2005年08月24日

ひらけば匂ふ玉の言の葉

 ブログのタイトルに借用した「ひらけば匂(にお)ふ玉(たま)の言(こと)の葉(は)」の前句は「音(おと)に聞(き) くブックをば手(て)に握(にぎ)り屁(べ)の」である。(さあ、声を出して詠じられよ)

    音に聞くブックをば手に握り屁の
             ひらけば匂ふ玉の言の葉

 出典は1926年(大正15年)に出版された『屁』(福富織部著)。
 この本の出版を祝して野崎左文(1858〜1935)が寄せた狂歌で、巻頭に紹介されている。 「噂に聞いた本を手に握り屁をひらくと匂ってくるくる、美しい(屁の)言葉の数々よ〜」というような意味。「音に聞く」とか「ブック」 とか屁の音を下敷きにした言葉遊びに始まって、握り屁をひらいてみたら「玉の言の葉」が匂うと洒落たわけなのである。 (屁のことは屁玉と言うのであるからして、玉は屁の掛詞になっておるんだよ)

 福富織部の『屁』は奇妙な本である。
 とにかく屁に関する話をあらゆる方面から集めてある。巷に流布しているあらゆる屁の話(のパターン)が網羅されている埋もれた労作である。 屁に関する本は数多(あまた)あるが、ほとんどの本が(こっそり?)種本にしているのが織部の『屁』なのである。

 奇妙な本という理由はこうである。本自体は結構著名(知る人ぞ知る) なのに@作者のことが不詳A学問的評価が微妙B戦後の復刻版が不在...という有様なのである。
 別に無視されているわけではないと思うが(だって、みんな種本にしておる)、 この辺で誰かもっと表舞台で再評価してもいいのではないかと思う。

 確かに『屁』に難点を見つければあるにはある。
 この本は屁の話を渉猟したアンソロジーの体裁になっていて、ところどころ論考も加えてあるのだが、音成が思考するに、 学問的というか思想的というか評論的というか(なんといいましょうか)、知識人の脳髄(観念) を体系化に追い込んでいく収束力に欠けるのである。
 本の構成も、引用なんだか伝聞した話なんだか筆者の論考なんだか区別してないところや、整理に欠けるところもあって、 イマイチ全体に締まりがない。

 しかし、そういう難点はあるものの、単に屁の話を集めただけの本ではない、特異な存在感を漂わせているのも事実なのである。 注目すべきは「こんな話、古今東西よう集めましたなあ」というボリュームとそれを構成したフレームワーク。 屁に限ってそういうことをしたのは日本では史上、多分織部が初めてなのである。目次を見れば全体の問題意識(フレームワーク) がうかがえるし、屁という視点で本一冊をものにした最初の、貴重なフレームワークがここにあるというべきなのだ。(今見れば、 な〜んだという人はいるだろうが、何でも最初がエライんぞ。後継の屁の研究者やエッセイストの問題意識は織部の後塵を拝しておる)

※目次を引用しておく
屁の字音
屁の科学
最後っ屁
河童の屁
屁詮議
古今屁の名人
平賀源内の傑作
屁の悲喜劇
屁の神さま
屁のまじない
屁ひり稼業
屁の随筆
屁物語
屁の童話
屁の伝説
屁の落語
屁の笑話
屁の情話
屁の茶番
屁の創作
屁の狂歌
屁の都々逸
屁の川柳
屁の童話
屁の俗謡
屁から見た幕末側面史
屁から見た明治大正側面史
屁文集
名流屁くらべ
屁に関する言葉の解
放屁講話

 端折った言い方になるが、『屁』は屁を面白可笑しい話のダシに使ったのではなく、屁という下ネタが学問その他となる契機(萌芽) を示した功績がとても大きいのである。(もっとも、屁学が確立された話はどこにもありまっせん)

 当時の文人への織部の謝辞を見ると、織部が顔を向けていた交友関係(現在から見てもセレブな人が多いね)がうかがわれるが、 織部自身は彼らからどう思われていたのだろうか。彼らの著述に織部のことは出ていないようだし、知識人としても風流人としても、 どうも軽く扱われていたのではないかと思われる。このこと自体、『屁』の評価を象徴しているようでもあり、 実際のところ最近まで織部の実像は謎のままだった。

