2005年10月04日

〈屁〉の批評とは何だろ〜ヵ

 批評は対象(作品)をあれこれ論じるところに成り立つ。
 そもそも作品とは何ぞやとはここで深追いしないが、何かを論じるっていうのは、どういう形であれ分析・解釈・評価して何らかの体系化(秩序化)を目指すのであるね。
 そこで〈屁〉であるが、例えば大昔から〈愛〉が作品(文学)化され、それが論じられて、見果てぬ理論(覚めやらぬ夢のようだね)へと結実してきた一方で、〈屁〉はなかなか批評の対象とはならなかったのである。
 
 われわれの〈屁〉的現象への批評が芽生えたのは凡そ明治以降であると言わねばならない。いわゆる近代化というものが何かにつけ認識の枠組みを大きく変えたわけだが、遅蒔きながら〈屁〉に対する批評性をも持ち込んできた点で意義深いのであるぞ。

 きっかけはー、何か。(フジテレビじゃないよ。最近おならの番組ありましたけどね)
 多分それは開化で持ち込まれた〈屁〉の化学分析なのである。それが持ち込まれた衝撃が隠微に潜入し影響を与えたのである。何事につけ深ーい影響があるとすれば、持ち込まれたもの自体(分析結果)への反応もあるが、それを産み出した知の枠組み(取り組む姿勢や手法)への驚きなのである。
 
 まあ、〈屁〉の化学分析の結果(その表現=認識)に感心しつつ(仰天したわけはなかろう)、認識の新境地(批評性)が開けたことは間違いない。そういう時代の風が吹いていたわけである。
 
 福富織部の『屁』の出現はその影響下にある。

 これまで音成が取り上げてきた本は、原則的に一書まるごとテーマを〈屁〉としているものであるが、そのフレームワークの検討によって日本近代における〈屁〉的現象への批評性の変遷を示してみたのだ。(笑...ホンマかいな)

 かくして音成は『屁』の意義を強調するわけだが、大雑把だが批評性の変遷を以下のようにまとめておこう。

 『屁』の登場は〈屁〉的現象における日本初の集大成(フレームワーク)の試みとして画期的である。そこには萌芽的にいろいろな要素(指向)が存在している。
 後続の本は読み物的な洗練度は高めつつも、批評性においては現在まで発展途上の段階であり、多くの面で『屁』の水準を超えてはいないのである。

@大きな特色である総合的な資料集としての指向は『一発』に引き継がれている。
Aジャンルによる分類の指向は『おなら粋門記』『ヘ調ウンチク辞典』『屁珍臭匂臭』『おなら考』などに引き継がれている。
Bこれら諸作は『屁』にもあった面白オカシイ読み物指向も色濃く引き継いでいる。
C作者が顔を出すことで芽生えていたエッセイ(自分の身辺との関わりの中に〈屁〉をとらえるスタイル)という作品指向は『放屁学概論』『おなら粋門記』などに引き継がれている。
D福富織部が思い立った「集めてみる→分類(分析)してみる→論じてみる」という分析手法の指向は、国文学的アプローチの『新編・薫響集』や民俗学的アプローチで〈屁〉をとらえる『屁ひり爺』などに結実している。

 史的に見ると、現在に至る、これらの諸作の間には多くはないが、短編の〈屁〉の諸作や議論がいろいろ存在している。これらの総体が〈屁〉の批評性を支えているのである。基本的には@〜Dの指向の中にあるといってよいが、さて、これから〈屁〉的現象への批評が広がる可能性はどこにあるのか?


posted by 楢須音成 at 00:27| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年10月08日

続・〈屁〉の批評とは何だろ〜ヵ

 いまなお〈屁〉の化学分析はウンチクを傾けるときには触れざるを得ない基礎知識である。例えば〈屁〉の成分や成分比ということなどがそうだが、こういうこと(記述)が何で批評性を喚起したのかといえば、それによって〈屁〉を(西欧流の=科学的に)実体として見る観点を獲得したからである。

 論証抜きで言っちまうけれども、お鳴ら(おなら)とか転矢気(てんしき)とか下風(げふう)とか、実体に即した名称ではなく、ほとんど情況(場面や態度や動きなどの有り様)を指し示すことで曖昧に実体を示してきた〈屁〉が、初めて明確に実体を分析の対象にするという画期的な段階に達したのである。(何よりここから〈屁〉を「瓦斯(ガス)」と呼ぶようになったんだよ。「瓦斯」と呼ぶ気体の認識の背後に日本文化を背負わない異質な認識のフレームを見たんだよ。じゃ、明治以前はどうだったんだ?ってことになるけどね)

