2005年12月03日

作品化する〈屁〉とは何だろ〜ヵ

 〈屁〉的現象を記述する資料を分類してみると@事実関係の記述A文芸作品B批評...と大別される。これら書き文字の記述は、そもそもは@の事実関係の記述から出発しているわけなのだが、それを踏み越えることが、作品化ということである。
 つまりAやBへと発展していく道筋をたどるのである。

 事実関係の記述とは、例えば「Aさんの屁は臭かった」というように文を構成する記述である。これに「その時」とか「鼻が曲がるほど」とかの記述が補強されて、関係が親密に形成(記述)されていくんだね。場所、近くにいた人、季節、表情、発した言葉など、そこにある様々な要素が次々に投げ込まれる。
 「その時、Aさんの屁は鼻が曲がるほど臭かった」となると事実は詳細になるわけさ。

 こうした事実関係の記述は基本的に視覚的に構成されるものである。見る(見た)という行為を暗黙の前提にしている。それは語り手というものを前提にしているわけだが、語り手が限りなく姿を見せず記述の背後に後退することによって、事実性(客観性)が強調される仕組みになっている。(事実が保証されるわけじゃないけどね)

 もちろん、聞く(聞いた)というような伝聞による事実関係もあるね。このときも伝聞される内容は視覚的に構成されている。そして「Aさんの屁は臭かったとさ(そうだ)」というような記述(語り口)になり、語り手の二重化を示すことになる。

 さて、事実関係を踏み越えた記述というものが「作品」なのであるが、どういう事情になっているのか。
 事実関係を踏み越えると言っても、「Aさんの屁は臭かった」という記述の形態(文)が変わるわけではない。そこに語り手が意識下で、ある立場をとる変化に応じて、語られるものは「事実」→「疑似事実」→「想像世界」へと進化の経路を進もうとする。「Aさんの屁は臭かった」という物語が始まろうとするのである。
 
 ここで〈屁〉というものの作品化への一歩が始まってくるんだね。
 臭かろうと臭くなかろうと「Aさんの屁は臭かった」と記述(Aさんが存在している事実を下敷きにするが、事実かどうかは別にして「臭い」という要素を投入)すれば、疑似事実の関係が生まれる。あるいは現実の存在を下敷きにせず架空のAさんを用意すれば、想像世界の事実関係が生まれてくるわけである。

 「Aさんの屁は臭かった」 事実関係なら…単なる事実
 「Aさんの屁は臭かった」 疑似事実なら…例えばデマなんかはこれだね
 「Aさんの屁は臭かった」 想像世界なら…純然たる物語(の萌芽)だね

 かくして、記述は同じであるが、語り手が意識下でどういう立場をとるかによって記述が提示する世界は変わるのである。このことを踏まえて「作品」というものを考えないといけないわけだね。


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2005年12月08日

続・作品化する〈屁〉とは何だろ〜ヵ

 古事記のような神話は、現代の認識では歴史としての「事実」を装いながら語り出している「作品」の位置付けになる。「事実」→「疑似事実」→「想像世界」の連関のどこに位置するかはともかく、それは物語であって「作品」である。

 万葉集のような詩歌も、言葉の様式化をふまえて「事実」または「疑似事実」または「想像世界」を歌いながら書き言葉化して「作品」となっている。(言葉や音韻の様式化は作品化の装置として自立的に機能するんだね)

 さて、〈屁〉的現象が作品化した例は宇治拾遺物語(鎌倉初期)にこんなものがある。

「今は昔、藤大納言忠家といひける人、いまだ殿上人におはしける時、びゞしき色ごのみなりける女房と物言ひて、夜ふくる程に、月は昼よりもあかりかるけるに、たへかねて御すをうちかづきて、なげしの上にのぼりて、肩をかきて引きよせけるほどに、髪をふりかけて、『あな、さまあし』といひて、くるめきける程に、いとたかくならしてけり。女房はいふにもたへず、くたくたとしてよりふしにけり。此大納言、『心うき事にもあひぬる物かな。世にありてもなににかはせん。出家せん』とて、御すのすそをすこしかきあげて、ぬき足をして、『うたがひなく出家せん』とおもひて、二けんばかりは行程に、『抑(そもそも)その女房のあやまちせんからに、出家すべきやうやある』と思ふ心又つきて、たゞたゞとはしりて、いでられにけり。女房はいかがなりけん、しらずとか」(粗筋=昔、忠家という人がいて色好みの美人の女のところに通って行ったんだが、女があれの真最中に高らかにおならをしてしまった。女は(恥で)口もきけずへなへなとなって起きあがれない。忠家もガックリ意気沮喪。あまりの情けなさに世を捨てて出家しようと決意するが、そそくさ寝所を出てしばらく行くうちに「なんで女の過ちに俺が出家しなければならんのよ」と思う心がわいてきて思い直して帰って行ったのだった。女がどうなったか知らんわい)

