2005年09月03日

続・奇書が奇なのは何でだろ〜ヵ

 当たり前の生理現象〈屁〉を素材にした本が「奇書」となってしまうのは「一つ一つはつまんないことなんだけど、たくさん集めたら凄いことになっちまった」というような転換構造があるからである。(たくさん集めてもつまんない場合もあるだろうし、単に集めればいいというわけではありませんからね)

 「凄いことになる」転換は別に「奇書」に限らない。世に優れた本には、成績表的・正誤表的な客観評価とは別に、あまねくそういう転換が用意されているものである。
 「奇書」の類もしかり。(奇書とは優れた本の一分野なのです)
 それは、素材の「ボリューム(量)」と、集めた素材を構造化する「フレームワーク(内容の構成)」との相互作用が、われわれの精神に「凄さ」を喚起してくるメカニズムなのである。
 
 素材が凄ければ、フレームワークが弱くてもインパクトはある(かもしれない)が、素材のインパクトがなくフレームワークも弱いとなると、いくらボリュームが多くても拡散してしまいインパクトはないのである。(まあ、それでも「テーマが単一=〈屁〉一本槍」というフレームワークでも本は成立するけどね)
 
 そろそろまとめに入ろう。
 @〈屁〉とは「誰でもする」当たり前の生理現象である
 Aそれは奇ではないが数を集めてくると奇に(近く)なってくる
 Bしかし単に集めただけではたいしたインパクトはない
 C真打ちの「奇書」に昇華できるかはフレームワーク次第である
 
 うーむ、なんか問題が残る感じ。

 .....音成は〈屁〉を当たり前として奇でないと強弁してきたが、実のところ、〈屁〉的現象というものは笑いや恥にまみれていて、本来は当たり前であるはずの生理現象が笑いや恥へと屈折していく深層を持っているのである。

 われわれはその深層を(無意識的に)感じている。それ故に「テーマが単一=〈屁〉一本槍」でもフレームワークは成立するのである。

 深層にちゃんと着目すれば〈屁〉的現象はそれ自体で「凄いことになる」のであるが、それを認知しなければ単なる当たり前の生理現象レベルなのである。

 かくして〈屁〉の七変化する素材の凄さに無頓着(表層だけしか見ていない)なら、その本は正しく奇書には成り得ないのである。〈屁〉とはそういうものです。


posted by 楢須音成 at 02:17| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月05日

同香異曲版の余薫遺響

 何故に〈屁〉(の話)は人を惹き付けるのか。
 福富織部の『屁』を先達として「面屁九年、資料五百余点、作品のジャンルは大別して十七種ほど」の「同香異曲版」としてまとめられた本がある。中重徹(なかしげとおる、1897-?)の『一発』(1977年、葦書房刊)もまた〈屁〉のアンソロジーとして大部の書である。
 中重は「まえがき」で織部の『屁』の「余薫遺響を伝え、遺漏を補修したいという大気(おおけ)ない意図のもとに編集した」とユーモアを以て謙虚に述べている。「同香異曲版」も中重自身の表現である。

 中重は織部以降の〈屁〉(の話)の収集家としては、音成が知る限り一番の人であると思われる。『一発』はその集大成だが、『屁』にはない資料として宝暦七年の「薫響集」(これは面白いよ)が入っているのはご注目だし、昭和に入ってからの文学や評論を渉猟した資料もたくさん盛り込まれているのである。(ここは白眉です)

 『屁』と『一発』を並べてみると「余薫遺響を伝え、遺漏を補修した」中重の意図(執念)はよく伝わってくる。やはりそのボリュームに賛嘆するのであるが、よくまあ、これだけ集めたなと脱帽。この2冊は相補って〈屁〉的現象の広さを表現(そして資料提供)してくれるのである。

 肌合いの違いはある。中重は基本的に「屁文学」(の収集)という視点を外さない。織部は〈屁〉にまつわる「文献」+「出来事」(の収集)という視点でグローバルな関心を持ち、〈屁〉的現象を自ら追究(考察・報告)もしている実践家の風貌を持つ。
 どちらも結果的に「屁文学」の資料収集が大半を占めるので「同香異曲」を感じるが、肌合いの違いは確かにあるわけなのである。