 音成は昔学生の頃、旅先の札幌の古本屋(石川書店)でこれを見つけた。 本は傷んでいて粗末に装幀が改修してあり下手糞な手書き文字で背表紙に「屁の本」とあった。手にとって開いてみて「こりゃまた、くっさー」 と感動し、思わず買ってしもうたのでありました。



posted by 楢須音成 at 00:16| Comment(0) | TrackBack(1) | 文献探索 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月25日

人前で言うのを憚る芸あり

 福富の織部という長者が『お伽草子』(室町時代)の物語(福富草子)の中に登場する。
この福富長者は「人前で言うのを憚る」放屁芸をもってお上に引き立てられ、金満家になるのであるが、このパターン(放屁芸→富裕)の民話は全国に広く流布している。(小説家による現代語訳『お伽草子』がちくま文庫に入っている。福富草子は福永武彦が訳しておるのが、なんとも嬉しい)
 
 もちろん、1926年の『屁』の作者、福富織部とは、この話に由来する(と思われる)ペンネーム。「おりべ」という名の締めの発音がバ行であるため、状況如何では、いかにもの感じで〈屁〉的現象を彷彿とさせる(とは思いませんかな)。

 大正の福富織部は1994年の『おなら考』(佐藤清彦著)によって実像が明らかにされている。この本は青弓社から出版され、4年後に文春文庫におさめられている。
 『おなら考』の中で佐藤は織部が松木実(1892-1962)という人であり、文庫版では、筆一本で生活することを志しながらも筆を折って出版人として糊口をしのぎ、最後は河出書房にいた人であることを、取材によって初めて突き止めているのである。
 ここは『おなら考』の白眉の部分。面白い。(そうです、何でも最初にやる人はエライ)

 ところで、織部には『屁』のほかに『褌』『臍』という著作がある。どういう関連か。織部の三部作である。いずれも今では埋もれてしまっている著作。(ホント、おもしろい人だね)
 この三部作はいつか紹介しましょ。
posted by 楢須音成 at 18:48| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 文献探索 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月28日

〈音鳴り神〉のゆたかなる時

 人間の下半身というのは不思議なものである。いわゆる下(半身)ネタには二極あって、スカトロジックなものとエロチックなものとが隣り合わせになっているのである。われらが〈屁〉的現象も下ネタに属し、普通はスカトロジックなものの一角を占めるわけである。(スカとエロのアクロバティックな関係は哲学的考察が準備されねばならんのですぞ)

 当然のことながら〈屁〉的現象は古今東西、人類普遍の文化的営みの中で展開されてきたのであるが、フランス人もこの手の話は大好きとみえる。
 1997年に邦訳が出た『おなら大全』(ロミ&ジャン・フェクサス著、高遠弘美訳、作品社刊)は『屁』と同様に〈屁〉的現象についての大部のフランスの書である。
 ヨーロッパの古代からどのように〈屁〉というものが存在してきたのかを延々と語っていて、その語り起こしには古代エジプトの「音鳴り神(クレピトゥス)」というおならの神様が登場する。放屁姿勢の神様の図版も収録されており楽しい。アルフォンス・ブーダールという人(バ行を発見して、失礼ながら笑いました)がこの本に寄せた序「〈音鳴り神〉のゆたかなる時を求めて」では、かのロダンの「考える人」も「音鳴り神」(古代人が崇拝した「肘を膝につき、両手で頭を抱え、頬をふくらませ、精一杯いきんで放屁しようとしている」像)の系譜ではないかと示唆している。(見事な説だね)

 日本ではおならの神様を祀った神社(奈羅須神社)の存在を確認しようとする話が、福富織部の『屁』に出てくるが、織部自身は確認できなかった(というか、ガセネタだったようだ)。佐藤清彦の『おなら考』では、この奈羅須神社や日本の「屁ひり神」などを追究して考察しているが、結局のところ日本では、おならの神様は姿や形のとらえどころが定まらず、共有される具象化に至らないが故に偶像化がなされていないのである。

 一般に古代においてモノの起源が語り出されるときには神様を登場させるが、このとき偶像化がなされるものである。ヨーロッパと日本の〈屁〉的現象において神様の偶像化と非偶像化の差異は何に起因するのだろうか。(例えばこういう点に〈屁〉的現象の考察の着眼点があるんだ〜!)