 この話は、実在した忠家に対して細ごまと事実っぽい記述を重ねることによって「作品」として成立している。大筋で事実なのかどうかも定かでないが、こうなんだと見てきたように細かく語れば語るほど(記述を重ねるほど)事実かどうかを問わず想像世界に近づくんだね。

 単純で当たり前の話ではあるが、「作品」というのは単なる事実関係の記述ではない。「作品」は、語り手が意識下で、ある立場をとって(ある意図をもって)記述を積み重ねることにより世界を提示するのである。

 宇治拾遺物語は真っ当に説話文学として「作品」としての意図を持ち、さらに古事記や万葉集と同様、記述の重層化というスタイル(=表現)を獲得しているわけだね。

 忠家の話は〈屁〉の事件を語って笑いを誘う。語り手の意図は何だろうか。話の核心は〈屁〉が原因で出家しようとする忠家の心理過程にあるわけだが、語り手は、そそっかしい忠家の滑稽な話である...と意図しただけだろうか。それもあるだろう。だけど、セックスの最中に高らかに屁をしたリアクションそのものを伝えたいという、〈屁〉的現象における人の振る舞いの伝達こそが語り手の意図であると言わねばならないんだね。語り手の感動そのものである。

 そういう意図(感動)が何を意味するのか語り手自身も評価しにくいかもしれない。かくして、現象は理屈抜きで記述されるのである。結果として、いろいろな解釈(理屈)は付けることができる。「笑っちゃうねえ、これじゃ美女も台無しよ」なんて表層的に(手軽に)鑑賞しても楽しめる。(話の落ちとして、逆に〈屁〉でムードが盛り上がったとか、忠家が「いやぁ、あの女ったらさぁ」と暴露して珍事を自慢するとかの異説となる展開があるかもしれないが、ここでは忠家の寝ぼけたような心理過程が記述されているわけである)

 もう一度この一節を眺めてみよう。説明(解釈)的な描写は一切ないところに記述が成立していることがわかる。こうなると、意図を特定するには記述に入り込む(語り手を追体験する)しかないが、もともと「作品」における意図は重層的で明確には特定しがたいものなのだね。

 音成はこの話の場合「セックスの最中に高らかに屁をしたリアクションそのものを伝えたい」ことが語り手の意図だと言った。
 その意図を踏まえた語り手の独り言は例えばこんな感じかな。@セックスの最中に屁をすることはあるさAでも美男美女が自分の意志からではなく、いきなり出したら慌てるわさBまして派手にやっちゃあ二人とも仰天するわさC二人とも人前に出られぬと思って恥にさいなまれて意気沮喪するわいなDだけど女の過失なんだからねE男が出家までするのはやりすぎじゃないかFさすがに平常心を取り戻したけどさG人を惑わせる〈屁〉はこわいのうH女もどうなったんかのうIあわれよのう...などと延々と続くにしても、目をそらさずに感動的に見ているのは二人のリアクションなのである。(だからABCあたりがリアルにして主眼ですね)

 まあ、ホントのところ「作品」の意図の所在は明確には特定しがたいものであるが、それでもその意図は記述のなか以外にはないのである。

 「作品」を通して語り手は世界を提示する。作品化を促す意識とは、これも単純な話で、基本にあるのは感動を他人にアピール(伝達)したいという意識なんだね。(それは孤独に耐えられず他人様に訴えようとする、業みたいな意識の運動なのさ)

 作品化した〈屁〉とは、〈屁〉的現象における人の振る舞いを伝達しようとするものであり、記述の重層化という表現のスタイルを獲得したものである。

 ならば、「Aさんの屁は臭かった」というような単なる記述が、意図をはらみ、表現を獲得して「作品」となっていく契機は〈屁〉の数だけ遍在していると言わねばならないね。
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2005年12月09日

年取れば恥も忘れるおならかな

 放屁は数ある生理現象の一つである。恥ずかしいとされる生理現象だね。『人はなぜ恥ずかしがるのか』(菅原健介著、1998年、サイエンス社刊)の中で、羞恥を感じる生理現象の調査が紹介されている。これは大変ユニークな調査である。

 菅原たちの調査は「電車に乗っているとき、他の乗客たちに目撃されたり聞かれたりしたときにどの程度恥ずかしいか」という質問を用意して、9項目の生理現象について世代別に聞いているのだが、嬉しいことに、この9項目の中に「おなら」があるんですよ。
 興味深いねえ。〈屁〉的現象を究明する立場からはその着眼と分析を高く評価したい。

