2006年01月04日

なぜハ行系列の言葉は笑いを誘う?

 「屁」は「へ」とか「ひ」と読む。日本語でいうところの「ハ行」系列の言葉だね。諸外国ではどうか。福富織部の『屁』などから引用すると、こんな感じ。

英語 fart ファーツ
ドイツ語 furuz フュース
フランス語 pet ペ
      vesse ヴェッス(すかし屁)
スペイン語 pedo ペイドー
北京語 屁 ピー


 まあ、「ハ行」「パ行」「バ行」というのは「屁」の擬音の系統を示しているわけだね。このような〈屁〉における擬音は追究すべきと思うが、この(音の)系列というのは笑いを誘う点でも際立っている。濁音になるとなおさらだね。〈屁〉的現象における音はある種の傾向を持っているわけさ。

 ところで、今年は戌年だけど、音成は犬の放屁を聞いたことがある。ブスンといった感じだったかな。どういう腹加減だったのか。
 犬には〈屁〉という概念はないだろうから、犬に〈屁〉的現象はないはずである。


posted by 楢須音成 at 23:02| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(1) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月07日

〈屁〉の音を真似て遊んでみれば

 スカトロジーは糞尿学や糞尿に関する嗜好を意味するが、〈屁〉の取り扱いもその末席に位置するもの──というのは一つの立場だね。全く違う視点で〈屁〉をとらえると、こんな本もある。『きみのからだの きたないもの学─GROSSOLOGY』(シルビア・ブランゼイ著、藤田紘一郎訳、1998年、講談社刊)は、身体の「きたないもの」を子供たちに解説する科学本である。

 音成がまず注目したのは「GROSSOLOGY(グロソロジー)」という言葉。お初にお目にかかりました。「GROSS(とても不快な)」 と「 LOGY(学問)」の連結による造語のようだが、市民権を得ているんだろうか。アメリカで当初30万部のベストセラー本だそうだから流布しているのだろうね。

 誤解してはいけないのは、この本は「きたないもの」を否定しているのではないことである。著者は細菌との共生という視点で身体をとらえている。訳者は『清潔はビョーキだ』の藤田紘一郎だもんね。もちろん、無味乾燥な科学解説に終始しているわけではない。読んでみると、まあ、著者は「きたないもの」が好きなんだね。グロソロジーはスカトロジーと同じく、転じて嗜好を示す意味合いがあってもいいね。(人はなぜこういう嗜好を示すのか?)

※目次を引用する。
ぬるぬる、どろどろ、じゅくじゅくしたきたないもの
 ゲロ
 鼻くそ
 ウンチ
 ゲリ
 おしっこ 
 つば
 鼻水
 耳くそ
 ニキビ
 水ぶくれ
かさかさしていて うろこのように はげおちる きたないもの
 ふけ
 かさぶた
 目やに
 歯くそ
くさくて におう きたないもの
 おなら
 げっぷ
 あせのにおい
 くちのにおい
 くさい足

 この本は糞尿屁に限らない「きたないもの」を身体の全体を見て位置づけている。糞尿屁をこのように改めて提示されると新鮮に感じるね。「きたないもの」の中で屁も頑張っているじゃないか。

 これを見ると屁は「におうもの」としてまとめてある。「もの」としては「げっぷ」と同類(ガス体)であるが、形のないもの(見えない)として汗や足のにおい、口臭と一緒にくくってあるわけである。ほかのものが実体として確かなものであるのに比べ、これらの「におうもの」は視覚的な実体性が乏しいのである。
 そういうものが身体を構成していることを見落としてはいけないし、それにまつわって独特の現象を醸す素因になっているわけでもあるのさ。このくくり方は含蓄があるんだよ。

 ところで、この本の「おなら」の解説はとてもバランスがいい。〈屁〉的現象のいろいろな要素が詰まっているのである。放屁の回数や量、生成過程、ガスの構成といった科学的認識はもちろんだが、オナラに対する授業中の反応、オナラの別称、オナラの芸人(奇人)の紹介、いろいろな国のオナラの呼び方などにも触れている。
 最後はこう締めくくっている。

「ガスとくさいにおいにくわえて、おならは音もつくります。いろいろなおならの音を考えてみましょう。ちょっと口で音をだしてみてください。あるいは、手をコップのようにしてわきの下にあてて、かたっぽしかつばさのない鳥みたいにはばたいてもおならの音はだせます。フ〜とか、プップップッとか、プ〜ブブブブとか、ブブ〜バババ〜とか、たくさんあるおならの音のほんの一部ですけどね」