 近代化という時代の風が〈屁〉的現象へも吹いたのである。そこから現代に至るまでの批評性の概略を前回@〜Dの指向として示したわけだが、まあ、スケールが小さいと言えば小さいね。散発的で脈絡は見えにくいし、太い流れではないんである。(だって〈屁〉なんだもん...笑)

 音成の探索によれば、紹介した本以外に今日まで散発的に発表された〈屁〉の諸作や議論もまた@〜Dの指向を持っているのだが、これからの批評の可能性の主力は、いろいろなアプローチ(観点)の可能性を示唆するDにあるのは自明である。文明開花で獲得した〈屁〉を実体としてみる観点はいまや当たり前だし、それを前提とすれば、多彩な観点からアプローチが可能になるのである。

 すべて〈実体〉とはそれに即して詳細に(多方面から)観察すればするほど〈現象〉(実体の振る舞い)として立ち現れるものであり、そこを認識してこそ批評の根拠が見えてくるのである。

 例えば〈屁〉を化学分析すれば、

 「次に化學上の屁の集成はといえば、次の如きものである
  酸素 水素 窒素、炭酸瓦斯 硫化水素
  メチールメルカプターン
  そして初めに云つた屁の異樣なる臭氣は、硫化水素とメ
  チールメルカプターンが其主たる成分である、俗によく
  いふやうなアンモニヤなどの臭氣ではない。或る人は、
  インドール、スカトールなども、亦屁の臭氣の一部成分
  として居ると論じて居る」
            (『滑稽新聞』宮武外骨、1908年)

 もちろん、この記述はすべての本質(〈屁〉的現象の本質)を示しているわけではなく、一つの観点から見た〈屁〉の現象ということになるのである。

 こうした〈屁〉の化学分析だけをみても検体の数だけ成分も成分比も微妙に違うわけであるし、現象を細かく観れば観るほど確言しにくいのが現象である。では、その現象(の全体)をどう記述(表現)すればいいのか、などど考えてしまいませんかな。
 
 化学分析は〈屁〉的現象に新たな表現(記述)を提供した時点で十分に画期的なのであるが、一方で分析が拡張していく可能性を暗示し、さらに新たな別の観点の創出へと導くことにもなるのである。(現象の一方的記述は残尿感のような不全感を常に内包しているもの。されば疑心暗鬼する分析は分析の積み重ねにより新たな分析を呼び続け、分析的手法は連鎖的に多方面からの分析の可能性を示唆するんです)

 派生していく新たな別の観点によって、これからの〈屁〉の批評性は培われていくに違いない。
 もっとも、化学、物理、文学、民俗、心理、芸能、歴史、言語、医学、地理、音楽...などなど、われわれが〈屁〉的現象にアプローチするのに既存の知の枠組み(観点)のままでいいのかは、全く不明であるわい。

 これまでに紹介した〈屁〉に関する本は『おなら考』以外は現在では絶版になっている。また雑誌などに発表された〈屁〉の諸作や議論(対談など)はそのまま埋もれてしまっている。音成の探索も古書が99%という有り様。なかなか〈屁〉的現象は流れに(批評の対象に)なりにくいのである。残念じゃ。
posted by 楢須音成 at 21:42| 大阪 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年10月11日

外骨が先駆した「屁の研究」

 実は音成が知る限り、福富織部の『屁』よりも早く〈屁〉の研究を標榜したのは宮武外骨である。1908年(明治41年)の「滑稽新聞」に『屁の研究』が連載されている。織部の『屁』の(着想の)源流はここにあるのではないかと思われる。

 外骨の『屁の研究』は「正當なる法律の解釋上から觀れば屁でも無いことを、屁ツポコ共が騒ぎクサルから、屁でも嗅がして遣らうと思つたが、先ず屁の研究をやる事にした」と最初に宣言して始まっている。