 音成はこれまで羞恥に関する本は多少目を通しているが、特に〈屁〉的現象に触れたものはなかったし、実に新鮮だったのである。(もっとも〈屁〉が出てくるのは「高齢者の羞恥心」というテーマの一節の数ページだけなのですけどね)

 菅原たちの調査によると、電車の中でもし聞かれたとしたら、全体平均で@おならA鼻水BいびきC腹の音DげっぷEしゃっくりFあくびGくしゃみHせき──の順で恥ずかしいという結果になっている。
 これを因子分析によって分析してみたら、@〜CのグループとD〜Hのグループの二つに大別されることが判明。また、性差では女性が羞恥をより強く感じ、年齢差では@〜Cのグループ(おならなど)は年齢とともに羞恥度が減少し、D〜Hのグループ(げっぷなど)は年齢とともに羞恥度が増加しているというのである。

 面白いねぇ。放屁は年齢とともに恥ずかしくなくなっていくんだよ。なぜ?

 ここで菅原は明確な解答を与えておらず、@〜Cのグループは「声帯と無関係な生理現象」であり、D〜Hは「声帯を介した生理現象」であると指摘するにとどめている。これは何を意味するんだろうか。そりゃ、放屁は声帯とは関係ないさ。

 突っ込んだ解答は、同じ調査を紹介した『羞恥心はどこへ消えた?』(菅原健介著、2005年、光文社新書)の中に見つけた。考察が深まっている。

「この結果についてはいろいろな解釈ができる。たとえば、『お腹の音』や『げっぷ』は身体から発するのでコントロールできない。一方、後者は声なので我慢が可能だ。我慢できない現象は仕方がないが、コントロールできるはずの『あくび』や『せき』を人前で我慢できなかったのは自立性の欠如を示すことになる。(音成注:できるはずのものができないのは恥ずかしさにつながるね)これが高齢者の社会的地位を脅かすというものだ。しかし、我慢できる『げっぷ』もあるし、どうしても止められない『せき』もある。この説明は決め手にはならない」

 音成は「決め手」になると思うね。菅原の「コントロール」を音成は「制御」と読み替えて次のように考えてみた。(菅原の調査をもとに音成が別に書いたものからの引用なので括弧で括らせてもらいます)
 
「制御力が旺盛な若い人は制御しにくい『おなら』がとても恥ずかしい。制御力が衰えた老人は今まで制御できていた『しゃっくり』が制御しにくくなっていることに気づき恥ずかしいのである。『おなら』は相対的に順位を下げる。
 生理現象のとらえ方は身体の衰えによって変わってくるのである。羞恥心は加齢による身体の状況(制御の可否)に左右されて変化をきたし、揺れ動くことを示している」
 
「加齢による身体の衰えによって『制御』に対する心的動機の軸足が変わるのである。つまり、歳をとれば、無作法な生理現象全般に対して身体は制御不能に傾斜していく(老化)。そうなると、逆に『制御できたものを制御できない』ことで羞恥度が増すのである。
 若いときの羞恥の軸は『制御できないものを抱えている』(制御力が高いがゆえに制御できないときの危険度も高い)ということにあり、老いてからの羞恥の軸は『いままで制御できたものを制御できない』ということにある。この軸足の変化によって羞恥度の逆転現象が起こると見なければならない」

「欧米では〈屁〉よりも『げっぷ』の方が恥ずかしいというのである。なぜか。これは食生活の違いからくる生理現象の頻度が影響している。端的に言えば肉食性か草食性かの差異である。
 肉食の場合は「げっぷ」が出やすい。〈屁〉は臭い。草食の場合は『げっぷ』より〈屁〉が出やすいが、ニオイは肉食ほどではない。こう見ると、恥ずかしい生理現象の頻度が高い(制御に追われる)ものほど羞恥度が増すのである。このときニオイは二の次であるといえる」

 補足すれば、「おなら」も「しゃっくり」も恥ずかしいことには違いないのである。ただ制御の力関係の変化が相対的に羞恥度の順位に影響してくると思うのである。

 制御するってことは危険なもの(恥)を抱えていることと同義である。制御力が高いと、より制御しにくいものへの羞恥度が高くなり(制御すべきものを、もし制御できないなら恥ずかしい)、制御力が弱まると、今まで制御できたものへの羞恥度が高まる(今まで制御できてきたものを制御できないなら恥ずかしい)わけである。

 若者も老人も制御のたがが外れる危険を感じて羞恥の心的な防衛に走るんだけど、その方向が同じではないんだね。〈屁〉的現象において、このことは〈屁〉の羞恥の相対性を示しつつ、一様でない現象の展開を示唆するんだよ。

 さて、菅原の本は生理現象に限らず人の羞恥のメカニズムを社会心理学の立場から様々の学説や独自の調査を通して幅広く考察している。社会、行動、感情、表出などのダイナミズムを解きほぐしながら羞恥の構造や機能に迫っている。
 最近作の『羞恥心はどこへ消えた?』は前著をベースに路上に座り込むジベタリアンの羞恥心の解明を試みている。面白いよ。
posted by 楢須音成 at 20:03| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 文献探索 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月11日

標準的な屁ってある?