※『一発』の目次を引用しておく。
評論
医学
随筆・小説・詩
笑話・落語
俳句・川柳・ことわざ
民話・伝説
わらべうた・民謡
海外篇

 この『一発』のフレームワークは『屁』の延長にあり、本の構成をジャンルで集積してまとめているわけである。今となってみれば、全体にわかりやすい(平凡な)目次構成といえる。

 ここで、あえて両書に対する音成の不満を言えば、各資料の年代がほとんど明記されていないことである。(そりゃ、大半は調べりゃわかるものではありますが、資料には歴史の刻印があるわけですから、それがあると有り難い。価値は大です)

 ともあれ、『屁』と『一発』を並べみれば〈屁〉的現象の時代性というか、歴史の進化のようなものをしみじみ感じる音成でございます。
posted by 楢須音成 at 03:21| 大阪 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 文献探索 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月08日

屁は、芋の煮たるを種として

 古今和歌集には「やまと歌は、人の心を種として、よろづのことのはとぞなれりける」とあるが、何事も言の葉に上るようになると、次第にそれは表現域を拡張していくものである。
 われらの〈屁〉的現象もまた表現域を獲得し、拡張していった歴史を持っている。(もっとも、屁文学というジャンルが確立・発展しているとは言い難いですねえ)

 『一発』をまとめた中重徹は、国文学者の興津要(おきつかなめ、1924-1999)との共著で『新編・薫響集』(1972年、読売新聞社)を出している。(実はこちらが『一発』より5年早い刊行です)
 『一発』は解説を付けない資料集になっているが、『新編・薫響集』は〈屁〉的現象が文学その他でどう扱われてきたのかを、文学資料を駆使して解説・評論した本である。(副題に「おなら文化史」とあるのは、「薫響集」だけじゃ店頭でわかりにくいというんで版元が付けたんでしょうけど、文化誌とでもしたほうが中身に近い。「史」を付けるほど体系だった歴史意識でまとめてはいないです)

 残念なことに本の記述はどこが中重で、どこが興津なのか明記されていない。はっきりわかるのは「まえがき」(興津)と「あとがき」(中重)ぐらいである。
 音成は「あとがき」が、この本の白眉だと評価している。
 
 中重は「あとがき」で「すべての文学は消化器系と生殖器系にわかれ、さらに拡大して考えるなら前者は屁の文学であり、後者は愛の文学である」と言っている。
 これは、フランスの詩人レミ・ド・グールモンの「人間というものは、せんじつめれば、消化器と生殖器からなりたっている」という言葉に文学というものの原型を見出し、「人間」を「文学」に置き換えて〈屁〉と〈愛〉を対峙させたのである。
 なるほど、消化器と生殖器に着目すれば、文学(あるいは人生)は〈屁〉的現象と〈愛〉的現象の二極で割り切れるのだ。(なんちゃって。言い切ってしまっていいのかな)
 
 中重は放屁に関する戯文をして文学の外道とする傾向に抗して、消化器系の〈屁〉(の含蓄)を〈愛〉(の含蓄)と同様に評価せよと宣言しているのである。所詮〈愛〉とは(珍個万個の)生殖器系ではないか、(後門運個の)消化器系と変わりゃせん、と。

 思いつきの指摘ではない。実は鋭い把握になっている。(と思う)
 なぜなら、通念的には屁と愛じゃ勝負にならぬが、仕切り直しして肉体的な消化器と生殖器に根拠を置くなら、同じ土俵の現象論として勝負ができるんじゃないか。心的現象において消化器と生殖器(が根拠になること)の意味や象徴性は新たな地平を切り開くものがあるのである。
 
 音成は「消化器」「生殖器」の意味するところに引きつけられて「系」に抽象化し、これを〈屁〉的現象に援用し指摘した中重の眼力を尊重するものである。

 『新編・薫響集』の構成は文化誌的な解説・評論をジャンル分けで行ったフレームワークになっている。全体は国文学的なアプローチが濃厚で、近世国文学における屁文学を見渡すには格好の本である。
 近世というのは「人の心を種として、よろづのことのはとぞなれりける」(古今和歌集)から「芋の煮たるを種として、万(よろず)の曲屁(きょくひ)とぞなれりける」(古今放屁集)が生まれたように、〈屁〉的現象の表現域が大きく拡張されていく時代である。
 