 素晴らしい。子供たちに屁の音を作り出すという遊びを教えているよ(屁の音に注意を喚起している)。〈屁〉的現象は「ガス(見えない)」と「くさいにおい」と「音」の三位一体の現象だけど、この締めくくりは〈屁〉というものの芸能化(の萌芽)をも示唆している。
 
posted by 楢須音成 at 21:28| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 文献探索 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月09日

腸内細菌が屁の個性をつくる

 屁の成分や成分比について気になることといえば、文献ごとにデータがまちまちであることである。そのこと自体はいいとして(屁は個人差があるものだからね)、データが引用の場合は出典が欲しい。どの筋の測定かがわかれば、これも情報である。

 本屋で立ち読みしていたら、屁に関する記述があった。『腸内クリーニングの驚異』(光岡知足著、1993年、祥伝社ノン・ブック)によると、窒素(23〜80%)炭酸ガス(5.1〜29%)メタン(0〜26%)水素(0.06〜47%)などとなっており、この数字って、前に音成が紹介したもの(鈴木隆『匂いの身体論』のデータ)と一緒だよ。
 ところが、微妙に違っているんだね。鈴木の本では窒素が23〜38%で、光岡のこの本にはない酸素(0.1〜2.3%)の数値も紹介されている。炭酸ガス、メタン、水素の数値は両書とも全く同じ。

 多分、出典は同じなのだろう。ただし、鈴木の本の窒素のデータの上限38%は間違いじゃないかと思う(少なくない?)。で、その出典は? それが、光岡のこの本にも明記されていないのである。光岡の別の著書『腸内細菌の話』(1978年、岩波新書)をあたってみた。ありました。どの筋かわかりました。ミネソタ大学のレビットらによって調べられたと明記してある。(酸素についても0.1〜2.3%と示してあります。この本は屁の生成過程の包括的な解説が充実しています)

※追記=鈴木の『匂いの身体論』には光岡の二著が巻末で参考文献として挙げられているのに気づきました。音成の不勉強でした。

 なるほど、腸内細菌をちゃんと調べれば屁の生成に行き当たるのか。光岡は腸内細菌学の権威だもんねー。このデータに音成が感心するのは「□%〜△%」と上限下限によって個体差を吸収し、屁(の成分)というものを固定的にとらえていない(表現していない)ことである。当たり前といえば当たり前なんだけどね。
 成分について突っ込んだ部分を『腸内クリーニングの驚異』から引用しておく。

「(アメリカ航空宇宙局が)きちんと調査した結果、(オナラから)四〇〇種類もの成分が見つかったのです。
 そのうち、特に主要な部分は窒素、水素、炭酸ガス、メタン、酸素といった無臭ガスでした。悪臭の原因となるガスは、アンモニア、硫化水素、インドール、スカトール、揮発性アミン、揮発性脂肪酸などがごくわずか含まれているだけです。悪臭ガス全体を合わせても、排出されるオナラの一パーセント以下にすぎません。
 そして、ガス成分のうち、窒素、酸素以外はほとんどすべて、腸内細菌によって作られたものです。
 ただ人間の嗅覚というのは、たった一億分の一程度の濃度しかない物質でも、感知することができるほど鋭いので、それだけ悪臭ガスが含まれていれば充分に「臭い」と感じられるわけです。
 オナラに含まれる成分それぞれの割合には、かなり個人差があります。
 たとえば窒素は少ない人で二三パーセントしか含まれていませんが、多い人になると八〇パーセントにもなるのです」

 多様な〈屁〉的現象に屁の成分の個人差が影響してくるわけさ。口から飲み込んだ空気の量と腸内の細菌の個人差が大いに関与しているのである。

 細菌学の研究者である光岡の本は腸と腸内細菌という足場から屁を語って踏み外すことはないね。〈屁〉じゃないんだよ。笑いがないー。(笑)
posted by 楢須音成 at 23:20| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 文献探索 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月13日

屁芸は何を表現するのやら

 屁で芸をする曲屁は口笛のように誰にでもできるものではない。それは純粋に音楽というわけではないんである。言ってみれば、屁音の高低や長短によって情景とかモノを描写的に表現する世界なんだね。