※連載の章分けは以下の通り
第一發 歴史上より觀たる屁の研究
第二發 文藝上に現はれたる屁
第三發 醫學上より觀たる屁

 残念ながら「滑稽新聞」は連載が始まった直後に廃刊になっていて、そこで終わってしまったのであるが、これまで文献探索してきたわれわれの目で章分けを見れば、外骨の構想が向かったところは十分に察せられるではないか。(こういうところに外骨の知的な枠組みの先駆性を感じますんや)

 ここは何より「研究」と称したところが新しいのである。取るに足らぬ〈屁〉を「研究」(の対象と)するということは少々奇矯だったかもしれないが、画期的だった。外骨流の諧謔的な姿勢はあっても、「研究」のフレームは「歴史」「文芸」「医学」というように堂々と観点を提出している。こういうことが従来なかったのである。

 すなわち「研究」とは物事に体系を持ち込むことである。〈屁〉的現象を対象化して見るこのような視点こそ日本近代化の一側面なのであるぞ。

 前回引用した化学分析は「第三發」で狂眼防なる人の投書として紹介されているものである。今日から見ても〈屁〉が詳細に正確に分析されていることがわかって面白い。外骨はこれに続けて「要するに屁は放散すべきもの」とし、巷の放散現象を考察して話は動物に及び「是等の動物は他の侵害に對する正當防禦として最後屁を發するのであって、其智勇實に感ずるに餘りがある」と言う。そして「吾輩は糞大臣や悪元老などいふ癪に障る奴共に對して、此屁を放っかけてやりたい」と結んでいる。(この時評的な悲憤慷慨は「研究」からは少し逸脱してる文脈だけど、書き出しの宣言とは見事に対応してるね)

 織部の『屁』は『屁の研究』の延長上にある。こんなところの外骨の先駆性は目立たないけれども、見落とせない業績だと思うのである。
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2005年10月14日

源内は〈屁〉を論じたのか?

 音成の好きな平賀源内サンはいかにも人間くさい人である。さぞかし屁もくさかっただろうな、などと軽口を叩いては失礼千万であるが、源内が〈屁〉を論じたことはよく知られている。

 源内の〈屁〉に関する著作は「風來六部集」の中の『放屁論(ほうひろん)』『放屁論後編』『痿陰穩逸傳(なえまらいんいつでん)』がある。これらの中でも〈屁〉的現象の批評においては『放屁論』が重要であると思うが、音成が最初にこれを読んだときは実に新鮮だった。
 源内は〈屁〉をモチーフにして言いたい放題(江戸に登場した芸をする屁っぴり男を誉めちぎって諸芸の専門家と称する連中の怠慢ぶりを罵倒)しておるのですよ。

 さて、源内の論の指向は時評である。文体は面白オカシイ戯作。〈屁〉がファクターとなる奇矯な言葉遊びの連打が繰り出されて笑うが、源内は〈屁〉に仮託して時代を斬って怒って嘆いたのである。科学者として〈屁〉そのものを論じた(分析した)のではない。

 源内は当時一流の科学者であるが、〈屁〉に対して現代の科学者のようには向き合ってはいないわけである。『放屁論』ほかに見られる〈屁〉への視点は〈屁〉をネタにして語る戯作者なのである。(その視点というか、発想は井本蛙楽斎の『薫響集』の影響が指摘されていますね)

 宮武外骨の『屁の研究』のアプローチと比べてみると、両者の違いはハッキリしている。もともと外骨は時評家として活動した人であり、こちら源内は科学者として活動した人であるが、二人のアプローチの観点は全く違う(逆である)ことに気づくのである。
 外骨は〈屁〉そのものを批評しようとしている。源内は〈屁〉をモチーフに世の中を批評しようとしている。(外骨も動機は世の中を批評しようとしているわけだけど、〈屁〉に向き合うに当たってそのことは脇に置いてまず〈屁〉そのものを究めようとしたわけですね)

 『放屁論』にはところどころ〈屁〉的現象を語る大事な指摘や事象が語られていて批評性が皆無というわけではない。特に屁っぴり男の芸を描写するところは科学者らしい実見談(特異な〈屁〉的現象の目撃)になっているが、基本は戯作のモチーフの位置づけなのである。

