2005年11月02日

スカトロジーの末席の風

 屁と糞の関係はそう単純ではないのである。エッセイ集『屎尿屁』を書いた高野六郎は「屁は屎(くそ)の兄弟分」と言ったが、この兄弟関係は人の心的現象に濃い影を落としている。(音成はいつか屁と糞の兄弟対決を考察したいと思っているよん)

 ところで、糞尿(排泄物)に対する心的な傾斜はスカトロジー(糞尿譚とか糞尿趣味とか訳されますね)の領域とされる。スカトロジーに対する批評的エッセイ集としてフランス文学者、山田稔の『スカトロジア』(1966年、未来社刊)は外せない一冊である。この中に「放屁論」がある。(この本は、講談社文庫、福武文庫版は絶版。2004年に編集工房ノアから単行本として復刊されています)

 これまで紹介したエッセイ集は〈屁〉を〈屁〉として取り上げている。いわゆるスカトロジーの概念がほとんどない(あまり意識していない)ところで〈屁〉的現象をとらえているのであるが、山田は〈屁〉的現象をフランス文学仕込みの本家スカトロジーの中でとらえている。そういう意味では画期的なエッセイ集なのである。

 スカトロジーというものは極北である糞尿まみれという事態から常に照射されている体系と言わねばならないね。この体系に〈屁〉を位置づけることはなかなかに難しい。なぜなら〈屁〉は己の姿を見せない不思議な実体であり、我々の視覚には〈屁〉にまみれる姿などない(糞尿まみれと同様の事態は起こりにくい)存在物なのである。(要するに〈屁〉は見えないために空想現象に近いのですよ)

 山田の「放屁論」はスカラベのウンコの話から始まる。これが、いつの間にかウンコの分割の話に至って、やっと〈屁〉が登場するのである。この論の運びは、放屁論の出だしとしては奇妙でもあり遠回りでもあるが、スカトロジーが糞尿から始まることを思えば、切り口として不思議ではない。

(延々とスカラベや人間のウンコについて述べて)「ウンコは固体ないし液体であるから、太さや重さを測ったり、必要とあらば分割することも比較的かんたんである。だが気体である屁の場合はいささかめんどうだ。ところが今からおよそ六百年前に、屁の均等分割法なるシャレたものを考案した愉快な男がいたのをごぞんじであろうか。その名はチョーサー。『カンタベリ物語』の「刑事の話」のなかでのことである」(と、やっと〈屁〉の話になる)

 かくして山田の論は、屁の均等分割、屁が燃えるかどうかの実験話、平賀源内の「放屁論」と筆が進むのであるが、何ともまとまり感がないのである。糞と屁が結びついていないし、スカトロジーの中での〈屁〉の位置づけに及んでいないのである。
 山田はスカトロジーについて考察し糞尿の位置づけに卓見を示している(この本は批評性の高さからも名著です)が、〈屁〉の考察は留保され、エピソードの羅列になっているのは残念である。しかし、このこと自体、現在に至る〈屁〉と糞との関係の不分明さを象徴しているといえるんじゃ。

 それでも、確かに〈屁〉はスカトロジーの末席で舞っているんだよ。


posted by 楢須音成 at 13:40| 大阪 | Comment(0) | TrackBack(2) | 文献探索 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月05日

屁をひり分ける名人がいた

 糞尿、ゲロ、寄生虫、性器、エロなど下半身領域への幅広い傾倒を示すライター、松沢呉一のルポ風の批評的エッセイ集『松沢堂の冒険 鬼と蠅叩き』(1995年、翔泳社刊)にも〈屁〉が登場する。松沢の視点は単なるスカトロジーというくくり方を凌駕し「下半身趣味」「変態趣味」とでも言うべきアナーキーな志向性を持っている。

 そこには当然〈屁〉への関心もあるわけで、「鰻と日本茶 ──屁国先生を探して」という〈屁〉に関する一節がある。取材をベースにした松沢のエッセイの面白さは、本格的なルポっていうわけではないのだが、事実関係にこだわる(事実を突きつける)視点で繰り出す自らの行動や感想である。