※目次を引用しておく。
第一編
第一章 オナラ歳時記
第二章 動物誌
第三章 商売往来
第四章 遊里のタブー
第五章 陰間エレジー
第六章 おんなの屁
第二編
第一章 江戸戯作者と屁
第二章 近代作家と屁
第三章 文明開化オナラ綺談
第三編
第一章 歴史・伝統の花形たち
第二章 世界放屁譚
第三章 おならの落語アラベスク
第四章 おならのむかしばなし
第五章 屁の歌謡とことわざ
付録
平賀源内と(放屁論)
  奇書(薫響集)

 ところで、この『新編』には、その書名が拠って立つ、宝暦七年(1757年)井本蛙楽斎(いもとあらくさい)によって書かれた『薫響集』が収録されている。実に傑作で「古今放屁集」はこの中にある。
 なお、蛙楽斎について、生没年やどういう人なのかなどの素性を、音成は把握できておりません。知っている人がいたら教えて下さいませ。
posted by 楢須音成 at 03:55| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 文献探索 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月13日

まとまり感とは何だろ〜ヵ

 本(書物)の「まとまり」感は気になるものの一つ。テーマに基づいて展開される内容が作り出す世界は、独自の「まとまり」を示すのである。

 これまで『屁』『おなら考』『おなら大全』『一発』『新編・薫響集』と文献探索してきた。音成としては、とりあえずは明治以降で重要と思われるものを、特色(オリジナリティ)を浮き立たすべく選んできた。(つもりであります....)
 ところが、ここまできて何か物足りないんですね。

 そもそも世界(本の内容)の「まとまり」って何か。
 例えば、東洋医学とか西洋医学とか言うとき、東洋医学の「まとまり」感や西洋医学の「まとまり」感とは、一般人でも、ひとまず(漠然としていても)感じることができるほどに既知である(と思っている)。
 分野は成立(確立)しているし、専門家でなくとも、分野として成立していれば一定の概念や評価は持っている(あるいは、持つための体系知は求めればある)ものである。
 そういう「まとまり」を導く既存の体系知があれば、内容を展開しようとするときには自分の位置関係を認識していくはずだし、著作全体の「まとまり」感は自ずと備わるわけであるね。

 ところが〈屁〉的現象が一冊の本にまとめられるときのフレームワークに着目してその展開を見ると、〈屁〉的現象というものの位置付けや、フレームワークそのものの「まとまり」感というものが、肝心なところで腰砕けになっているように思われるのである。
 これまで紹介したそれぞれの本は、確かに〈屁〉的現象の世界をあぶり出してくれているのだが、何か「まとまり」感がストンと抜けているように思う。

 『屁』(福富織部)… 〈屁〉に関する事象を広く収集・解説・評論。生資料豊富でジャンル分け集大成の草分け。明治期までの古典からの収集に力点あり。資料集的。
 『おなら考』(佐藤清彦)… 〈屁〉に関する事象を広く収集・解説してコンパクトにまとめているが、著者は元新聞記者で人物エピソードに力点あり。取材に本領発揮。読物的。
 『おなら大全』(ロミ&ジャン・フェクサス)… 欧州の〈屁〉に関する事象を広く収集・解説・評論。歴史叙述の中に資料を展開した編年史による集大成。読物的。
 『一発』(中重徹)… 〈屁〉に関する事象を広く収集した資料集。『屁』を補完しつつ昭和戦後期までジャンル分けした生資料。近現代にかけての文学者の作品収録などに新味あり。
 『新編・薫響集』(興津要、中重徹)… 〈屁〉に関する事象を収集・解説・評論。ジャンル分けで生資料を用意し、主に近世から明治文学に花開いた〈屁〉の表現の多様さを通じて〈屁〉を跡付けている。評論読物的。

 それぞれは、内容をまとめてみればこんな感じかな。音成は、事象というか現象というか、関心の向けどころとして〈屁〉的現象の発生に注目しているので、こんなまとめ方になるのだが、各書とも「まとまり」感の収斂度がイマイチであると言わざるを得ない。(これら先駆的な著作に対して失礼な言い方ですよね。重々承知。それでも音成は、ほとんどの〈屁〉の著作に感じておるんですわ)

 これらの本は、話を集めてきた「笑話集」や「笑話の解説集」という「単純な読物的フレームワーク」を超えているのは間違いない。〈屁〉的現象の深層を発掘するために著述されたのであって、そういう批評精神は高く評価しなければならないのであるが、まとめの頂点で「単純な読物的フレームワーク」に収まってしまって踏み出せないでいるのである。