 屁の化学成分(比)については諸説ある。そりゃそうだよね。屁の生成過程を考えても、みんな食い物が違うわけだし、体質や体調によって成分量が変わるわけだし、何をもって標準とするか基準がないのである。人の数だけ個体差があるってわけさ。

 屁の化学分析はいろんな文献にいろいろ紹介されているが、出典がほとんど明記していないのでどういう筋の調査分析なのかはあまりわからないことが多い。それでも相当昔から伝わっているし、様々行われていることだけはわかるのである。

 溝口白羊の『屁の喝破』(1914年)によると、
 窒素(59.4%)メタン(29.6%)炭酸ガス(10.3%)酸素(0.9%)その他(硫化水素、水素、メチルメルカブタン、インドール、スカトール)
 ※ちなみに福富織部の『屁』に紹介されているデータはこれと同じである。

 藤田保の『おなら粋門記』(1964年)によると、
 東大医学部:窒素(49%)メタン(29%)炭酸ガス(1%)酸素(0.7%)水蒸気(?)アンモニア(?)その他(?)
 A研究室:メタン(39%)窒素(35%)炭酸ガス(9%)水蒸気(8%)酸素(0.2%)アンモニア(?)その他(9%)
 B研究室:メタン(51%)炭酸ガス(20%)窒素(17%)水蒸気(2%)アンモニア(10%)酸素(?)その他(?)
 ※メタンが半分を占める屁って危険だよね。

 『匂いの身体論』(鈴木隆著、1998年、八坂書房刊)によると、
 窒素(23〜38%)二酸化炭素=炭酸ガス(5.1〜29%)メタン(0〜26%)水素(0.06〜47%)酸素(0.1〜2.3%)
 ※これは最近のデータのようである。音成所有の本では組成の図表に誤植があり引用に際して訂正した。

 上位を占める成分比だけでも結構な相違である。時代による食い物の違いもあるだろうね。メタンや水素は燃えるわけであるが、ついそこに目が行ってしまうよ。危険な屁ってあるわけさ。(メタンや水素は無臭だから、臭い屁が危険というわけではない)

 まあ、こんな相違は糞や尿だって同じ事情だろうね。そこに実体はあるんだけれども確定できないわけさ。例えば、「明治牛乳」は成分として確定した「商品」(基準を満たす合理的な実体)であるが、糞尿屁などはそういう性格ではないのである。

 こういう場合、素直になって糞尿屁に限らず実体とはそういう「現象」なのだと思えば気が楽になるね。〈屁〉を通して見れば、実際にはすべてこれが世の中の仕組みなんだね。〈屁〉を天気(現象)に喩えれば音成の今日は快晴でーす。明日は曇りかな。音やニオイは変われど〈屁〉は〈屁〉なのさ。(笑)
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2005年12月14日

われわれは〈屁〉において平等

 笑いには大別すれば、楽しくて笑うか(肯定的)、あざけって笑うか(否定的)の両面がある。〈屁〉にまつわる笑いの場合は、どっちもアリだね。笑いというのは、それだけ取り上げても不思議な身体現象であるが、『笑いについて』(マルセル・パニョル著、鈴木力衛訳、1953年、岩波新書)は笑いの古典的な名著である。(残念ながら新書は絶版)

 パニョル(1985-1974)はフランス文壇の大御所だったが、作家としての着想に満ちたこの本には〈屁〉についての言及が随所にある。

「文明人の許にあっては、生理作用が笑いを生むことは萬人の認めるところである。この領域においては、われわれはすべて平等であり、またそのことをよく知っている。
 運動・呼吸・消化・生殖、これはわれわれの生命を維持する動物的な營みであり、われわれはこれらのものに強い執着をもっている。これらの機能のどれかが、一時的に抹殺され・不活發になり・もしくは促進された人びとを見るのは、われわれにとって何となく快いものであり、健康に恵まれたわれわれはそれに満足して笑う」

 こう述べてパニョルの着眼は、生理作用における「性的機能」と「消化機能」にまつわる笑いに最大のポイントを置いている(人はこれらに最も反応して笑う)のだが、言うまでもなく〈屁〉とは消化機能にまつわる笑いだね。

