2015年03月25日

最期の〈屁〉の余韻

 昨夏からブログはすっかりご無沙汰だった。休業状態になっていたが、この一年は身近な人の死が次々にやって来た。長く患っていた父母や義母を続けて喪い、会社時代のまだ若い同僚を送った。年明けて一月には父母の葬儀に参列した叔父までが突然に逝ってしまった。

 死者たちは一年前の今頃、当たり前に電話や手紙や言葉を交わした人々なのだ。彼らへの喪失感がいつか来るだろう自分の死を想起させ、今更のように永らえていることに驚くばかりだ。音成も体調は必ずしも良くはないので、この一年、大阪と郷里の九州を何度も行き来しながら、まあ気分は沈んでいたのであった。

 申し訳なくも音成は父と母の臨終には立ち会えなかったのである。母は父と妹に看取られたが、父は身内が駆けつけたときには亡くなっていた。この世間に臨終はさまざまあるが、送る方にも送られる方にも、人の最期はそれぞれに異なる相貌の、有情無情のリアルな風景になるのだと痛切に思う。

 そういう最期のエピソードは文学などの表現の世界ではさまざまに提示されてきた。人の数だけ最期はあるわけだが、奇矯にも死にまつわる古今東西の〈屁〉のエピソードもある。なかに滋味深いものがあったりするのだが、かつてこのブログで死に臨む〈屁〉について書いてみたことがあった(参照)。そこで取り上げた〈屁〉はむしろ不思議な余韻を残していた。間際の一発は偶発的な椿事として現象し、永遠の別離に可笑し味を誘発して死にゆく者を包み込んでいた。
にがにがしくもをかしかりけり
     わが親の死ぬるときにも屁をこきて
(山崎宗鑑編『新撰犬筑波集』1530年前後刊)

 このときの残された子の思う真意はどのようであったか。俳諧連歌の世界は可笑し味を狙っているということになるが、これは別にみんなの前で〈屁〉をこいた親を歯がゆく思い嗤う歌ではないだろう。むしろ音成には、この「をかし」には悲しみを超えていく死の厳粛すら感じられる。そこに踏みとどまって漂っている可笑し味は死者のメッセージとも思われる切なさがある。

 そもそも臨終に〈屁〉をこくなど意図しないことに違いない。それが現象すれば粗相ということになるわけで、ふつう粗相(というからに)は否定的な現象である。大辞林によれば@不注意から起こす失敗。軽率なあやまち。しくじりA大小便をもらすこと──とある。意図せず勝手に現象してしまう(出てしまう)のは、本人の制御のなさ(不注意、軽率、だらしなさ…)によるあやまちなのだ。

 ただ、臨終ともなれば心身は終末の衰弱状態(生命の消滅直前)なのであるから、もはや〈屁〉は本人にとっては粗相ではありえないだろう。人間の生理現象は〈屁〉に限らないが、臨終においては本人のあらゆる意思を超え、生起するすべての生理現象は消滅へと向かうことにあらがうサインとして、平等に振る舞っているように見える。

 しかし平等に振る舞う生理現象ではあるが、そこに〈屁〉が出現するなら、やはりそれなりの特異性は払拭できないように思う。ゆえに我々は戸惑いを隠せない。そのとき〈屁〉は最後の生きている証(あかし)として深く印象づけられるように見える。
私はその息を引き取るところを見た。彼女の一生は才気と思慮のある婦人のそれであり、彼女の死は賢者のそれであった。いとわずてらわず宗教上の義務をはたした清澄な魂、その点からは、カトリック教が私に好ましく思われたといっていい。生まれつきまじめなひとであったが、病気のおわりには、一種の陽気さを持つようになった。それもむら気のない、ごく自然なものであり、悲しい境遇を理性でまぎらせようとしているにすぎなかった。べったり病床についたのは最後の二日だけで、それもみんなとしずかに話すことをやめなかった。とうとう話ができなくなり、いよいよ臨終の苦しみとの格闘にはいったとき、一つ大きいおならをした。「よろしい!」ねがえりしながらいった。「おならが出るような女はまだ死んじゃいません」これが口にした最後の言葉だった。
(ルソー『告白録』井上究一郎訳)