 なぜか。

 音成は「まとまり」感の物足りなさをそこに見るのである。もう少し追究してみよう。
posted by 楢須音成 at 13:59| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月17日

続・まとまり感とは何だろ〜ヵ

 結局のところ「単純な読物的フレームワーク」とは単に「〈屁〉一本槍」で笑いをとるスタンスである。そりゃ、まあ、〈屁〉の笑話を集めるだけで一冊の本をまとめることに不都合はないのである。
 あなたが編集者ならそこに気楽に素朴にアイデアを盛り込める。
 「都会の屁、田舎の屁」「女の屁、男の屁」「日本の屁、外国の屁」「賢者の屁、愚者の屁」「くさい屁、くさくない屁」....思いつく限り変わり映えのしないパターンである。これで売れるかどうかは知らんですけど。

 こういう単なる「〈屁〉一本槍」は、〈屁〉という素材の凄さ(笑いと恥にまみれた喜怒哀楽)に甘えてしまうということである。集めりゃ何とか様になる事態なのである。
 これが〈屁〉ではなく「寝言」「鼾」「欠伸」「げっぷ」といった素材ではどうか。比べてみれば〈屁〉の方が事態深刻と判断されるではないか。(と思いませんや?)
 
 では、ここで「〈愛〉一本槍」でいってみよー。「都会の愛、田舎の愛」「女の愛、男の愛」「日本の愛、外国の愛」「賢者の愛、愚者の愛」「くさい愛、くさくない愛」....とまあ、再びのワンパターンであるが、何だか〈屁〉は〈愛〉と良い勝負をしているようには思いませんや?(まあ、見解は二分するかもしれませんが、〈屁〉と〈愛〉は素材として同じくらいの深度を持っていると主張したいです)

 かくして〈屁〉(の話)を集めると立派に一冊の本になるし、面白オカシイわけであるが、〈屁〉的現象の深層の存在によって単なる「笑話集」を超えるのである。
 このような「単純な読物的フレームワーク」による本の場合、前面に出る期待値はあくまで「笑話集」であるから深層の存在は過剰(意外)である。従って「まとまり」感は少し重かったりする(笑話を超えている)わけである。

 音成が不満を漏らした「単純な読物的フレームワーク」ではない(批評的な)著作には、この逆の事態が起こっていると思うわけである。
 著者の期待値は〈屁〉の深層の存在を意識した「批評(的集大成)」であるが、そうであればあるほど深層の存在が重くなり、まとまりがつかず(まとめきれず)、天然の「単純な読物的フレームワーク」が浮き出してくるのである。

 つまり「まとまり」感の物足りなさというのは、身も蓋もないがフレームワークの不十分さということができる。
 フレームワークとは最後の終結点(頂点)を想定しないと、束ねてきた光が拡散するように、焦点がぼけるのである。

 エッセイや論文のような言いっぱなしの著作と違って本ではこういうことが起きる。〈愛〉なんかと違ってもともと〈屁〉は遇され方が冷たいし、深層の探求はまだまだ(あんまり誰もしない)ってこと。突っ込んでみると、われらの〈屁〉的現象はいささか謎めいているということです。
posted by 楢須音成 at 21:56| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月19日

トッピンパラリノプウorグシュ

 多種多彩な民話を集めた民話集の中に一つや二つは〈屁〉の話が入っているものだ。いわゆる笑話として〈屁〉は格好の題材(分野)である。
 日本における民話の論考の中で〈屁〉を取り上げたのが臼田甚五郎の『屁ひり爺その他・昔話叙説U』(1972年、桜風社刊)である。まとまった本としては注目すべき一冊。

 日本の昔話の中にある「屁ひり爺(というパターン)」の話を文献や全国に足で渉猟し、渋い論考を重ねている。国文学者の真面目な論考で、もともと「笑いをとる」などという下心がないから淡々としているが、集められた話はとても面白いのである。
 臼田は全国の何種類もの「屁ひり爺」のパターンを辿りながら、呪術としての放屁、笑話としての放屁、芸能としての放屁を跡づけている。ここではいわば、社会化された〈屁〉というものの断面を指摘しているのである。

 同様の論考として同じ国文学者の三谷栄一の『古典文学と民俗』(1974年、岩崎美術社)にも一節があり、ここでも社会化される〈屁〉というものへの大事な指摘がなされている。
 臼田も三谷も発想の基盤は同じで、民俗学の常道に則っている視点であり、論点を相補っている論考である。