※源内が目撃した放屁男を『放屁論』から以下に引用する(表記は読みやすく直しているので悪しからず)
上に紅白の水引ひき渡し、かの屁っぴり男は囃方(はやしかた)と供に小高き所に坐す。その人となり中肉にして色白く、三日月なりの撥鬢奴(ばちびんやっこ=びんを三日月の形に剃り込んだ髪の形)、縹(はなだ=薄い藍色)の単衣に緋縮緬(ひちりめん)の襦袢(じゅばん)、口上(こうじょう)爽やかにして憎げなく、囃しに合わせ先ず最初がめでたく三番叟屁(さんばそうべ)、トッパヒョロヒョロピッピッピッと拍子(ひょうし)よく、次が鶏(にわとり)東天紅をブブブウーブウとひり分け、そのあとが水車、ブウブウブウとひりながらおのれが体を車返り、さながら車の水勢に迫り、汲(く)んではうつす風情あり。

 芸の描写としてはなかなかのもの。これが放屁芸であるところに源内の面目がある。ほかの人もこの歴史上の屁っぴり男を言及しているが、実写した描写はここにしかない。貴重である。(このときの源内の眼は実体=現象に対して十分批評的です)

 ともあれ、源内の「論」は近代化という時代の風とは無縁のところにあって花開いたのである。源内の世に対する満たされぬ思いが戯作の「論」を通して表現され、少々というか、段々と狂気じみていくところが平賀源内サンらしいところ。好きですわ。
posted by 楢須音成 at 00:12| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 文献探索 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年10月18日

屁は屎の兄弟分なりや

 まるごと〈屁〉の本というわけではないが、〈屁〉が重要なモチーフになっているエッセイ集がある。衛生学者である高野六郎の『随筆 屎尿屁』(1928年、富士書房・春陽堂刊)もそうした一冊。この書名のミソは屎尿ときて〈屁〉に目が向くことである。(高野は北里柴三郎の高弟の一人)

 書名の由来は衛生学を背景にした糞尿へのこだわりが出ているのであるが、着眼している〈屁〉への思いこそがこの本のヘソ(収めどころ)になっている感じ。だって、「随筆 屎尿」では即物的に過ぎますでしょう?
 本全体は本業の糞尿にまつわることはもちろん、官僚でもある医学者の日常生活のエピソードが医学的・比較文化的考察などを通して綴られている。〈屁〉のテーマに関しては「屎尿屁」「屁の恐怖」の二編が収録されている。

 わざわざ書名にも入れた〈屁〉を高野はどう見ていたのか。「屎尿屁」にはこうある。

「屎は米の飯の殘骸であり、尿は体内の廢水を意味するであろうし、屁はその字義不明瞭であるが、恐らく肉體的臭氣を示して居るものであらう。屎は大體固形體である。尿は原則として透明な流動體である。屁は瓦斯體であることは明であるが、其の色澤清濁等は確かめられていない。兎に角人體の廢物に物界の三相を示顯して居るのも何かの啓示かもしれない」
「生理的に考察すると屎と屁は兄弟分であるが、然し尿とは遠い親類にしか當たらない。屎と屁は出生地を同うする」
「屎、尿、屁と並らべてぢつと睨らむで居ると哲學者のような嚴肅な氣持になる」

 また、「屁の恐怖」には、

「屁の科學的考察は餘り聞かない。科學的研究の對象としては屁は餘りに材料が不安定である、之を正確に捕捉することは困難であるためである。非常に心棒強い米國の生理學者が自分のお尻へゴム管を挿入して之を特製のガスタンクへ結合し、屁の成分を檢定しようと企てたさうであつたが、到底研究を終了するほどの材料は取れなかつたさうである。放屁の名人とか、屁を動力にして織機を運轉した娘などの話はきくが、實際には之を採集することは餘程困難なものであるらしい。醫學者は糞、尿はおろか汗や涙まで分析研究し盡くして居るのであるが、未だ屁に及ばないのは有繋の醫學者の研究マニアも一寸手がつけられないためと思はれる」

 高野は糞や尿と同じ科学的研究の対象として〈屁〉を見る視点を持ちつつ、どうやら〈屁〉の捕捉しがたさを持てあまして笑っている(楽しんでいる)ように見えるのが面白い。

 この本の最初の一編は「フン談」。のっけから汚穢屋(おわいや=汲み取り業者)の話で始まり、便所の持論や糞の研究が語られる。この本では〈屁〉的現象も概ね糞尿との関連や生理や衛生など医学的観点で語られるのであるが、真面目に語るほど〈屁〉的現象というのはどこかとぼけたところがあって(糞の採集より屁の採集がオカシイよね)、高野は惹かれているのだと思うね。