 もっともルソーのリアリストぶりは随分とドライに見える。夫人の〈屁〉が生きた証であるにしても、ほとんど感傷のない観察に徹している。思い入れはまるでない。日本人の「にがにがしくもおかしかりけり」とは感性が違うのだが、それでも屁は〈屁〉としてインパクトを与えたことには変わりないだろう。

 そもそも臨終の場に〈屁〉は必然ではないし、もともと〈屁〉は平素においても徹底して無意味で不徳なものとして扱われる存在である。その異音異臭は、人生の大事な場面でしばしば致命的に不心得を露呈する醜悪な現象として認められている。つまり多くは不覚にもだらしなく放たれるのだ。

 臨終の〈屁〉が何かを伝えているのではないかと意味を見出そうとするのは残された者の振る舞いなのだろう。ルソーが看取った夫人はまだ生きていると思いながら(つまり生者として)自分の〈屁〉が生きている証だとした。ルソーは観察によってそれを追認したといえよう。この世界は意味の集積であり、そこに生きる者は意味なしには生きられない。そして臨終の悲しみは死にゆく者の心身の、それまで背負ってきた人生という意味(観念)の喪失にある。

 一度きりのこの期に及んでぬけぬけと勝手に無意味な〈屁〉が現象してしまうのだ。臨終の〈屁〉はどんな生理現象よりも奇異であるがゆえに、思いは複雑化する。そういえば最後っ屁という言葉があるが、臨終の〈屁〉はそんな苦しまぎれの行動というわけではなく、ただただ平然と深い吐息のように現象するから驚き動揺してしまう。

 にがにがしくもおかしかりけり──それは感情の方向を違えるものが混在してしまう戸惑いの感覚でもある。我々は場面によって、悲しいけれども可笑しいというような感情だって持つことが可能だからね。
 暑さが激しかつた。彼女は時折り、はばけるように苦しくせきこんだ。そして、それと同時に、彼女とここで会つた時と同じように、プクプクプクプクプクとあたかも水底から浮かび上がつたアブクのような、おならを、彼女はした。私は、もうそれを責めはしなかつた。
「ゴメンなさい。」
 彼女の方で、てれた。
 私は故意に鼻タボをくちゃくちゃにして犬のような真似をして言つた。
「匂うところを見ると、まだ大丈夫、そう簡単に死なないや。おならが生きてる。アセチリンの匂いと、お袋の肌の匂いを混ぜ合わせたような匂いだ」
「ウフ、恒司さんも大人になつた。何んだか知らないけれど、ありがとうと言うわ」
 彼女はそう言つて静脈のすけて見える白く小さな手を差しのべた。
 私は立ちあがつて握手した。ふみさんの手のぬくもりが、私には、かつてこの人に感じてはならなかつた女を始めて意識した。
(金沢恒司『放屁学概論』1956年)

 ふみさんというのは歌人の中城ふみ子である。このエピソードも随分前に紹介した(参照)。旧知の「私」はふみさんの病室を訪れている。死期を迎えた人の〈屁〉は心身の束縛を離れつつ、臨終の〈屁〉に限りなく近づいている。しかしまだ、ここでは〈屁〉は二人の共有物として現世の絆になっている。恥を介して二人はお互いを意識しているからだ。
 このあと「私」はふみさんの訃報を旅先で聞くことになる。
 室蘭での日程は二日で、ここでは主として室蘭水族館の魚族の生態をカメラに収めるのが目的であつた。そして後の五日間その日程を洞爺湖で過す事になつていた。その水族館のカレイの水槽の前に立つた時、私は生きたカレイの美しさに思わず足をとめた。あの平つたいカレイが水槽の底から、ひょいひょいと体をもたげて、ひらひらとアブクを立てながら水面に向つていくさまは、美保の松原で天の羽衣が天空に舞い上がつてゆくような幻想と似通つていた。アブクとカレイ。それは、私には中城ふみ子をほうふつさせた。
 私の同僚のYとの遊行の日程は終りに近づいていた。その最終日、私は洞爺の温泉でふみさんの死を知つた。死因は窒息死であつた。

 臨終の〈屁〉から浮かんでくるのは、逝ってしまう人との決定的な別離であり断絶である。しかし、その断絶を埋めるために幻想する。そこには別れの美しい幻想もあるだろう。

 一発の〈屁〉がもし臨終にあったなら、その無意味が与える動揺とは感情なのか観察なのか幻想なのか──それは人さまざまのインパクトになるだろう。その瞬間は去りゆく者への心からの哀悼だ。