 パニョルが言いたいことは彼の言葉そのままに「〈屁〉が笑いを生むことは万人が認めるところである。この領域においては、われわれはすべて平等であり、またそのことをよく知っている」ということである。

 笑いと〈屁〉の関係は複雑だけど、パニョルの理論はこうである。笑いには2種類ある。@私がそれより優越しているが故に笑うAそれが私より劣っているが故に笑う─というものだ。何だか同じこと言っているようだが、@は自分の優位性を(誇って)笑うのであり、Aは相手の劣等性を(あざけって)笑う。このとき私が相手より優位に立っていることが笑いの根拠であるのだが、@とAの違いは、つまりは心的動機の軸足が違うってことさ。(類似の事情が羞恥心でもありました)
 パニョルにとって〈屁〉の笑いは@に属する。

 〈屁〉という生理作用が喚起する笑いの決定的な例証としてパニョルが提示しているのが、フランスのムーラン・ルージュに登場した「おならの名人」である。〈屁〉の生理作用というものが、誰にでもある生理作用であるが故に、いかに拍手喝采をあびたかを活写している。

「一人の喜劇俳優が、ムーラン・ルージュで觀客の御機嫌を取り結んでいた。舞臺へは一人きりで登場するのだが、問題はそのお尻であって、これが大いにものをいう、その顔よりもはるかにものをいう代物であった。彼は『おならの名人』と呼ばれていた。
 その男は小粹な赤い燕尾服を着て、エナメルを塗った長靴を、金の柄のついた鞭で叩きながら、ムーラン・ルージュの廣い舞臺をしゃなりしゃなりと歩き廻り、ひっきりなしに屁をひるのであった」「みんながそれに聲(こえ)をあわせ、小屋は『割れんばかり』の騒ぎになった」(平賀源内『放屁論』の屁ひり男の描写を思い浮かべますね)

 「おならの名人」は様々の曲屁(屁芸)を行うのだが、お尻で歌うことができたというから、音楽性に富んでいた芸であったと思われるんだね。(話はそれるけれど、この名人の屁は臭くない屁であり、腸に直接空気を吸い込んだ肛門系統の屁であることが明記されている。ハモニカだね...笑)

 この本は笑いと〈屁〉の関係を論じたものとして先駆的なものである。パニョルは作家としての観察眼で笑いを様々の角度から分析しているが、自分の理論は「すべての笑いにたいして、有効な、唯一の説明を輿えうる」と大変な自信である。

 笑いの研究はその後いろいろ進んでいるようだから現代的にはどういう理論になるのかしらん。〈屁〉的現象における笑いの深層は是非とも究明したいね。
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2005年12月18日

一人でこく〈屁〉はくさくない

 〈屁〉にとってニオイは重要なのである。〈屁〉的現象の関係性や属性を考えるとき、『悪臭学─人体篇』(鈴木隆著、2000年、イーストプレス刊)は、ニオイという観点から多くの示唆を与えてくれる。

 この本は人体にまつわる悪臭にスポットをあてているわけだが、第一章が「おなら」である。第二章以下は「ゲロ・ゲップ・口臭・頭・足」「ワキガ」「膣と精子」「糞尿」「死体」と続く。鈴木はパフューマー(調香師)であり、香りの専門家。その彼が悪臭の分析やウンチクを傾けているのである。

 「おなら」の書き出しが面白い。鈴木がイタリアを旅したとき、列車のコンパートメントで老人がやおら立ち上がり尻を向けてブッと屁をこくのに遭遇する場面から始まる。その時の室内の人たちのリアクションや鈴木の感想が実に興味深いね。異国を訪れた人に、一発の屁が醸す〈屁〉的現象はなかなか強烈なものである。

「最初は連れ合いかと思ったが、そうでもないらしい。真ん中のおじさんだけが帽子をかぶっている。三人とも黙って本を読んでいたが、しばらくして真ん中の席のおじさんがおもむろに本を上着のポケットにねじこむや、立ち上がってくるっと後ろを向き、両手でジャケットの裾をまくりあげたかと思うと、尻を突き出して『ブッ』とやらかしたのである。
 本人は何食わぬ顔で座り直す。両脇のおじさんたちは揃って顔を上げ、『たまらんね』とでもいいたげに顔をしかめてみせるが、文句をいうでもなく、それほど驚いた様子もない。呆気にとられた私はただ彼らを見守るより他はなかったが、帽子のおじさんは悪びれた様子もなく本を取り出すし、左右の二人もすぐに視線を本へと落としてしまった。後は特別なにことも起こらず、何もなかったかのように列車は揺れ続けた」