 以下は福富織部の『屁』に曲目として紹介されているもの。

蛇の蛙(かえる)のみ→ギャギャギャと蛙がのまれかけて苦しむ姿を模しつつ、一番終わりには蛇がキッとのんでしまうところまで表現する。

すれ違い→若い女性などとすれ違うときにする屁を模す。臭気より音を大きくしてビックリさせ逃げまどわせる態のもの。

数取り→1234と連発して数の多いことを勝ちとする。ただそれだけ。

梯子(はしご)屁→五段、七段、十三段の三種の梯子がある。まず梯子の縦木の二本を模して長く二発を出す。横木一本を模して少し短く出し、その両端にクサビとして短いのをブッブッと打ち込む。五段はこれを五回、七段なら七回、十三段なら十三回繰り返す。

あぶの笹渡り→笹の葉の上を渡るあぶの羽音に模して、ブルブルブルと十四五回鳴らし、最後は笹の葉を滑り落ちるようにブルッと出す。最後の一発は百雷が落ちるがごとく一座を驚倒させるのが妙。

ふくべ→ヒョウタンを模す。始め大きく出して中を小さくすぼめ、また大きく出して、これに口を付けて最後に栓をポンと打つ。また黄色い音でヒモを二本なう必要がある。

梅の古木→始めブーッと大きく出して梅の木の幹を模し、次にブーッ、ブーッと細く長く小枝をたくさん出して、これにプップップッと花やつぼみを添える。

うぐいすの谷渡り→うぐいすの鳴き声を模してプープと出して、その後はプッププップと飛び交う様子を無数に続ける。

イタチの一声啼き→音よりも臭気を重んじ、一発中に必殺の臭気をこめて一座のものを卒倒させる。

 いずれの曲屁もいきなり聞かされても何やらわからないだろうねー。まあ、鑑賞(?)には結構、想像力を要する。

 平賀源内の『放屁論』に登場する屁の芸人、花咲男(「源内は〈屁〉を論じたのか?」参照)は「昔よりいひ傳へし梯子屁數珠屁(じゅずべ)はいふもさらなり、砧(きぬた)すがゞき三番叟(さんばそう)、三ツ地七草祇園囃、犬の吠聲(なきごえ)、鶏屁、花火の響きは両国を欺き、水車の音は淀川に擬す。道成寺菊慈童、はうためりやす伊勢音頭、一中半中豊後節、土佐文彌半太夫、外記河東大薩摩、義太夫節の長きことも、忠臣蔵矢口渡は望(のぞみ)次第、一段ヅツ三弦浄瑠璃に合せ、比類なき名人出たり」と紹介されている。

 これを見ると、「梯子屁」「数珠屁」のような形態模写や犬や鶏の声ような声帯模写、あるいはそれらをミックスしたものに加えて、歌舞音曲に合わせて拍子をとったり、合いの手を入れたりする(んだろうね)パーカッション風の芸にまで広がっている。

 このように装飾性をまとっていく曲屁の進化も面白いね。ただし、表舞台で伝統化する気配はちっともないわい。
posted by 楢須音成 at 04:54| 大阪 | Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月21日

続続・作品化する〈屁〉とは何だろ〜ヵ

 文芸やある種の批評を「作品」と呼ぶとして、これらの表現は何をめざしているのだろうね。「作品」というのはニュース原稿のような単なる事実関係の記述ではない(はずである)。「作品」においては、語り手が意識下で、ある立場をとって(ある意図をもって)記述を積み重ねるのである。

※お伽草子の中の福富草子を福永武彦訳(ちくま文庫)で以下引用して進める。

「人と他人の果報を、身分不相応に羨んではならない。昔、福富の織部という長者があったが、いかなる前世の定めごとか、生まれつき一つだけ独特の芸を持っていた。習ったわけでもないのに、奇妙きてれつな音響を発するのである。そこではからずも有名になって、その名は天下にとどろいた。
 その芸は、人前で言うのを憚(はばか)るような卑近なものだが、身分の高い低いを問わず、話に聞いた者はみんな笑い合ったから、やがてはお上に仕える人々の間にも名が通り、実技を御覧になってはなはだ興じられた。そこで福富長者は、富んだ上にも富み、楽しい上にも楽しく暮らして、棟には棟が高さを競い、蔵には蔵が立ち並んで、耕さずとも、五穀豊穣、庭のなかに充ち満ちた。
 ところでその隣に、乏少の藤太(ぼくしょうのとうた)という貧乏人が住んでいた。この方は織部に引きかえて、朝夕かまどに煙の立つこともない。庭は草ぼうぼう、垣根は崩れほうだい、幕の代わりに薦(こも)を垂らしたが、夜風の寒さにまんじりともできぬから、垣も柱もぶち壊して、ようやく暖を取る始末。夏はぼろ同然の麻衣(あさぎぬ)をまとい、破れ団扇(うちわ)で蚊をはらい、軒の夕顔のきれいに咲いたのを、せめてもの慰めにして暮らしていた。若いころから夫婦の契(ちぎり)を結んだ女があって、藤太には十以上もの姉さん女房だが、口がめっぽう大きいので、人からは鬼ばばあと呼ばれていた」