 かくして最期の〈屁〉が現象するとき、それは最も崇高な〈屁〉に違いない。音成は身内の死の誰にも立ち会えなかったが、いずれ我が身にも死は訪れ、誰かに看取られることになるだろう。──最期の〈屁〉が崇高であるべく精進せねばなるまい。父母には感謝しかない。
posted by 楢須音成 at 11:10| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月10日

息をするように〈屁〉をこくのは可能か

 多くの場合、我々は無意識的に活動している。例えば意図的に止めることができる呼吸なども意識しないからといって止まることはないし、心臓の拍動などは普通はどう念じても意識的に止めることはできないわけだ。歩くとか走るとかは意識的・意図的にやっているように見えるが、歩いたり走ったりする動きのメカニズムは意識せず自動化されている。

 それでは〈屁〉はどうか。つまり〈屁〉をこいたり〈屁〉について考えたりすることは意識的行為であるといえるか? まあ、これも歩くとか走るのと同じように意識的・意図的にやっていると見えるわけだが、一方で我々は〈屁〉について無意識的に振る舞っているね。

 一般に文芸の表現精神においては〈屁〉は意識的にも無意識的にも忌避されてしまう。もちろん表現の領域で〈屁〉は立派な主題であり題材であると主張することは不当ではないが、屁文学あるいは屁文芸を吹聴するといった権威はない。

 表現は意識的・意図的なものだが、そこには無意識的な振る舞いもある。さらには意識的・意図的であることを越えて受け取られる(影響を与える)ものがある。次は〈屁〉に着目(意識)した古川柳である。どう振る舞っているか。

◎賑やかさ道頓堀に屁が絶えず

 大阪・道頓堀の賑やかさを行き交う人々の放屁で詠み込んでいるわけだが、そもそも大阪といえども、当たり前のように〈屁〉をこきながら歩く人など(ほとんど)いないけどね。しかし、ここでは歩く人がみんな〈屁〉をこいているという奇矯な見立てをして、いかにもそれらしく、とぼけた笑いを生んでしまっている。 

 このときの〈屁〉は息弾ませる雑踏のお喋りのように往来でぶつぶつと絶えることがないのであり、半ば無意識に発散されているわけである。あり得ない情景ながら、省察すれば我々にとっての〈屁〉の理想とはそういうこと(とらわれずに恬淡と〈屁〉をこくこと)ではないかと思わないか。それゆえ我々はある種やすらぎの笑いをすらこの古川柳に覚える──のではないか。

 このとき〈屁〉は厚かましくも息のように、いわば息(呼吸)をするように振る舞うことを理想として新たな相貌を得ようとしているともいえるね。しかし──

「息」=普通は意識しない自律(勝手に生じる)運動だが意識すれば制御することができる
〈屁〉=普通は意識する自律(勝手に生じる)運動だが意識しても制御できないことがある

 息と〈屁〉を比較すれば、このような違いを観察できる。まあ〈屁〉は自律運動とはいっても不連続な発生と放出であり、 呼吸のように規則的なものではないのである。存在しなくともぜんぜん困らないが、存在すると制御しにくく始末に困るのが〈屁〉なのだ。

 呼吸が制御系の生理現象であるのに対して〈屁〉は非制御系である。このときの制御系とは明確な身体機能(目的を持つ制御)の系統であり、心身のバランスをとるために組み込み込まれている。一方の〈屁〉は明確な身体機能とは言い難く、心身の不規則なアンバランスを伴う生理として非制御的な系統になっている。このことによって〈屁〉は息とは本質的に別物とはっきり区別されるわけである。それでも──

◎めでたうと門過ぐる子の放屁こそ
         年の初めのおとし玉かも


 息でないとすれば〈屁〉は言葉のようにはなり得るだろうか。この狂歌のように〈屁〉を新年の挨拶言葉と見立てながら、子供からの連想でおとし玉と屁玉を結びつけ、洒落ている。いかにもありそうな門前の微笑ましい情景ながら、子供の無邪気さにかこつけて〈屁〉のイメージアップをたくらんでいるね。

「言葉」=普通は意識的に発して相手に意図や考えを伝える音声のまとまり(無臭である)
〈屁〉=普通は意識的に隠して相手に気づかれないよう振る舞う異音の放散(異臭がする)