 音成は医学者が〈屁〉へのこだわりを書名に示した点を評価する。高野は医者さんでは最初じゃないのかな。本の出版は昭和の初めで福富織部の『屁』と大体同時期である。

 なお、「屁の恐怖」とは、青年が外国で寄宿していたお宅の隣家の牧師の妻が性の営みの仕度の前に高らかに放屁するのを(のぞいて)聞いて、我慢できずに笑い出し「のぞきがバレた」と恐怖に駆られて逃げ出すエピソードである。この本の後半は「女性観」として章があてられている。屎尿屁と同様の高野の「(女)性」に対する独特のこだわりがうかがえて興味深いですな。 
posted by 楢須音成 at 22:23| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 文献探索 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年10月22日

〈屁〉を語る人のタイプ(1)

 医者とか理系の人は〈屁〉を語る人が多いように思うのである。語り口は様々だが、『随筆 屎尿屁』の高野六郎と同じように、身体の余剰物としての〈屁〉の捕捉しがたさを熱心に語っちゃうのであるね。〈屁〉に対するこの情熱(尽きぬ興味)は何だろうか。

 発売当時、その軽妙ぶりが評判になったベストセラー『はだか随筆』(佐藤弘人著、1954年、中央経済社刊)の著者は一橋大学教授の理学博士だった(教えていたのは経済地理など)。このエッセイ集にも、ちゃんと〈屁〉の一節(「放屁論」「続放屁論」)が用意されている。学者の日常生活のエピソードが多方面から語られ、もともと下ネタ猥談が多い本である。

 本の全体は高野の『屎尿屁』とは対照的に、題材が同系列でもかなり柔らかく、くだけた筆致の展開で語られる。著者の佐藤はざっくばらんな人だったようで、まあ、人柄もあるんだろうね。『はだか随筆』に続く『いろ艶筆』(1956年、新潮社刊)では佐藤自身が自分のスタンスを述べている。

「私の随筆はなるだけ身近かな例をとって、例えば小便とか、おならとか、食事とか、入浴風景とか…をとって、これを出来るだけ自然科学的に分析し、これだけでは泥臭くなるので、これに哲学的考察と、文学的匂いとを加味して、読んだあとの「あと味」を上品に高尚にしたのです。また時にはきわどいエロ談もありますが、そのすぐあとで神様に物をいわせ、自分でもわからないような原理原則的な理屈をならべ、また医学的な衛生学的なことを持ち出して、そのエロ談を美化し浄化してあるのです。つまり、表現形式を出来るだけ上品に立体化するように心がけたのです」

 佐藤が言う上品とは随分な飛躍だけど、自分の方法を語るに見事な解説だね。開陳している料理法は煎じ詰めれば「(科学的)分析」と「体系化」なのである。この点は『屎尿屁』の高野の料理法と同じなのだが、佐藤の「体系化」は哲学、文学、神様、原理原則、医学、衛生学などへの附会が、分析の延長ではなくしばしば飛躍になっているのが面白オカシイのである。
 もちろん、そこは笑いをとる狙いである。例えば、「とにかく屁は、爆発性を伴うメタンガスで、燃えるものであることが実証されたわけで、ビキニの実験と共に洵(まこと)に慶賀すべきであろう」などと言う。屁とビキニの実験に何の因果関係もないが、爆発のイメージを対比する飛躍の面白さは伝わるね。(慶賀という附会はいただけませんが)

 佐藤の〈屁〉に対する情熱はいささか露悪的で笑う。

「私がこんな放屁論を書いたのは、実は私が病的なほど、おならが出るので、おならに非常に関心を持っているからである。私は、いも、牛乳、落花生を食ったときなど、猛烈に出るし、手でへその下を二、三回押すと、いつでも出る。腸のどこかに故障があるのであろう。それも、私のは、いつでも湿っぽく、音が小さく猛烈にくさい。子供など「おとうさんのを、嗅ぐと鼻がひんまがるよ」とか、「二、三日飯がまずい」とか云う。私も自分でそう思っている」

 それにしても分析的で冷静な筆致ではあるね。ホント臭そー。
posted by 楢須音成 at 10:24| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 文献探索 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年10月24日

〈屁〉を語る人のタイプ(2)