 物語の書き出しである。ここでは織部長者の屁芸の奇特ぶりや、身上の富裕ぶりについて記述を積み重ねている。織部長者の来歴が凝縮されて説明されているのである。そうやって、そこから流れは意図的に転じるわけだね。
 「ところで」と場面は切り替わる。乏少の藤太という隣家の貧乏人が登場するのである。書き出しから積み重ねてきた記述のトーンが転調するわけだが、実はこの物語はこの藤太(や鬼ばば)が主人公(眼目)なのさ。

 織部と藤太について語っている記述は対照的だね。織部については俯瞰から概説的に流す感じ、藤太については接近して微細な描写的な記述になっている。つまりは、印象の違う二つの時間(世界)が提示されている。
 二つの時間の中はそれぞれ、これまた、たくさんの時間によって構成されている(重層的に記述されている)わけさ。結果的に一つのまとまり(ストーリー)として提示されるところが「作品」(表現)なんだね。(こういう一節だけなら作品的と言っておこう)

 前に作品化した〈屁〉とは記述の重層化という表現のスタイルを獲得した世界だと言ったが、そこでは時間が流れている(表現されている)わけである。

 かくして織部の時間と藤太の時間の記述を見れば、藤太の方がリアル(より視覚的)で表現性が高い。語り手の意図(立場)は主人公と見定めた藤太(や鬼ばば)にあるわけだから、自ずと時間の濃密度が高いわけである。

 さて、この後、藤太は織部長者にあやかりたい妻(鬼ばばあ)にそそのかされて、織部から屁芸の伝授をしてもらおうと出かけていく。ついに秘伝の薬(放屁促進剤)をせしめて処方を聞いて帰る。妻は大喜びである。藤太を盛装させ今出川の中将のもとに送り出す。売り込んで屁芸で褒美をもらおうという魂胆である。しかし、出かける途中、藤太はどうも腹具合が思わしくない。

「中将殿はそれ(藤太の売り込み)を聞いて、こいつは面白い、近ごろは神経衰弱の気味で、学問の方もさっぱりだったが、一つこれで気晴らしと、さっそくお庭に召し入れた。そこで蹴鞠の場所に円座を据えさせ、ご飯にお酒と饗応いたらざるなく、さて今か今かと耳傾けておわします。御簾(みす)のうちには、御妹君の尚侍(ないしのかみ)、おばの尼御前、御台所(みだいどころ)など、見物あそばされている。藤太はお腹が痛いのに、せっかくの御馳走とばかりさもしい根性で詰めこんだあげく、腰はひきつる、お腹はしくしく、とうとう座に耐えられず、駆けこもうとしたとたんに栓がはずれて、さっと散らしたその勢いはまるで水鉄砲。庭先の白砂の上に山吹の花を散り敷いたようで、かねて山吹の名所と知られる井出の屋形(やかた)もかくやと思われる風情である。ましてやそこに一陣の俄か風が吹きすぎたから、御殿もきざはしも怪しい臭いが充ち満ちて、げにあさまい限り。桃尻おさえて逃げ出そうとするところを、下男どもがひっつかまえ、笞(むち)をふるって叩き伏せた。真黒な居処(いどころ)をひっぱたかれて呻くのを下男どもが烏帽子と髻(もとどり)を引っ張って、ようよう庭から追い出した。たらたらと血を垂らしながら引かれて行ったから、そのあとはまるで立田川、もみじの錦である」