 ともあれ『おなら大全』は〈屁〉の話を編年体でまとめているのが特長。原題の直訳は『逸話でつづるおならの歴史』となるそうで、ジャンルで括った『屁』とはまとめ方(フレームワーク)が違うのである。(音成は、話をジャンルに集積していった最初のフレームワークとして『屁』を評価するのだが)
 そもそも〈屁〉の話というのは多岐に渡っているし、取り留めがないし(まとめるのが難しくて)困るのである。歴史主義発祥のヨーロッパ的風土の中では歴史をフレームにしたフレームワークはなじみやすいものなのかもしれない。

※目次(の構成)を引用しておく
第T部 古代〜中世
神話に見る、おならの起源および淵源
第U部 十七世紀〜十八世紀
おならの黄金時代
第V部 十九世紀
おならの民衆的勝利
第W部 二十世紀
おならの新古典主義

 『おなら大全』には訳者の丁寧な解説と索引が付されている。労作の索引を読むだけでも面白いです。
posted by 楢須音成 at 14:04| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 文献探索 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月31日

奇書が奇なのは何でだろ〜ヵ

 巷間〈屁〉に関する本はしばしば「奇書」と名指しされる。
 
 奇書という言葉には正と負の(と言って悪ければ相反する)二つの極にまたがる意味がある。音成の感覚で言ってしまえば、それは「怪」と「優」の間にある意味合いなんである。

 それは、怪(あやしい)を基点に、異(ほかと違う・異常な)→変(おかしな・奇妙な)→珍(めずらしい・稀な)を束ねつつ、優(卓絶している)に至る構造となっておる。これら「怪・異・変・珍・優」が混淆すればするほど「奇」は奇となるのである。
 
 「奇書」とか「奇人」とかは良い意味で(肯定的に)使われることも多いが、「奇病」となると、まず良い意味では使われない。いろんなケースを見れば、奇というものは特異性に対するわれらの向き合い方を暗黙に指し示しているわけであるね。
 
 かくして「奇書」とは何やらただならぬ書である。
 
 怪しいだけなら、いわゆるトンデモ本も人後に落ちぬが、そのまんまトンデモというのでは語るに足らぬのである。(怪しいだけじゃ奇じゃないし、優れているだけでも奇じゃありません。ギンギラ「怪・異・変・珍・優」の輝きがないとダメよ)
 
 偽書、異端の書、変態の書、錯誤の書など怪しい光彩を放つ裏舞台の奇書の数々を始め、中国小説の四大奇書(「水滸伝」「三国志演義」「西遊記」「金瓶梅」)のように、今では世評も高くマル優(卓絶している)と位置付けられ表舞台で高ポイントを獲得しているものもある。
 
 では〈屁〉における「奇書」とは何か。
 音成が思うに〈屁〉そのものは奇なるものでは断じてない。断じて奇ではないのになぜ「奇書」と名指しされるのか。
 
 だって〈屁〉が奇でない理由は「誰でもする」からである。老若男女、美人不美人すら問わないではないか。音成もするし、あなたもするよね。ごくごく普通の生理現象なのである。ならば〈屁〉的現象とは怪しくもなく、異常でもなく、奇妙でもなく、珍しくもなく、優れているわけでもないのが当然ではないのか。
 
 にもかかわらず、福富織部の『屁』にしても、ロミ&ジャン・フェクサスの『おなら大全』にしても、〈屁〉的現象を集めて語った本が「奇書」と名指しされている。確かに、やっぱり、何やらただならぬ書であることには違いないのだが....
 
 本日はここまで。
posted by 楢須音成 at 23:31| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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