 医者にエッセイ集が多いのは職業柄いろいろな人に会って観察眼が備わって、エピソードも豊富だからだろうね。医者としての身体への関わりや視点をもってすれば、当然〈屁〉も視野に入ってくるわけである。〈屁〉へのこだわりには並々ならぬものがある。

 学者肌の産婦人科医が書いた『おさんずいひつ』(小倉清太郎著、1961年、河出書房新社刊)にも「放屁論」という章を設けている。多くは文献などからの〈屁〉の話の紹介が多く平凡なのだが、中に自分体験のエピソードで面白いのがある。

「一九三六年、私はベルリンに留学した。科学者の常として、女の生理には敏感で、ドイツ女の屁について統計をとった。
 トイレの中か、フトンの中が多いというデータがでたが、ある日ドイツ画家の筆になる名画を手にした時には、この世を天国と思った。
 美女がローソクの火を消そうとするユーモラスな作品である」

 本には、唯一の図版として美女が放屁でロウソクの火を消そうとしている絵画が一頁を割いて入っている。しかもカラー図版。本の構成上はちょっと唐突な感じである。よほどの自慢(愛着)であろう。(確かに素晴らしいですわ)

 小倉が集めている〈屁〉の話は福富織部の『屁』などを参照しているようであるが、節の構成のフレームワークを意識してあり、まとまり感としては「読み物的フレームワーク」に近いのである。

※節を引用してみる
八頭身のラッパ
音楽肛門
春の山屁
匂いは想像の感覚
おならのエチケット
オ・ナラ・ワンダフル
屁は一芸、臭けりゃ逃げい
放屁一発、妻への返礼
有名人のおなら
笑いの哲学

 医者のエッセイ集をもうちょっとあげておく。
 『ふんどし随筆』(竹村文祥著、1962年、同盟通信社刊)、『おなら先生』(太田馨著、1962年、金剛社刊)も、お医者さんが書いたものである。いずれも巻頭に〈屁〉を考察する一編を配している。(発行時期といい、本の構成といい、集中現象が起きておるなあ)

 少し時代は下がって『屁三百六十五日』(藤野是常著、1976年、北欧社刊)も同様で、書名が巻頭の一編の題名となっている。藤野は一日何を食べて何発放屁したかの屁日記をつけていて、一部を紹介しているのが面白い。

「一日六乃至十回が、約六十五%で一番多く、約過半数を占め、所謂、普通の食事、即ち、米飯二杯位、刺身、天ぷら、すき焼、鍋物、鰻、かまぼこ、湯豆腐等々においては、上述の数字が示すように一日六乃至十回位らしい。一日十一乃至十五回となると、矢張り、芋類、納豆、栗、ししとう、にら、ねぎ、きんぴら、蕗薹(ふきのとう)、らっきょう、たくあん等々、主として野菜類を食べた翌日に多く、近頃流行の餃子、インスタント、ラーメン等も、その効力は大きいようである。一日十五回ともなれば多少病的で、祭り、会合、自棄酒等の大酒、または、過食の後、或いは、抗生物質を投薬した後などは多量に放出するようで、これらは、腸内細菌のバランスを崩す為と思われる」

 この報告のもとになった詳細データ、貴重だと思うんだけど、どこかに残ってるのだろうか。
posted by 楢須音成 at 08:20| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 文献探索 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年10月30日

加速する〈屁〉のサービス精神

 もちろん〈屁〉を語るに医者だけがエッセイ集をものするわけじゃない。では、医者以外の人の手になるエッセイだと〈屁〉の扱いはどうなるんだろうか。(医者以外とは大体、文系の人ですね→こういう区別はあまり適切じゃないか?)
 つらつら眺めるに、サービス精神が強調されるようで、このとき〈屁〉は面白オカシイ面が強調されるのである。

 『おなら説法』(中村全享著、1981年、祐学社刊)はこれまで紹介した医者の軽いタッチのエッセイ集と変わりない構成。〈屁〉については冒頭から「おなら放談」という章がある。〈屁〉に関するこだわりは、まえがきに「本書は私の屁についての研究報告」とあるところからもうかがえる。といっても全編が〈屁〉かというと、〈屁〉の分量は全体の三分の一程度である。

