23:29| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 作品探求 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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