 藤太はこんなふうに大失敗をやらかし、血にまみれ半死半生となって逃げ帰る。褒美を今か今かと待ちこがれていた妻は事態を知って大落胆。織部長者への逆恨みが炎と燃えさかって呪いの祈祷にはまり込むが、効果がないと知るや、鬼ばばあと化し織部を襲って噛みつくのである。ここに至る修羅場が延々と記述されて、この物語の展開の眼目(作者の意図)となっているわけだね。(いやはや面白いよ。是非原典をどうぞ)

 作品では積み重ねられる重層的な記述が独特の時間を生む。それを人に伝える水準が表現性を位置づける。作品へのこのような時間の登場は、基本的に人は自分という劇場において世界を作品化(時間化)して生きていることに根拠があるのさ。(要するに何事も自分の構造の中で反復してるんだね)

 前に紹介した宇治拾遺物語の藤大納言忠家の話はワンシーンの筋立てだった。この福富草子は場面をつなぐストーリーを孕んで長丁場なわけである。時間が時間を紡いでいくところにストーリーが成立している。

 ところで、これは〈屁〉の(失敗の)物語であるが、どうして〈屁〉でなければならないのか。かりに織部長者が笛の名手だったらどうなのか。隣の藤太がこれを真似てにわか仕立ての笛の名手を気取って出向き、とんでもない音色で大ひんしゅくを買う話とどこが違うのか。

 もちろん〈屁〉でなければならないのである。書き出しの「人と他人の果報を、身分不相応に羨んではならない」という教訓(一見、この草子のテーマみたいだね。違うよ)の話なら笛でもいいかもしれない。だけど、作者はそれじゃダメなんだね。〈屁〉でなくちゃ。

 この〈屁〉との関係は、そもそもの作品の素材の選択において絶対である。生の素材(リアル)という点で譲ることができない。そこから発する時間は必然的に紡ぎ出され、もはや代替できない世界(現象)に作者は身を置いていると言わねばならないのである。そこに作者の意図があるのさ。

 意図の能動的振る舞いこそ作品である。〈屁〉をもって人にメッセージを送ろうとする意識の運動は、あなたにだってあるよね。夫や妻や子供の前でわざと〈屁〉をこくとか、うっかり漏らして言い訳を用意するとか、ね。そのとき人は〈屁〉を中心に自らに世界が意味あるものであってほしい(または、あってほしくない)と願っているのさ。

 かくして作品化した〈屁〉の根拠は、あなたもする〈屁〉なのである。
posted by 楢須音成 at 23:21| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月27日

〈屁〉を考察すれば戯作になるという現象

 比較文化の芳賀徹が『江戸の花咲男──源内をめぐる比較放屁論』(「ユリイカ 特集・平賀源内」1988年4月号掲載)で紹介していた「奇書」を見つけた。1964年に出版されたサルバドル・ダリの『天才の日記』の中にある『「放屁の術、または陰険な大砲に関する概論」の抜粋』(東野芳明訳、1971年、二見書房刊)である。(芳賀が紹介している邦訳名は『放屁術、あるいは腹黒砲兵操典』というもの。「これぞ天下太平の楽の音」参照のこと)

 安岡章太郎は平賀源内の『放屁論』とマルセル・パニョルの『笑いについて』を比較したが(「〈屁〉を語れば屁理屈と言われて」参照)、芳賀は源内のそれとダリの『放屁の術・・・』を比較しようとしている。音成は安岡の論には難色を示したが、芳賀の源内とダリの比較は面白いと思う。
 源内の放屁論は〈屁〉を論じる戯作という表現性において成立しているが、この『放屁術』も同じだからね。