 中村は〈屁〉の語り部(紹介者)だった。あちこち呼ばれて講演していたようで「おなら説法」とはそういう自分を戯画化して語っている。〈屁〉がテーマの語りなら笑いをとることは、まあ、基本中の基本。ウンチクや自分体験を通して〈屁〉的現象を面白オカシイものとして語っているわけだが、〈屁〉の「研究者」としての語り口はサービス精神にあふれているね。

「象は小心者である。あんなでかい図体をしていながらとおかしくなるが、草食動物の悲しさだろうか。
 しかし、おならは図体にふさわしく、動物のなかでもいちばん大きい。
 ブーッ、ドカーン!! ブーッ、ドカーン!!
 象が象舎の中で一発放つと、部屋じゅうが揺れる。隣に寝ている象も目をさますほどだ、とこれは到津動物園長の森友氏から聞いた話」

 笑いをとりながらも、〈屁〉というものが状況次第で憎まれ口を叩かれたり熱烈に歓迎されたりする「運命の悲しさに胸をつかれる思いがした」とも吐露している。〈屁〉的現象の捕捉しがたさが中村のそもそもの出発点なのである。〈屁〉を〈屁〉として見て冷静なんである。

 『悦声 我輩は屁である』(仁藤祐治著、1995年、近代文藝社刊)は漱石の小説をもじった書名であることはすぐわかる。

「我が輩は屁である。
 (略)
 生まれはその通り最末端、肛門であるかもしれないが、その扱いは断然素晴らしく、どの辞書類を開いてみても、「へ」の項では必ずトップに奉られており、しかも、人々が敬意を捧げる感嘆詞から、這いつくばっての平伏まで、みんな「へー」ということになっている」

 猫ならぬ「屁のような奴」を任じる著者が、〈屁〉をもって世の中を見渡してみようという心意気で、文学ネタに始まって〈屁〉の考察や〈屁〉をモチーフにした身辺雑記が展開する。後半は井伏鱒二ほか〈屁〉に引っかけた文学者のエピソードが綴られる「ブウ学漫歩」だが、こちらの屁談義は無理矢理の感もありチト苦しい。(「ブウ学漫歩」は筆者に関係する文学者や地理を通して語られるので〈屁〉とは関係なく面白いですけど)

 「悦声→エッセイ」「ブウ学→文学」「屁コロジー→エコロジー」「屁和→平和」といった語呂合わせやモジリも頻出する。この辺は仁藤の資質(得意)なのであろうが、大体〈屁〉は連想的なモジリが容易という、笑いをとる言語の拡張性を持っているのであるね。仁藤のこういう附会は〈屁〉に照準が当てられ、結構、強引だったりする。
 全編〈屁〉のエッセイ集で面白オカシイという点では藤田保の『おなら粋門記』などと同類だが、趣はかなり違って、話の主なベースになっているのは民話や文学ネタである。〈屁〉的現象の捕捉しがたさを含蓄として指し示しながら概ね文学論(議)の枠組みで〈屁〉の話を伝道するサービス精神にあふれている。

 『みだらまんだら』(永六輔著、1972年、文藝春秋刊)は巻頭に「屁論議」を配したエッセイ集。オール讀物に連載されたものをまとめた本である。全体はポルノエッセイと標榜していて下ネタの「論議」で構成されているのだが、永六輔とグラフィックデザイナーの山下勇三とのウソかマコトか虚実ないまぜにした交流を軸に〈屁〉談義が展開する。

「僕の友人の山下勇三サンは安永年間に人気を集めた曲屁曲平の六代目にあたる人で、その屁芸の見事さは古文書にある曲平の古典的な芸を完全に再現してしまう。
 僕は彼の屁芸を楽しむたびに、屁をもって拍手にかえている」

 最後までこんな調子だから大笑いだが、永の〈屁〉のウンチクがどっさり埋め込まれている。語り口に面白オカシイを増長するいささか無軌道なサービス精神があふれかえっている感じ。こうなると〈屁〉の暗黒面(捕捉しがたさ)は顔色ナシであるわい。

 さて、〈屁〉を語る『おなら説法』『吾輩は屁である』『みだれまんだら』の三冊を順に並べて面白オカシイを見れば、〈屁〉というものが「リアルな面白さ」→「視点の面白さ」→「虚実の面白さ」へと次第に遷移して観念化の遊びが進化しているのであるぞ。(面白いことに、本の発行は『みだれまんだら』が一番早い)
posted by 楢須音成 at 01:09| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 文献探索 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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