 「屁ひり爺」というのは、放屁の芸を披露してお上からご褒美を貰って金満家になるというパターンを示す一連の話。隣家の爺さんが真似して失敗するというところも含めて全国的に分布するパターンで、お気付きのように福富草子の祖型である。このパターンは何を意味するのかということや、放屁芸(の芸能化)が民話の中に表現されるとき、放屁音が様々な(突拍子もない)擬音語となることに注目しているのである。
 この本の白眉はこのあたりの考察にあるのだが、採録された放屁音はなかなかにトッピン(突飛)であります。少し引用してみる。

 錦サラサラ 五葉の松原、トッピンバラリノプウ
 錦サラサラ 五葉の松原 トッピンパラニノ グシュ グシュ グシュ(芸に失敗している)
 丹後田島の プリプリ プリのプリ
 丹後田島の グダグダ グダのグダ(同)
 ブーンブーンブンコジマ ターンターンタンコジマ ヒッタラタンノタンコジマ
 
 こんな調子だが、まだまだあるんですね。(面白いでしょ)
 このような放屁音の言語化される変遷を辿ることで、〈屁〉的現象の発生に迫ろうとする考察が『屁ひり爺』にはあるのである。
 フレームワークとしては、いろいろなパターンを含む「昔話叙説」という大枠の中で〈屁〉を扱っているので〈屁〉的現象が終結点にはなっていない分、音成の立場からは本論に踏み込んでいない憾みを感じるのであるが、狙いが違うと言ってしまえばそれまでかもしれない。
 しかし、民話を素材に〈屁〉的現象を並べる(集大成する)だけでなく、論じるところまでにフレームを用意して論点を示していることは高く評価されるべきであるのだ。

 ところで、「屁ひり爺」の話と同じく「屁ひり嫁」の話も広く分布するのである。何で爺と嫁なのか。こういうところ(パターンが選ばれる隠された意図)が面白いじゃありませんか。

 では、音成もトッピンパラリノプウ、プウ、プウ....
posted by 楢須音成 at 01:06| 大阪 | Comment(0) | TrackBack(0) | 文献探索 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月22日

中城ふみ子のおなら

 人はなぜ〈屁〉を語るのだろうか。(とんでもないときに〈屁〉をこくからだ〜 / へ〜)
ダジャレ テ スイマセン
 われわれが〈屁〉(の話)を集めたり、論じたり、語ったりする情熱は、ひとたび走り始めると一種独特の方向性を持ってしまうのはなぜか。
 それは〈屁〉という得体の知れないものを前にし、われわれは心の深奥の動転を覆い隠して自分を見失わぬよう他者に己を「弁明」するからであるに違いない。人様々にその「弁明」(のスタイル)は多彩であり、しかもわれ知らず〈屁〉に対するナイーブな真情を露出してしまうのである。

 もちろん〈屁〉を「得体の知れたものとする立場」もあるが、音成はそれとて「弁明」の一つと思うのである。
 それほど〈屁〉的現象はその発生において謎めき、深層から手を伸ばして有無を言わせずわれわれを捕捉するのである。

 さて〈屁〉の本の中でも〈屁〉をテーマに自他を語る情熱が前面に出ている体裁のものがある。例えば、自分の身辺との関わりの中で展開する〈屁〉のエッセイ集である。
 そもそも〈屁〉の発生は自分を起点としているわけだから、動機としては自分の〈愛〉をテーマにエッセイを書くのと同様なのである。(つまりは、これって「弁明」ですよ)

 音成は書名を知って「おー、遂にあったか」と胸を躍らせた。『放屁学概論』(金沢恒司著、1956年、北海文学社刊)とは、本格的な研究書ではないのかしらん、と。
 ところが、この本、実際には〈屁〉のエッセイ集だったのである。

 金沢は釧路新聞の記者で、本は当時百回連続で新聞連載されたものをまとめたものである。彼は毎日毎日〈屁〉のコラムを書いていたのである。
 放屁学と称しつつ内容は〈屁〉にまつわる身辺雑記に終始している。ところどころ文献の引用や〈屁〉の解説が入るが、ほとんどは身辺の〈屁〉の「弁明」なのである。