 そりゃ、そんなことやられちゃ、ビックリするわさ。一見不可解な出来事(外国人=東洋人がいるコンパートメントでいきなり立ち上がって屁をこく行為)も彼ら同国人にとっては暗黙の了解事項(賛成不賛成はともかく意味がわかること)だったのか。

 鈴木は驚き、混乱する。そのとき彼は「外国ではおならは人前でしても失礼には当たらない」ということを目撃したのだろうかと思ったり、「あまりに堂に入った一連の動作だったので」外国はやはり違うのだと妙に感心したりするのだが、結局のところ、その後の海外生活の経験からも「無礼な奴だっただけ」と今となっては断じている。

 実際の真相は不明のままだが、このように〈屁〉的現象は唐突に他人との関係性の中に現れつつ、しばしば解釈不能(あるいは解釈の選択肢がたくさんある)という事態になる場合があるんだね。それだけ特異な現象なんだよ。
 居合わせた人は、単純に、ビックリ(あるいは動転)するのである。ただただそれだけに終始せざるを得ない事態になる。(要するに、どうしていいかわからん。宇治拾遺物語の忠家もそうだったね)

 しかし、このとき〈世界〉が現れる。〈屁〉的現象が赤裸々になっているんだよ。かくして、パフューマーとしての鈴木の関係性が〈世界〉をとらえる。「(動転から回復しながら、かすかな臭気に気づいて)それは、たしかにくさいといえばくさいが、さほど不快というほどではない。むしろ、そのときの私にはまるでヨーロッパそのもののにおいのように感じられたのである。未知であると同時に、懐かしくなるようなにおい……」という〈屁〉の属性を嗅ぐのである。

 ニオイ(屁の悪臭)へのこういう親近性とは何だろうか。鈴木は「おなら」の章の終わりの方でこういう考察をしている。
 他人の〈屁〉はくさいが自分の〈屁〉はくさくない。一人でこいたら、くさいほど愉快な気持ちになってくる。ニオイを楽しんでいる。他人の〈屁〉がくさいのは不快感が先にあるからだ。「父のおならのにおいだけは我慢できませんでした」という娘は、単に父親が嫌いだったということをいい換えているにすぎない、というのである。なるほど。

 では、イタリアの無礼な老人の〈屁〉は、他人の〈屁〉ながら、不快を通り越していたが、それはなぜだろうね。

 この本には、悪臭全般について示唆に富む考察や観点がちりばめられている。そして悪臭というものが身体に発するものであり極めて観念的なものであることを示しているんだよ。ニオイと〈屁〉の関係も、〈屁〉的現象においては重要な課題であり、更なる究明が待たれるのさ。
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2005年12月21日

屁はポックリ病の原因なのか?

 医学的な見地から屁は生理作用として「病気の予防と治療とに深く結びついている」という主張がある。『オナラは老化の警報機』(荘淑キ著、1984年、祥伝社ノン・ブック)は、オナラ(の対処を誤ること)は万病の因(もと)と警告している。

 溝口白羊は『屁の喝破』の中で肛門から出てきたものが〈屁〉であり、それ以前のものは腸内ガスであるとして区別していたね。これに従えば、荘が扱っているのは腸内ガスであるわけさ。

 この腸内で発生するガス体は、存在する場所(身体内と身体外)によって異なる属性の存在物として扱われてしまう。モノは一緒なのに、これだけ扱われ方に差があるものは〈屁〉を措いてないんじゃないか。これこそ〈屁〉というものの特質を示しているといえるのである。

 この本で驚いたのは、いわゆるポックリ病(突然死)が胃腸のガスに起因しているという指摘である。荘はポックリ病でなくなった人を解剖したときの所見で、彼らは一様に上腹部をガスで膨らませ、胃は内容物で膨満していたというのである。その他の身体的所見では全く異常はなかった。つまり、ガスが心臓や肺や血管を圧迫して影響を与えたのではないかと推定している。

 確かにガスの居所が悪いと腹痛をもたらすし、異常発酵してガスがたまり腹が張って仕方がないときがあるね。これが程度がすぎるとポックリ病の危険アリというわけだ。

 この本で示唆を受けたことが一つある。

 荘は父と夫をガンでなくしていたのだが、その二人の食生活とガスの関係を語っている。父は太っていて肉系の食物を好み、ゲップばかりしていたという。やせていた夫は野菜系の食物を好み、オナラばかりしていたという。二人に共通なのは体内のガスで、これがガンを誘発したというのである。

 荘の言いたいことは、腸内ガスは体に悪い影響がある、ガスが腸から体内に取り込まれて組織や器官の機能を低下させ老化や万病の原因になる、というんだね。年を取るとガスが発生しやすくなる。だから、人間の体というのはガス発生を最小限にどどめ、ガスは溜めずに速やかに体外に出さねばならないわけである。この本ではそのための健康法が紹介されている。(健康な肉体は屁を存在させないという見解は何となくショックでしたわ)