 そもそも〈屁〉がめでたい挨拶になるなどあり得ない話ではあるが、もし〈屁〉が何かの意義深い合図(信号)のように指定されるなら、存在意義は格段にアップする。そういうことが人情の希求としてはあってもよいではないか──つまりは〈屁〉の言葉への接近である。しかしまあ、それはおふざけか嫌味か可笑し味の世界になってしまう。ならば──

◎燕(つばくろ)のあたまへひゞく二階の屁

 ひたすら〈屁〉に無頓着を決め込むのはどうか。軒下にあるツバメの巣の頭上で〈屁〉の響きがとどろいたのだろう。二階の住人の〈屁〉への無頓着ぶりが笑えるが、このときの〈屁〉は、はた迷惑な大音量のステレオサウンドと同じだね。我々の〈屁〉が息でもなく言葉にもなりえないとすれば、それは数多ある「騒音」の一つへと紛れ込もうとするのである。

「騒音」=意識的・無意識的に人間自身が発し、かつまた人間界を覆い尽くしている人工的な生活音
〈屁〉=意識的・無意識的に人間自身が発し、意味もなく人間界に跋扈して自他を仰天させる身体音

 しかし、ツバメにはそれが騒音でも人間には〈屁〉であるという現実はつきまとう。ツバメは驚いたかもしれないが、とどろきが〈屁〉であることには(屁とも思わず)無関心。それは平気でとどろかす二階の住人も同じだが、この情景を見た(聞いた)人には、仰天の〈屁〉の音響に可笑し味が漂う。

 以上のように〈屁〉を「息」「言葉」「騒音」というように、そもそもの〈屁〉の属性を無化し(別のものに見立て)てしまうという表現志向は、いわば〈屁〉というものの否定性を越える理想郷を求めているのだ。しかしながら〈屁〉の強固な存在感は残るので、いずれも可笑し味から逃れることはできない情景になっているね。

 このときの笑いは底抜けに笑うより(屁が何にもなり得ないという)諦念まじりになってしまう。つまり表現の意図としては最初から、なり得ないもになろうとして挫折する笑いを狙っているのだが、人間の表現精神は決して〈屁〉を笑いものにしようとしているのではないだろう。そこで──

◎馬が屁をひり乍(なが)らゆく春野かな

 馬に仮託されてるとはいえ〈屁〉はのびやかな春の風景の主題にまでにじり寄る題材となっている。こうなるとただ単に笑いを狙ったとも言い難いレベルである。ここには、ことさら意識して無理やり〈屁〉の否定性を越えようとする姿勢はないようだ。自然体に近いね。

◎おと(音)もか(香)も空へぬけてく田植の屁

 馬ではなく人間の〈屁〉になると音も香も生々しく(人の振る舞いとして身近に)なるわけだが、ここでは広々とした田園風景の中で空に向かって解き放たれている。その運動感と解放感によって〈屁〉の生々しさは無化され、これも自然体に近い感懐を抱く。まあ、風流かどうかは微妙だけどね。

◎風流の初(はじめ)やおくの田植うた(芭蕉)

 奥州路で田植歌に心動いた芭蕉の句だが、音成には田植歌も〈屁〉も表現精神からはほとんど等価に見えてくるんだけどねえ。(芭蕉と〈屁〉の関係は明らかではない〜)

 さて、以上のように見てくると表現の領域で我々は、意識的にも無意識的にも〈屁〉の呪縛から逃れようと呻吟していると言わざるを得ない。我々が〈屁〉にさいなまれるのは〈屁〉の否定性(その異音異臭が及ぼす影響)ゆえである。

 繰り返せば、我々の〈屁〉とは、普通は意識してしまう自律(勝手に生じる)運動だが意識しても制御できないことがあるのであり、意識的に隠して相手に気づかれないよう振る舞う異音異臭の放散が、意味もなく人間界に跋扈して自他を仰天させる身体音として存在している。

 それを文芸の題材にするには、恥や嫌悪のあからさまな笑い(哄笑、苦笑、微笑、嘲笑、憐憫、談笑、失笑、冷笑、歓笑、ユーモア……)を意図したり覚悟したりしなければならないわけだが、さりげなく〈屁〉を息や言葉や騒音に見立てたり、表現の(無垢な)題材に見立てようと試みても、どうにも意図や覚悟に足を取られてしまう困難な道なのである。