 こんな「〈屁〉一本槍」の連載が新聞紙上でこれでもか、これでもかと百回続くなんて今だって賛否両論じゃないかと思うよ。内容的には自己を吐露しながら〈屁〉一発の人生の機微(自分や人々の振る舞い)が語られているわけだが、何しろ〈屁〉だから話の体裁は常識的に上品ってもんじゃないのである。(嫌味はないが各種下ネタが続く。少々きわどいものもアリという塩梅)

 金沢は当時30代で、文学青年として全国流転して釧路に居着いてしまった無頼の人のようだ。彼は一心に〈屁〉を語っているが、フレームワークとしては、物々しい『放屁学概論』という表題とエッセイ風の語り口の落差をもって仕掛けた「作品(文学)」を志向するものになっている。

 内容は〈屁〉にまつわる話の連続であり凡庸(誰でもする〈屁〉っていうのは、誰でもする〈愛〉と同じように凡庸)ではあるが、そこに透けて見える人間関係の点描が面白く、身辺小説のような趣である。
 
 驚いたのは、金沢が夭逝した女流歌人、中城ふみ子とゆかりの人であり、末期のベッドで呻吟していた中城と再会するくだり。ここに中城の〈屁〉が登場するのである。哀切で泣ける。金沢の真情の吐露は(表現の)頂点に達している。連載のうち中城が登場する二話はこの本の白眉である。
 
 音成は、つかみ所のない〈屁〉というものが〈愛〉などと同様に文学的なところへ昇華していこうとしているエッセイの先駆として『放屁学概論』を評価したいのである。
posted by 楢須音成 at 00:00| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 文献探索 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月27日

気分はオナラ・ア・ラ・カルト

 『放屁学概論』に続いて、自他を語る情熱が前面に出ている体裁の〈屁〉のエッセイ本をもう一冊あげておこう。『おなら粋門記』(藤田保著、1964年、冬樹社刊)は広島の高校の化学の先生が書いた本である。

 自分の身辺との関わりの中で展開する〈屁〉を熱心に語っているが、世に起こる〈屁〉的現象の体系化を試みていて考察と解説に意を注いでいる。『放屁学概論』が文系の著者なら、こちらは理系(両書の題名は逆にしてもいいくらいだね)。同じエッセイにしても趣は大分違っていて、解説書じゃないけど解説風のエッセイになっている。もちろん文学志向なんてものはないんだが、藤田の〈屁〉の探求者としての奮迅ぶりによって、エッセイ集として自立しているのである。

※目次を引用する
オナラへの考察と意見
 まずは前口上を
 おなら学発生記
 「屁学」の反響
   …(略、以下同)
友人たちの体験談
 胃袋をもぎとって仙人となる
 女教師とおなら譚
 かくし芸に礼砲
   …
むかしの実話とことわざ
 ありがたき屁
 恐ろしき屁
 前のはわたしです
   …
オナラの科学
 各国の名前
 日本のむかしの名前
 屁の定義と発生
 化学成分とにおい
   …
国際的な屁の笑い
 日本の江戸小話
 アメリカ
 ソ連
   …
集団の中でみる「屁」感覚
 生徒の反響
 賛成票
 中間票
   …
専門書紹介
 福富織部氏の『屁』
 風来山人『放屁論』
 『日本昔話集成』
   …
オナラの雑音
 屁の色と写真
 録音
 故事、賛歌など
   …
音の便り
 蛇の道は蛇ということ
 H氏からの手紙
 恩師からの手紙
   …
オナラ・ア・ラ・カルト
 放屁擬音袋(プープークッション)
 屁の効用
 オナラ自転車
   …
アホラシイ空想と屁理屈
 世界中の屁
 屁も神聖なり
 数量ということ
 放屁競技
 落とし話と屁理屈
川柳
あとがき

 目次だけ見ると平凡だけど〈屁〉をトータルにとらえようとするフレームワークがうかがえるわけである。この平凡なフレームワークは、まさにみんなに教えてあげたい気分の「オナラ・ア・ラ・カルト」。結局のところ、それが単なる解説に終わっていないのは、藤田の姿勢(自他の振る舞いや真情)がそういうフレームワークを超えているからである。(まあ、うんちくを傾ける「姿勢」がいい味なんですね。藤田は行動派で名物の人だったらしい。藤本義一の小説『へへへへもへの』『屁学入門』のモチーフになっています)