※以下に『放屁の術・・・』の構成を引用して、まずフレームワークを紹介する

便秘症の人びとのお役に立つために
第一章
 屁一般の定義
第二章
 屁の、とりわけ屁とげっぷとの相違、さらに屁の定義に関する全般的な証明
第三章
 屁の分類
 問題
 充分な有声音、あるいは大いなる屁
 屁の敵対的な異論
 反論
第四章
 良識から抽き出された肉体的理由、あるいは二重母音的屁の分析
第五章
 二重母音的屁によって惹起された不幸と事件。悪魔を遁走させ、まったくの痴呆にさせてしまった屁の物語。二重母音的屁の調停によって悪魔の手から解放された家。
第六章
 半有声、または小さい屁
 明瞭な屁について
 気息音の屁
 中程度の屁について
 前述の各屁の成因
第七章
 音楽的問題。奇妙な二重奏曲。聾者に演奏を聴かせるための見事な発明。
第八章
 無声の屁、きたならしくいえば、すかしつ屁、診断と予後
 診断と予後
第九章
 とくに愛好されたり、無意識に放たれたりするすかしっ屁について
第十章
 屁とすかしっ屁の効能
 それらの特殊な効用
第十一章
 屁の社会利益
第十二章
 偏見にとらわれている人たちのための屁の隠蔽法
第十三章
 種々の屁の出現のいろいろな兆候
第十四章
 諸種の屁を催させるための治療薬と手段。難問。化学上の問題。
 屁の神髄、雀斑のために。結論。
 難問
化学上の問題
 屁の神髄、雀斑その他、のために。
 結論
 田舎の屁
 夫婦の屁
 処女の屁
 武勲に輝く戦士の屁
 姫がたの屁
 若い娘さんの屁
 既婚女性の屁
 おかみさんの屁
 農婦の屁
 羊飼いの娘たちの屁
 老女の屁
 パン屋の屁
 陶工たちの屁
 仕立屋たちの屁
 地理学者たちの屁
 ラーイスの屁
 寝取られ男たちの屁
 学者の屁
 事務員の屁
 男優および女優の屁
 放屁芸術の終焉


 作者はトランペット伯爵(青銅の馬の医者)となっていて、源内が風来山人と称したのと同じスタイルである。いやはや、様々な〈屁〉的現象がほとばしっているね。書き出しはこういう突っ込みである。

「読者諸賢よ、諸兄が屁をひりはじめてこのかた未だにいかに放屁をするか、そしていかにそれをなすべきかを知らぬというこは恥ずかしいことであります。
 人びとは一致して、屁は小さいか大きいかという変化の相違しかないと、そして根本的には屁というものはみな同種のものだ、と考えています。が、それはたいへんな誤りであります。
 今日、私が諸兄にご覧にいれる、あらゆる可能なかぎりの精確さでもって分析された素材は、人びとがそれを素材として不適当だと判断したからというのではなく、それをひとつの確実な方法と新しい発見にしたがって評価しなかったがために、今日にいたるまで不当にも甚しく等閑視されてきていたのでありました。われわれは誤りを犯していたのです。
 放屁は芸術であります」

 続けて、トランペット伯爵は「完備した辞書をあたってみてもそれについて何ら満足すべき解答を発見することができない『芸術』に関して自分の諸研究と諸発見を公表する」と豪語するのである。フレームワークだけを見ても、厳密な体系構成の展開とはなっていないのだが、それでも、定義、分類、成因、効能効用、社会利益、音楽的問題、化学上の問題などの視点を保持しつつ、体系的な展開をめざしているのがわかるね。

 だけど、これは、書き出しから論文ではなく戯作なわけさ。つまりは作品化してしまっているのである。なぜ〈屁〉を論じると戯作になっちまうんだよー? おどけた調子がいけないのかい。放屁は芸術だなんて言うと、こりゃ屁理屈かい。(笑)

(このような事情は溝口白羊の『屁の喝破』も同様だった。この辺は、次回「断片考察」として採り上げることにする)

 さて、トランペット伯爵の独特の体系化は、粘着的な記述の断章をコラージュのようにある種の飛躍をもって配置し、何やら絵画的に成立しているのである。
 彼の分析は〈屁〉の発生・生成過程を肉体の振る舞いを通して粘着的に語ろうとする。ガスやニオイや音の生起する過程を偏愛的に語るんだね。

「体内に吹き込まれ、そこで圧縮された後に逃げだそうとするあらゆる気体を鼓脹ガスと称します。そして、明瞭な屁、すかしっ屁、左官の屁などはお互いに一族のようにそこに収まっている。ところが、体内の滞在時間の長短や奔出手段の難易によってそれらの差異が生じ、さらに決定的に相容れぬもの同志にしてしまうのであります。明瞭な屁は、体内に吹き込まれた後に、何ものにも妨げられることなく通路に存在する種々の体内部位をかけめぐり、多かれ少かれ爆裂音とともに噴出します。濃厚な、または漆喰のような左官の屁は、数度にわたり遁走を試みた結果、同じような障害にぶつかり、逆戻りし、しばしば同じ空間を往来し、熱を持ち、さらに自分で道中に棄てた各種の脂肪物質を再び背負いこむ始末」