 山田稔の『スカトロジア』との違いを言えば、
    『スカトロジア』→スカトロジー
    『鬼と蠅叩き』 →スカトロ(を凌駕した下半身)
 ということになるかな。(ジーのあるなしで行動様式は変わるわい)

 加えて『鬼と蠅叩き』は、松沢が集めた古書(珍書、奇書など)の来歴やエピソードが検証される構成をとっており、とても面白い。実は本の白眉はこれだと音成は思う。巻頭で古書を漁ってきた自分を批評しているが、本では〈屁〉についての文献も紹介してあり突っ込んだ解説がなされている。福富織部の『屁』を高く評価しているのである。

 屁国先生というのは、福富織部の『屁』に紹介されている人物で、明治時代に静岡県に住んでいたという屁の名人である。在所には屁で芸をする放屁家がたくさんいて大会まで開かれたというのだが、もちろん屁国先生はトップの実力者だったのである。(屁国とは「屁をこく」ということだね、念のため)

 松沢は屁国先生こと伊藤国太郎の足跡を訪ねて現地入りしている。ところが、そこでは誰も屁国先生のことを知らないし、屁にまつわる話が伝わっているようでもない。それでも子孫と思しき人を突き止めて会いに行くが拒絶され、わずかな周辺取材しかできない。屁国先生は一族に忌避され、周囲からは忘れられていたのである。

「正直なところ、現地に行くまで、屁国先生の存在を確信しながらも、何もその痕跡を探し当てることなどできないのではないかとの不安もあった。その時は芳川で屁でもこいてお茶を濁してしまおうとも考えていたので、今回の取材で何か運命的なものを感じたりもし、親族がなんと思われようと本名よりも屁国なる名前が覚えらてしまうほどに屁をひり続けた伊藤国太郎に、さらなる興味と敬意を覚えた。
 福富織部は、伊藤国太郎の項をこのように締めくくっている。
『屁国先生は安永の曲屁福平以上の名人であったかもしれない。ただ恨む、平賀翁の如き作者によって、先生の伝を立てざるを』
 日本のおなら史上に燦然と輝く偉業を残した屁国先生のことが人々の記憶から忘れ去られようとしている今、私が屁国先生の評伝を書かずして、いったいだれが書き得よう」

 是非実現して欲しい。

 ところで、芸の達人である曲屁福平や屁国先生が親族にも疎まれ忘れられていくのはなぜか。屁の芸が評判はとっても弟子を育てる(伝統にする)というように市民権を獲得しないのはなぜか。ここにも〈屁〉的現象というものの謎めいた性格を認めないわけにはいかないんだよね。
posted by 楢須音成 at 17:47| 大阪 | Comment(1) | TrackBack(0) | 文献探索 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月08日

たかやかに(お)ならす(る)タイミング

 国文学者の批評的なエッセイ集にも〈屁〉は取り上げられる。『ホーソンの樹の下で』(林望著、1997年、文藝春秋刊)は、2000年に『落第のスゝメ』と改題されて文春文庫に入っているが、ちゃんと「屁池物語」という章がある。(屁池→平家のモジリですね)

 このエッセイ集は、森鴎外の句作を下手の横好きと断じる考証など国文学への卓見がちりばめられているし、丁寧な文学鑑賞には思わず引き込まれる。のですが、音成は〈屁〉の章に関しては少々不満なのである。

 まず歴史物語「大鏡」にある藤原時平(左大臣)と菅原道真(右大臣)の〈屁〉のエピソードを紹介している。時平の独断専行を阻止するために才覚者の史という役人が、書類を差し出して、たかやかに一発やらかしたので、時平は笑いのあまり「今日は術(すべ)なし。右のおとどにまかせ申す」と政務を投げ出したという話である。林はこの話を受けてこう語り出している。