 『放屁学概論』と『おなら粋門記』は〈屁〉へのアプローチの違いが対照的なのであるが、どちらも書き手の真情をベースとするエッセイ集という、先天的なフレームワークに支えられているのである。
 世の中には昔から〈愛〉の詩集やエッセイ集はたくさんある。両書は〈屁〉である。〈屁〉の(エッセイではなく)エッセイ集の先駆的なものとして、音成は評価する。

 なお、藤田には自費出版した『屁学』という前著がある。ある大学の図書館で見つけたが、文庫本サイズの厚表紙で90頁。『おなら粋門記』の原型になるものだが、後半の三分の一は全然関係のない「火の玉」や「化学」の話にあてられているヘンテコな仕上がり。この『屁学』のステップ(修業)を経て『おなら粋門記』は登場したわけである。その辺の事情も『おなら粋門記』でネタになっておる。
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2005年09月29日

読めまっか?→○屁珍臭匂臭

 面白オカシイ〈屁〉ではあるが、「面白オカシイ」そのまんまでは、とてもじゃないけど〈屁〉の深層は見えてこないのである。
 それでも〈屁〉の面白オカシさは独特であると言わねばならないね。つまりは〈屁〉的現象というものは、それだけ場面豊富で意味づけもニュアンスも多種多様ということなのである。表層だけの面白オカシさも数集めれば読み物になるんである。

 かくして〈屁〉的現象を完全に読み物として編集するフレームワークでまとめた本もある。『ヘ調ウンチク辞典』(関温穂著、1986年、廣済堂刊)と『屁珍臭匂臭(まるへちんぷんかんぷん)』(山名正太郎著、1986年、泰流社刊)は同時期に出版されているが、「おもしろ読本」仕立てで、〈屁〉に的を絞ったウンチク雑学いっぱいの読み物である。

 まず第一に読みやすい。第二に批評性は(あまり)ない。第三に自分の身辺雑記も(ほとんど)ない。多少の「考察」とか「感想」とかはあるんだけれど、要するに〈屁〉についての啓蒙精神やサービス精神による読み物なわけで、「面白オカシイ」ネタを面白オカシク語る語り口が際立っている。(手練れのライターの作といった感じかな)

 両書は『屁』や『一発』など先人たちの発掘の成果をかなり参照している。フレームワークとしてはジャンル分けを読み物風に組み直して、ここが両書の独自なところである。展開はかくのごとし。

※目次を引用してみる。
『ヘ調ウンチク辞典』
第一章 古今おなら事件簿
 T政治にまつわる屁の考察
 U法律からみた「尻鉄砲」の悲喜劇
第二章 幻のONARA早慶戦
 誰がために尻は鳴る!
第三章 ONARAの人間学
 T恋愛におよぼすオナラの功罪
 U友情の輪を広げるオナラ
 V平和な家庭は「屁和」から
 Wビバ!オナラ天国・日本列島
第四章 文芸にあらわれた屁玉
 T現代・屁学用語の基礎知識
 U近代文学おなら論争
 V香りただよう江戸の庶民文芸
 Wことわざ・川柳・狂歌に屁ダネを拾う
第五章 放屁術入門
 Tプロの世界の名人芸
 U協奏曲から変奏曲まで
 V昭和・屁学界痛快三人男
第六章へ≠フ生態を探る
 T発生と放出のメカニズム
 Uアヌス(肛門)の光と影
 Vニオイなければ、ただの風

『屁珍臭匂臭(まるへちんぷんかんぷん)』
1おならの快とサイエンス
 田園交響曲
 快音ミュージカル
 おならを科学する
2おならの健康とうんちく話
 老人には愛敬の同伴者
 なつかしい屁談義
 おなら面白ばなし
3おならの川柳と民話
 おならを詠む
 放屁は道徳に反するか
 屁(おなら)用語事典
4おならを論じてみる
 放屁論 平賀源内

 両書ともにたくさんの(同じ?)文献を渉猟して出来上がっているが、音成が「まとまり」感について述べたときの「単純な読み物的フレームワーク」の典型であり、〈屁〉という素材の「面白オカシイ」という光明面を強調することで成立している。(『ヘ調ウンチク辞典』『屁珍臭匂臭』というヒネった書名からしてその意図は明らかでしょ)

 そうではあるが、もちろん意図せずとも両書から〈屁〉というものの暗黒面はしっかり現れているんだよ。
posted by 楢須音成 at 01:02| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 文献探索 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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