 こんな感じが延々と続く。音に関しては特に二重母音的屁(単純な号砲一発の屁に対して、複合的であり、連続して発射される十五発か二十発の銃声にほとんど類似しているような屁)の複雑さに着目し、その生起する過程を重視している。

 ダリ(トランペット伯爵)のこの作品は、人間という肉体に閉じこめられた屁が、生起してから放出される様を、肉体の振る舞いや人としての振る舞いを通してとらえようとしているところに発する考察なんだね。フレームワークをそのように見るとわかりやすい。
 体系的な骨格を意識したようなフレームワークなのに、そのまとまりのなさにダリが無頓着なのは、そういう(体系を語るより振る舞いを語る)事情である。
 
 語りが精緻になればなるほどダリの記述は〈屁〉的現象に偏愛的である。彼自身が言うようにそれは彼にとって生の「芸術」そのものなのである。彼は「芸術」を語っているんだよ。
posted by 楢須音成 at 00:37| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 文献探索 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月28日

〈屁〉の考察が戯作となるのは何でだろ〜ヵ

 ダリの『「放屁の術、または陰険な大砲に関する概論」の抜粋』は〈屁〉を考察している。こう書き出していたね。

「読者諸賢よ、諸兄が屁をひりはじめてこのかた未だにいかに放屁をするか、そしていかにそれをなすべきかを知らぬというこは恥ずかしいことであります。人びとは一致して、屁は小さいか大きいかという変化の相違しかないと、そして根本的には屁というものはみな同種のものだ、と考えています。が、それはたいへんな誤りであります」

 原文の元のニュアンスはわからないが、翻訳の調子はちょっと大仰に構えた演説調で滑稽味を持たせているわけである。〈屁〉を語るとき(記述するとき)人はしばしばこんな大仰なスタイルになる。
 では、なぜ滑稽味が生まれるのか。それは、本来その語りのスタイルはもっと別なことに使うべきなのに〈屁〉で使ってしまってるからなのさ。

 パクってみた。
 
 @「読者諸賢よ、諸兄が人を愛しはじめてこのかた未だにいかに愛するか、そしていかに愛をなすべきかを知らぬというこは恥ずかしいことであります。人びとは一致して、愛は浅い深いという変化の相違しかないと、そして根本的には愛というものはみな同種のものだ、と考えています。が、それはたいへんな誤りであります」

 と愛を語れば、まあ、異論はあってもあまり笑いは湧いてこない。ちょっと論文調に語り口を変えてみると、

 A「人を愛しはじめてから、皮肉にも今に至るまでいかに人を愛するか、そしていかに愛をなすべきかを知らないのは恥ずかしいことである。多くの人は一致して、愛は浅い深いという変化の相違しかない、そして根本的に愛はみな同種のものだと考えているが、それは大きな誤りである」

 と語れば、いやー、愛を論じる真剣な考察じゃないか。

 以上は全く同じ論法の上に、屁を愛と入れ替えたわけだね。しつこく、もう一度入れ替えるよ。Aの愛を屁にする。

 B「屁をしはじめてから、皮肉にも今に至るまでいかに屁をするか、そしていかに屁をなすべきかを知らないのは恥ずかしいことである。多くの人は一致して、屁は小さい大きいという変化の相違しかない、そして根本的に屁はみな同種のものだと考えているが、それは大きな誤りである」

 と語れば、みなさんはきっと笑う。

 普通に語っても概ね〈屁〉的現象は可笑しい(場面になることが多い)。もともと可笑しいもんだから、ついついその可笑しさを先回りしてしまう(ことがある)。人はそういう(可笑しいものを可笑しく語る)心的習性があるんだね。もちろん意識的か無意識的かは問わない。(〈屁〉的現象における人の心的習性の根拠は何なのか、そもそも〈屁〉的現象はなぜ可笑しいのか、という問題は究明したいねー)

 ダリの『放屁の術・・・』も、ダリ自身か翻訳者かわからないけれど(まあ、両者だろうね)、滑稽味が出るような語りのスタイルを先回りして採用しているわけである。

 このように〈屁〉的現象はある種の真面目さやスタイルをもって語れば語るほど滑稽になってくる(ことがある)。それはまさに〈屁〉だからなんだけど、そこが〈屁〉というものの現象化の一つの特徴なんだね。

 かくして、ダリの『放屁の術・・・』は滑稽味を漂わすわけだが、ここからさらに一歩進んで戯作となる。作品化するのである。なぜか。
posted by 楢須音成 at 21:14| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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