「これが歴史上に、一発の屁が悪政を防いだという、甚だ重要な意義を有する屁の話である。
 このタイミングというものが、大切である。ここぞというときに、あやまたずやらかす、そういう技能を史は持っていたのであろう。
 実は、恥ずかしながら、私自身、胃が先天的に捻転しておって、それがためにゲップというものが出たことがない。上へ出ない分、すなわち気体は下に下にと大名行列のような塩梅に進んでいって、一日にひる屁の回数からすれば、たいていの人には負けないつもりである(こんなところで負けん気を出しても仕方がないけれど…)。<と、自分の屁の話が続く>
 ともあれ、米と雑穀を主食とし、野菜など繊維質の多いものを副食とする食習慣のわが大和農耕民族は、その食習慣のしからしむところか、世界的にみてもたいした屁こき民族であった。
 それゆえ、屁をひるという芸に達していた人も、いくらもあったとみえ、そういう人を主人公とする文学作品が、これまた立派に存在するのである。
 まず古いところでは、<と、次の話題である「福富草紙」の〈屁〉の話になっていく>」

 この論の運びに音成ははぐらかされたように思ったわけである。「一発の屁のタイミング」→「自分の屁」→「屁こき民族」→「屁芸に達した人」→「福富草紙という作品」と展開されるわけだが、まるで連想ゲームだよね。いずれも論点(批評の視点)としては大事なものばかりなのに突っ込みがないのではないかしらん。(ただし、ここに集められた屁文学は目配りもよろしく、面白オカシイ話題を提供していて堪能できます)

 山田稔の『スカトロジア』でもそうだったが、極論すればエピソードの紹介というか、羅列というか、そういう展開に終始して〈屁〉的現象の考察に突っ込んでいないのである。手練れの論者でも〈屁〉というものはそういう扱いなんだよ。

 林は『古今黄金譚』(1999年、平凡社新書)では、本格的に日本文学におけるスカトロジーの考察をしている。音成は共感するのだが、糞尿の両義性(聖汚一如)を追究することによって林は、人間存在の深部を探り当てているのである。
 まあ、そこでも〈屁〉は末席で舞っている感じではあるが、「あとがき」で乃木将軍の〈屁〉のタイミングを論じて「ブゥという刹那に、その脱俗の人生観を能く物語っている。まさに、馥郁(ふくいく)たる屁とはこれを言うのであろう」と、屁が屁でなくなっていく瞬間を指摘して〈屁〉の実存的な意味を問うている。

 こういう批評の視点の積み重ねが大事なんだね。
posted by 楢須音成 at 01:41| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 文献探索 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月11日

続続・〈屁〉の批評とは何だろ〜ヵ

 批評というものは飽くなき「分析」によって培われていくのである。
 〈屁〉に関する限り分析的視点の導入は日本では明治以降であったわけだが、ほかの欧化案件と同様に〈屁〉の批評の潮流は自然科学的視点(化学分析とか)と人文科学的視点(歴史分析とか)の間を揺れ動いて現在に至っている(はずである)。

 これまで主に〈屁〉的現象に関心を持っているエッセイ集を探索してきたわけだが、作者たちはエッセイのテーマの一部に〈屁〉を用意して熱く語っているのであった。それらの傾向は「〈屁〉の批評とは何だろ〜ヵ」でまとめた@からDまでの批評の指向に深浅あれども概ね当てはまる(はずである)。

 エッセイということではCであり、批評の可能性としてはDのバリエーション(広がり)へと向かっている(はずである)。

 CのDの言うことはやめよう。要するに、作者が顔を出している作品指向のエッセイの中においても〈屁〉は分析・体系化へと向かって(深化して)いることを音成は言っているのである。

 それら〈屁〉的現象への批評は総力戦ではなく個別戦が行われているわけであり、残念ながら、ここ久しく〈屁〉のまるごと本は出ず、まして雑誌のまるごと特集もない。なかなか全体が見えない状況ではあるのである。(そういう意味では、最初にやった福富織部の『屁』の総力戦は凄いよね)