 さて、示唆を受けたのは、肉系の父はゲップ(口)、野菜系の夫はオナラ(肛門)と、ガスの主な出所が違っていたくだりである。音成は俗に言う外国人はゲップが恥ずかしくて、日本人はオナラが恥ずかしいということを連想したんだね。ああ、これって食生活の違いなんだ、と気づかされたのさ。(このことが、なぜ外国人と日本人の羞恥心の分岐になるのかについての私見は「年取れば恥も忘れるおならかな」の中にあります)

 この本は音成の文献探索の中では〈屁〉を扱うのではなく、とことん屁を扱っている点で数少ない一書である。音成は、屁→〈屁〉→〈屁〉的現象と使い分けているが(その説明はいずれしますが)、生理的な次元での屁をもとに健康法という切り口でまとめてあるわけである。数多ある健康本の一つとして異色ではある。
 それというのも、やはり〈屁〉だからなんだよねー。
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2005年12月26日

〈屁〉の笑話にパターンあり

 前にも触れたけれど、民話の中には〈屁〉が登場する。笑話として分類されるが、『日本笑話集』(武田明編著、1970年、社会思想社現代教養文庫)には〈屁〉の笑話がまとまって収録されている。解説と合わせて笑話の〈屁〉を知るには手っ取り早い一冊。こうした〈屁〉の笑話は大体のパターンがあるんだよね。
 少し武田の解説を拾い出してみる。

「野山にまじって竹を伐っている爺が屁の功徳によって福分を得たという竹伐り爺の昔話は、発端は竹取物語を想像させる。歴史は古いものと思われるが、後には屁っぺりの条(くだり)ばかりに興味が移り、多くの放屁ばなしを生み出していった」

(※竹伐り爺の昔話=殿様の山で木をかっていた爺が見とがめられるが、屁の芸をやってみせたら褒美をもらったというのが基本形。隣の爺が真似たら実が出て怒りを呼んで斬られたというオチもあったりする。芸の表現である放屁音に特色がある)

 武田は〈屁〉の笑話の原型として「竹取物語」に通じる「竹伐り爺(屁ひり爺)」をあげ、それが他の〈屁〉の話へと派生していったと柳田国男の説に則って解説している。臼田甚五郎の『屁ひり爺その他・昔話叙説U』でも同様の観点から、特に放屁音や放屁の芸能化に着目して笑話を分析していた。(「トッピンパラリノプウorグシュ」参照)

 放屁音については、この本でも「屁の音のさまざま」として一節を割いて紹介している。意味ありげな(ないかもしれない?)放屁音は面白いね。

「錦ダラダラ黄金ダラダラ、粟の調子でスッポンパイ(広島県佐伯郡)」
「綾チューチュー、コヤチューチュー、錦サラサラ五葉の松、タベテ申セバ、ピピラピーン(新潟県)」

 こういう放屁音って何を意味するんだろうか。錦とか綾とかは当時、庶民には手の届かぬ高価な織物であったわけさ。

「綾、錦、黄金は常民の空想することが出来る美しい宝物であるから、こうした宝物を放屁の音に付着させて、神のめぐみに浴する事が出来る爺は汚ならしいと考える放屁の音すらこのように美しいものだという事を強調したのであろう」

 どうだろうねー、この武田の解説は。「屁と宝物」の関係(連想)はもうちょっと突っ込んでみるべきだと思うんだけど。(面白い論考として三谷栄一の『古典文学と民俗』に収められた「ちちんぷいぷい─呪文と古典─」がある。糞尿や厠神との関連において考察している)

 ともあれ、〈屁〉の芸によって富裕になる道筋(パターン)が後に「福富草子」へとつながって中世風に作品化して一達成を遂げるのだが、この道筋ばかりでなく「多くの放屁ばなし」が派生してくるわけである。

「綾、錦、黄金、五葉の松が放屁の音に出てくるかぎりは放屁ばなしといっても、さまで下品ではない。ところがこれから多くの屁ばなしが発達してきて、話は極度に下品に猥雑になって来た」

 武田が指摘する「下品」な系列は「屁っぴり嫁御」の一節に数編まとめてある。馬鹿でかい放屁癖の嫁、屁を取りこぼして自殺した嫁、屁で盗人を撃退した座頭の坊、屁で豆の粉を飛ばした爺、放屁小僧、尻鳴りびら(しゃもじ)などの笑話が収録されている。