 現在の地平から、論じる観点はいろいろあるはずなのである。だけど、まだ整理されていないし、視界は霧の中にあるように見通しがつかないのである。
 霧の中に敢えて突っ込んだとして、まるごと〈屁〉をテーマにした一冊の本の場合はフレームワークの「まとまり」感(の不足)が目立ってくるだろうね。瞬間技(単発)の論文やエッセイの場合は、全くの言いっぱなしではないにしても、観点の提示だけでカッコつけの言い切りが可能だから(音成はいつもこれをやっとる)、論点は千々に砕けて乱脈を極めるんであるよ。(...笑)

 〈屁〉に関する批評の論理展開に音成は不満を漏らしもしたが、〈屁〉的現象をただ並べただけでは分析は常に隔靴掻痒なのである。分析が〈屁〉的現象の「構造・構成」に言い寄らない限り〈屁〉を論じたことにはならないのである。

 ともあれ、〈屁〉的現象への批評は多くの人のエッセイによって深くも浅くも脈々と受け継がれていることは見てきたとおりである。
 これはこれで、とてもうれしいが、「やがてこの潮流は整理されていくだろー」…なんて、楽観的であっていいわけでもない。なぜならば、人は自覚しない限り何もなしえないからである。〈屁〉に自覚的である人はどこまでいるかは不明であるわい。

 〈屁〉を論じる(批評する)ってことは、〈屁〉的現象にどこまで自覚的になれるかということであるぞ。

 福富織部の『屁』から「屁から見た明治大正側面史」の一節を引用する。
「明治開明の世になると、屁は先ず化學者に取り扱はれた。即ち顯微鏡の渡來と供に、屁を試驗した。佐々木忠次博士によると、『屁は、形がないものとは何人にも考えられてゐたが、私の友人は、顯微鏡で試驗をした、その結果、屁は金の粒の集合だと言つて大發見したやうに云いふらし、大いに笑つたことがある』と、語られて居る。
 けれども、それより前に、屁は、操觚者(そうこしゃ=今で言うジャーナリスト)の為に、重要視せられてゐた。
 いひかえると、政府攻撃の有力なる資料となつて居る。つまり、正々堂々と反對をするに於いては、直ちに捕へられて、牢獄にぶち込まれねばならない。そこで、屁といふ愛嬌者を捕へ來たつて、時事を諷刺することが多かつた」

 化学者とジャーナリストを対比させながら、福富織部は自然科学的視点や人文科学的視点の萌芽を時代における〈屁〉の諸相(展開)として自覚的に見ているね。
posted by 楢須音成 at 11:06| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月15日

天下を論ずる屁の喝破

 昨日探していたある本を入手したのである。いやー、久しぶりに感動した。(笑)
 『屁の喝破』(溝口白羊著、1914年、本郷書院刊)は、福富織部の『屁』に先駆して〈屁〉を語った「まるごと本」である。(単なるエッセイ集だろうと思っていたので、探すのに熱心でなかった不明を悔やんでいるですわ。まるごと〈屁〉とはねェ)

 音成は福富織部の『屁』をもって本格的なフレームワークの最初と評価していたのであるが、目次を見て驚いた。

※まず以下に引用する。
第一章 緒論
第二章 屁とは何ぞや
第三章 屁の分析
第四章 屁の出來る順序
第五章 屁を形成する黴菌
第六章 屁は何故臭いか
第七章 屁は黄色に非ず
第八章 屁が出なかったら如何なるか
第九章 屁の出過ぎる病氣
第十章 屁と薩摩芋との関係
第十一章 屁と軍事上の價値
第十二章 男の屁女の屁
第十三章 屁の藝術的氣分
第十四章 屁の法律關係
第十五章 生物學上の屁
第十六章 屁の傳説
第十七章 屁に關する俚諺
第十八章 屁と川柳
第十九章 青年の屁の力(上)
第二十章 青年の屁の力(中)
第廿一章 青年の屁の力(下)
第廿二章 屁と家庭の和樂
第廿三章 屁の競爭
第廿四章 屁の小説
第廿五章 天下の快漢放屁男
第廿六章 屁と阿耨多羅三藐三菩提
第廿七章 屁の輿論
第廿八章 江戸の屁上方の屁
第廿九章 屁の國益

 いやはや〈屁〉を論ずるにこの目配りは凄いじゃないか。
 そして読み始めて「あれれ」と、音成は思惑が外れていく複雑にして愉快な気持ちを味わったのである。溝口白羊という人は狂気じみているスタンスに立つ。というか、まあ、この本は〈屁〉至上主義をもって世の中を喝破している書なのである。道理で書名が『屁の喝破』。

 溝口の〈屁〉に向かう論理は面白い。腸ガス(腸内のガス)が肛門から出てきたら、そこで初めて〈屁〉になると指摘(区別)しているが、〈屁〉の由来を説くのに、まずは詳細な腸ガスの化学分析や医学的解説を延々と行っている。そうやって肉体的な〈屁〉を実体化しつつ、それを根拠に世の中の〈屁〉的現象へと飛躍する。その手続きはこんな感じ。

「(乳食、肉食、植物食によって屁のガスの組成分が違うことを示して)即ち此表に依つて見ても、肉食をする者と菜食をする者と、自づから其屁の組成分が違ふことは明々白々である、随(したが)つて世界人類の屁は、民族の如何を問はず、學識、才能、資産、腕力の如何を論ぜず齊(ひと)しく其臭いことは同一であるが、常に美食を多量に取る西洋人の屁とは、其臭さの工合が違ふのである。否單に其にほひが違ふばかりでなく、其内容に於いて、其強さの度に於いて多大の相違が存するのである。
 此の相違の比は亦(また)、國内的關係に於いても援用するすることが出來る、即ち比較的巨大の資本を擁して居る岩崎、三井などの屁と、恒産なくして徒らに頭の一部のみが發達して居る無資力階級の屁とは、其間少からぬ徑庭(けいてい)が存在する、然も現代日本人の多くは無資力階級であつて就中(なかんづく)國力の中堅たる可き中等階級が甚だしく窮乏を告げて居る。だから對外的の屁として日本を代表する立派な屁を放ることができない(と、日本人の屁には強さと力と太さがないと嘆じること延々と続く)」

 こんな一節もある。

「そして自己を擴張(かくちょう)する前に、自己を知らねば成らぬ、自己を内省し自己を解剖して、初めて自己の屁の弱點(じゃくてん)を知り、然る後に自己の屁の革命、自己の屁の壞滅(かいめつ)があり、自己の屁の充實(じゅうじつ)があつて、確信ある自己の屁の発動が其處(そこ)に行われ、自己の屁の進路が其處に開かれるのである。吾人は自己の屁の臭きを知らざる者と共に哲學を論じ、人生を語ることを欲しない」

「予は屡々(しばしば)醜汚なる屁の臭さの中に、崇高な靈的の生命と、美しい詩歌的氣分の蕩漾(とうえい)するを見出した。自分自身の屁の中に生命を見出したばかりでなく、人の屁のにほひの中にも、他の凡ての生物の屁の音にも、力強く自分と流れ合ふ所の屁の生命の大なる動きを見出した」

 こんな議論は無理矢理の附会に近いのであるが、それが許されるのも〈屁〉ならではである。このとき〈屁〉は、良く言えば「生命力」とか「気」とかのように、人間の発する根源的な不可視のエネルギーのようなものとして扱われ、至上のものに祭り上げられているんだね。
 もちろん高貴な〈屁〉なんて一般にはないんだし、放り出された〈屁〉は負の側面(例えば音やニオイ)を人様々に併せ持っているので、エネルギー的に言えば、例えば老人の屁と青年の屁は音もニオイも質が違ってくるわけである。その辺の機微(からくる附会)が溝口の論点になる。(要するに〈屁〉に仮託して世の中を論じとるわけだね)