 これらを「下品」で片づけていいかどうかはともかく、話自体は文句なしに面白い。「下品」といったって〈屁〉は人間の存在に触れた現象なのだし、「下品」そのものが社会化された概念で絶対基準じゃないんだから、表現(現象)の領域で卑しめるのは間違いなのさ。下品も上品も、猥雑も優美も存在の表裏の有り様なんだから。
posted by 楢須音成 at 01:52| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 文献探索 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月31日

〈屁〉を語れば屁理屈と言われて

 糞尿とともに〈屁〉は語られる。『滑稽糞尿譚─ウィタ・フンニョアリス』(安岡章太郎編、1980年、講談社刊)は糞尿にまつわる作家たちのエッセイや作品を集めてある。〈屁〉に関しては二編ある。一つは安岡章太郎が平賀源内の『放屁論』とパニョルの『笑いについて』を比較し、もう一つは源内の『放屁論』をそのまま、いいだももが現代語訳で紹介している。〈屁〉の芸や、人のそれに対する向き合い方を追究する点でなかなか良いバランスだね。(現在この本は文春文庫に入っています)

 この本を読むと贔屓目かもしれないが、糞尿を語るよりも〈屁〉を語る方が含蓄(理屈)があると思ってしまう。屁理屈って言葉があるように、理屈をこくのが〈屁〉を語るときのスタイルなのさ。(音成も然りだねー)

 安岡章太郎の「『放屁抄』蛇足」では源内が目撃した曲屁福平に着目し、福富織部の本が医学雑誌の情報として伝えていた「音楽肛門」と呼ばれたフランスの男が、パニョルの『笑いについて』で詳細に触れられていることを紹介している。安岡は、放屁の芸などは日本独特のもので外国では医学的観察の対象になっただけだと思っていたのだが、パリで放屁を売り物にした男がいたのかと驚いているのである。

 音成はパニョルの笑いの理論を前に紹介したが(「われわれは〈屁〉において平等」参照)、安岡はパニョルの言葉をこう解釈している。(注=安岡が引用している部分で、パニョルは放屁のような生理作用は未開人を笑わせないと指摘する。そういう人間は生理作用において公然と自由に振る舞い放屁にも劣等感を抱かない。放屁のような生理作用が人々を笑わせるのは、より洗練された民族の間においてであると言っている)

「パニョルがここにいう《未開人》とは、どの民族を指しているのかわからない。しかし、おそらくそれは当時の暗黒大陸のアフリカ人を指しているというよりは、むしろアングロ・サクソン或いはプロテスタントを指しているのかとも思われる。なぜならばパニョルは、ここで屁よりも笑いを問題にしているわけで、笑いの背後にある文化的伝統について比較評価を下しているからである。一般にヨーロッパ人の意識では、自分たちとアフリカ人の優劣の比較は問題外である。マルセイユ生まれのパニョルとしては、地中海人の誇りをもって、人前の放屁が人を笑わせるのは、その人々──つまり、マルセイユ人、ゴーロワ人──が《より洗練された民族》だからだと言いたいのであろう。
 しかし、この結論は、洋をへだて、時代をへだて平賀源内の『放屁論』のそれと、よく見合っている。源内は、福平の放屁芸を見物したあと、友人たちの集っているところへ行って、放屁論議をたたかわせるのである。(中略)つまり源内は、屁の芸人にことよせて、武士階級のスノビズムをわらい、学芸各部門にわたった門閥の弊害をののしっているわけだ。その点パニョルの場合よりも、もっと先鋭で攻撃的であるといえるだろう」

 この見解には音成は反対。これじゃ、パニョルの笑いについての考えの純理論的側面を全く無視している。理論的立場からは《未開人》を特定する必然性はないんだよ。パニョルが言うところの「洗練された」文化という意味は、程度の差はあれ「生理作用に対して優劣を感じる(感じざるを得ない)」文化という意味と同義なのである。パニョルは優劣を感じる人間の心的作用をもとに笑いの起源に迫ろうとしたんだよ。

 まあ、民族意識(俺たちが洗練された民族だという優等意識)をベースにパニョルの論調を位置づけ(根拠があるの?)、源内の学芸門閥への攻撃に見合っているとするのは、話としては面白いけど、うがち過ぎかな。屁理屈と言っては失礼かな。それを除けば、安岡はフランスの「おなら名人」や源内の放屁論議をきちんと紹介しており、とても面白いよ。

 章の終わりで旧日本軍の中に「音楽肛門」らしい兵隊がいて君が代を吹奏したというエピソードを紹介して締めくくっている。掘り下げてほしい題材だなー。

 なお、最後の一編の『放屁論』は、いいだももの現代語訳で名訳です。

※本年はこれにて投稿は終了。よいお年を。
posted by 楢須音成 at 20:28| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 文献探索 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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