 溝口は一見すれば〈屁〉の研究をしているかのような(実際よく調べている)フレームワークの中で時事評論を展開しているのだが、時評の意匠として〈屁〉のフレームワークを持ち出しているのである。
 平賀源内のような戯作精神と言ってもよいが、〈屁〉そのものに対する向き合い方としては戯作の中で〈屁〉が獲得している表現性に、化学分析や医学の視点などを持ち込んで近代性を加味した時事評論といえるわね。(成功してるかどうかは微妙ーかな)

 さて、福富織部の『屁』には、この『屁の喝破』から「屁の藝術的氣分」が収録されており、福富も『屁の喝破』は参照していることがわかる。当然、本全体のフレームワークに強く影響を受けていると思われるのである。
 福富は、文明開化で屁が化学者によって取り扱われて新たな表現を獲得したことや、それより前に〈屁〉は言論をものする者(ジャーナリスト)にとっては政府攻撃の資料になっていたということを指摘していた。『屁の喝破』はそういう時代の流れと同期しているとも言えるね。

 なお、溝口白羊(1881-1945)は当時文筆家としては、詩作、幕末もの、少年少女もの、古典の評釈など、かなり書いている人である。
posted by 楢須音成 at 00:12| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 文献探索 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月20日

古事記に〈屁〉は登場しない

 〈屁〉に関する文芸作品(屁文学)をさかのぼると、どこまでいくのだろうか。
 歴史書の古事記は、その物語性(神話)によって文芸作品として昇華しているわけであるが、日本起源神話の面白さは独自の輝きを放ち、神話の素材に糞尿や性的なことが欠かせぬものになっているのである。では、そこに〈屁〉の物語はあるんだろうか。

 ないんである。『一発』の中重徹は古事記に〈屁〉の出現はゼロ(ちなみに糞は六回)と指摘しているが、われわれの書き言葉の表現域に〈屁〉が登場するまでには時間がかかっているのである。もちろん、文字で表現されないからといって〈屁〉がなかったわけではないね。(生理現象の屁は人類登場とともにあったわけさ)

 〈屁〉に関する文芸作品の興隆はだいぶ時代が下がるのだが、国文学的な通論では「貴族文化の黄金時代たる平安朝より鎌倉中期までの一期間と庶民文化の勃興期たる江戸時代とに於て、それぞれ特色多き魅力を発散している」(『屁と文學』宮永志津夫、文藝市場社「猟奇」1957年冬期讀物號掲載)となっている。

 ところで、当時のカストリ雑誌に〈屁〉のテーマが登場しているのはご注目だが、この『屁と文學』は性的なことに傾倒するよりも至極正統に、江戸時代の〈屁〉の文芸作品を鑑賞・解説している。『新編 薫響集』のアプローチと同じである。

 まあ、そうは言っても発表誌の性格は意識していて、性的なものをふまえ筆者の宮永はこんな批評を披瀝している。

「(屁は)ともかく純然たる自然の生理現象をもつて、強いて恥かしい氣分をひきおこしている有様だから、男女間の欲望の如きをもその真髄をえぐらんとしてえぐりえず、屡ゝエロだの猥セツだのとくだらぬ俗評を蒙つているのだ。屁にしろ性慾にしろ、元來これ位極めて自然な健康的なものはないのである。なにしろこれらは、何よりもわれわれが生きているということによつて生ずる現象なのだから」

 また、宮永の鑑賞の一節。
「○ふとんの内のわるじやれは又すかし(滑稽發句類題集二篇中巻)
 ふとんの内というからには、中なる人物はまづもつて男女二人と見るが至當であろう。『わるじゃれ』とは、じゃれつく程度を越したふざけ方を言つたもの、二人きりの若い者同志が世間をはゞからずふざけかえつている有様は凡そどんなものかはよろしく想像に委せるとして、すつぽりかぶつた夜具の中の、二人の體温でむせ返りそうな温氣の中で、知らん顔して、スーッとすかす──勿論やるのは男にきまつた話。何處へも漏れ所のないふとんの中忽ちツーンと腦天にしみ渡るような強烈な臭氣。
 『あレッ、あなた臭いわ…』(と、鑑賞は空想たくましくサービス精神が爆発して〈屁〉の臭いラブシーン描写が続くのである。おかしくも随分エロいよ)」

 宮永は屁と性欲を並べて自然の生理現象であるがゆえに健康的と位置づけているわけだが、人類登場とともにあった屁が〈屁〉的現象となっていく過程が人間の歴史なのだね。そこにおいて〈屁〉的現象は健康的であるや?

 「表現されない(無視)」→「文芸化」→「批評化」という〈屁〉の歴史経路を考えたときに、『屁と文學』がカストリ雑誌に発表され、「屁」と「性欲」の親近性(同居性)を示した宮永の認識(批評)は良しとしなければならないが、〈屁〉も〈性欲〉も健康的という点は異を唱えざるを得ない。

 音成は古事記に〈屁〉が登場しなかった一つの理由は健康的じゃなかった(忌避される理由があった)からだと思っているくらいである。(近代人は、例えば健康でもないものに健康とレッテルを貼って安心するような思考回路を有するんですよ)
posted by 楢須音成 at 01:28| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 文献探索 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月23日

屁でハモニカしてみないか?

 『糞尿屁 座談会』(1969年、「話の特集」7月号掲載)で深沢七郎、永六輔、竹中労、野坂昭如、矢崎泰久(司会)らが糞尿屁を賑々しく漫言している。愉快である。矢崎の「クソの深沢、ウンコの野坂、ションベン竹中、屁の六輔、と世に聞こえ高く…」という紹介で始まる座談会は、現代人(男性)の糞尿屁への向き合い方の一断面を示しているのである。

 音成は特に〈屁〉に関してが面白い。座談会には微妙に糞尿と一線を画す〈屁〉の語り方が表出しているんですよ。主に〈屁〉を語るのは「(屁の)無冠の太夫」を自称する永であるが、糞尿が実体験や目撃談など視覚的なエピソードのオンパレードなのに対し、〈屁〉の話はかなり精神的(理屈)だったりする。

深沢 匂っちゃ駄目なんだってね、屁は。
  そうなんです。食い物でだすような屁は駄目なんです。
 深沢 ポーンと音がよくて、匂いがあっちゃ駄目なんだって。普通の稽古事の初段は大したことないけど、屁の初段免状を持っている人は、サイコーのいい趣味らしいね(笑)なぜかというとね、匂わないいい音の屁がポーンとでるような体調にしとくにはね、食事から何から節制して、ほんとにいいコンディションにしとかないとできないんだそうですよ。
  深沢さんそうおっしゃるでしょ。ところが、食物とか、腸のなかでの発酵の具合ででる屁は、下の下なんです。ホントの上手な屁はハモニカとおなじで、押してだすだけじゃなく、吸って音を出せないと駄目なんです。
 深沢 こりゃあ、随分と研究してますね」

 ここでは、〈屁〉の最上のもの(上手な屁)は「ハモニカとおなじ」だとランク付けしている。ポイントは肛門から吸って押して音を出すということである。それって、腸に発生しない屁って、〈屁〉なの?という疑問がわくが、どっこいハモニカの指摘は重要なんであるぞ。

 このあと座談会は〈屁〉の芸(曲屁)の話へとなっていく。つまり芸の成立のために〈屁〉はハモニカと同じにならなくてはならないのである。そういう〈屁〉が至上のものであるかどうかは留保するが、〈屁〉における芸能論の原点はここにあると音成は考えておるよ。

 この座談会、とにかく糞尿屁談義に花が咲いて盛り上がっている。笑うけど、妙にもの悲しくもなるんだよ。(人は何でこんな風に糞尿屁を愛するんだろうねー)
posted by 楢須音成 at 01:51| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 文献探索 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月27日

これぞ天下太平の楽の音

 平賀源内の〈屁〉に関する著作を論じた『江戸の花咲男──源内をめぐる比較放屁論』(芳賀徹、「ユリイカ 特集・平賀源内」1988年4月号掲載)に面白い指摘がある。音成が前に「源内は〈屁〉を論じたのか?」で引用した『放屁論』の一節(放屁男の芸の描写)を評して「まことに陽気でのんきで、臭味はなさすぎるほどなく、これぞ天下太平の楽の音ともいおうか」と言っている。

 ここで芳賀が感じた「臭味のなさ」って何だろうか。
 このあと芳賀は源内の放屁論の性格を日本文学や外国文学との比較で論じて、「放屁の文学というには、これは放屁男をだしにした諸芸諸学発明の論に傾きすぎて、あるべき臭気が乏しすぎるであろうか」と、臭味を放屁男の芸そのものというより源内の作品全体の性格として敷衍している。

 源内論については控えるが、芳賀が源内による放屁芸の描写に臭味を感じなかったというのは本質を突いているのであるぞ。つまり、〈屁〉的現象における臭味とか臭気のあるなしは大事なポイントなのであって、つまりは放屁芸の成立にニオイは邪魔なのである。

 永六輔が『糞尿屁 座談会』で力説していた最上の屁は「匂っちゃダメだ」という論も軌を一にしている。簡単に言ってしまえば、放屁が芸として成立するというのは臭気を排して純粋に音に徹する現象なのであるね。(なぜそうなのかは、また別の議論だね)

 臭気のない屁はどうするかというと肛門から空気を吸って出す。つまり、お尻がハモニカ状態になるわけである。この特技を身につけた人が芸人としてデビューできるわけだね。源内が目撃した放屁の芸人、江戸の花咲男はそういう特技の持ち主だったと思われるわけである。古今東西の屁芸の達人はすべてそうである(はずである)。

 さて、源内をめぐる芳賀の比較放屁論の目配りは大変参考になる。単に国文学的な目配りではなく外国文学へも目を向け、〈屁〉的現象の作品を渉猟している。源内を通じて比較文学の視点を持ち込んで、それまでにない機軸を提出しているのである。

 芳賀は「源内の作に一番近いのは、サルヴァドール・ダリ編(?)のトロンペット伯爵著『放屁術、あるいは腹黒砲兵操典』と称するペダンチックな一奇書かもしれないが(天才の日記、一九六四)、これとの屁較文学は後日の楽しみとすることにしよう」と締めくくっている。
 紹介している『放屁術』にとても興味をそそられる。音成は未見じゃー。
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2005年11月28日

燃える屁の系統

 昔、腸の内視鏡検査をしたとき、その終了間際に医師はしきりに「おならをして楽にして、楽にして」と言ったのであるが、このときばかりは何も考えずに素直に人前でプリプリやったものである。

 内視鏡検査では腸内に空気を送って腸をふくらますのである。こういう場合の屁は肛門から入っていった空気である。一般的な屁は口から入ってきた空気である(というか、腸内での発酵や腐敗で発生したガスとの混合気体)。

 だから、〈屁〉っていうのは口と肛門と二系統あるわけなんだね。これは大事な現象だよ。

 昔から「屁は燃える」という論議があり燃屁実験も行われているが、燃える屁とは「口系統」の臭い屁である。(確かに燃えますよ。音成は体験しました)
 燃える理屈は単純で、腸内細菌が産出したメタンが燃えるのである。メタンが多いと可燃性が高いわけだね。実際、手術中に電気メスの熱で引火して爆発した事故もあるという。

 その点、内視鏡検査は安全な施術なわけである。

 「肛門系統」の臭くない屁は燃えない屁であるが、こちらは芸をするには理想の気体である。だけど、屁を燃やして芸をするっていうのもアリかねー。(笑)
posted by 楢須音成 at 00:47| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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