 そこで意識しようがしまいが自他のどこかで笑いが現象してしまうのは見てきたとおりだが、かくも〈屁〉に対する自他の根深い偏見(意図や覚悟)は抑制しがたく抜きがたい。自分だけ一方通行に悟っても〈屁〉は他人を巻き込んで現象するし、こうなったら唯我独尊の悟りはやめてしまおう。
posted by 楢須音成 at 11:40| 大阪 ☔| Comment(6) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年05月30日

補遺・〈屁〉が生理現象の鬼子なのは何でだろ〜ヵ

 ひとくちに〈屁〉といっても、さまざまな形態(もちろん目には見えない)があるが、この世界でその異音異臭のあり方は千差万別なのであるね。老若男女の世代差、性差、身分差などに加え、時(time)と場所(place)と場合(occasion)の条件が複雑に絡み、人間界の振る舞いにおける〈屁〉的現象は人間の数だけ散在している。

 生理現象である〈屁〉が、生理現象の中でも特異な性格を持っていることを「鬼子」と言ったわけだが、まあ普段はその特異なところは潜在(隠蔽)して目立たないにしても、我々の精神生活や振る舞いに深く影響を与えていることは間違いない。

 自他の〈屁〉が及ぼす影響など信じがたい(信じたくない)かもしれない。しかし、我々が振る舞う〈屁〉的現象は至るところに存在している。

 一発の〈屁〉によって倫理性、羞恥性、侮辱性の発現が見られることはすでに検討した。もちろん我々の考察がある限界を持っていることは音成も自覚している。そこには個々人の〈屁〉の千差万別があり、集団でくくれば、例えば民族の違いもまた存在しているだろう。

 よく言われていることに「欧米では屁よりゲップが失礼(下品)である」というのがある。まあ、どちらも失礼な行為には違いないが、比較してどうだとなると、どちらかがより失礼なことはあるだろう。

 日本人の調査の一例がある。ネット上の調査(2013年、リサーチパネル)だが「オナラとゲップ、他人がしてより嫌なのはどっちですか?」と質問をしたところ、オナラ56.2%、ゲップ43.8%という結果になった(回答総数36,626件)。日本人では〈屁〉が嫌われている。

 しかし、この結果は〈屁〉が圧倒的に嫌われると思っていた音成には少し意外で、ゲップが(屁と比べても)こんなに嫌われているとはね。音成の感覚からすれば、目の前で他人に〈屁〉をこかれる方がよほど嫌だけどねえ。

 恥ずかしがるにせよ、失礼と思うにせよ、嫌がるにせよ──人前で我々が〈屁〉やゲップに感じる否定的な心的傾向はさまざまだが、それらは要するに生理現象を忌避している心的な振る舞いである。つど生じる心的傾向とその度合いによって、より恥ずかしいか、より下品と思うか、より嫌がるかが現象している。

 前に紹介したが、日本人について人前で恥ずかしい生理現象の順位をつけた調査があった。それによる順位は@屁A鼻水BイビキC腹の音DゲップEシャックリFアクビGクシャミH咳──であったが、ゲップは腹の音とシャックリの間にあるわけで、その恥ずかしさはだいたい中程度という感じだろうか。

 外国人を対象に調査をしたら@〜Hの順位は入れ替わる可能性は大きい。ゲップが上位に来るかもしれないわけだ。データとして議論できる順位に関しては統計的な調査を待たなければならないので何ともいえないけどね。

 ところで、自他に向けられる〈屁〉やゲップを恥ずかしく感じる、失礼(下品)と思う、嫌がる、というような心的傾向は、それぞれレベルの違うものだが、これまで同じようなもの(同様の忌避の心的傾向)として、ごちゃ混ぜに記述してきた。つまり〈屁〉やゲップが恥ずかしいのは、それらが下品で失礼極まりなく、誰もが嫌がるものだからであり、一連の心的傾向としてつながっていると見なしてきたわけである。

 しかし、そのつながり方をより原初的なものから辿るとすれば、嫌がることからスタートしていると観察される。動物として生きていく快と不快の選択的な最初の区別の段階で、我々は〈屁〉やゲップに対して快や不快を感じる。そもそも〈屁〉やゲップは生理的には放った瞬間は気持ちが良い(快である)のだが、その異音異臭は不快(ゆえに嫌がる)である。人前という他人の視線が介在する場面では、我々は快を封じ込めて嫌がることからスタートせざるを得ない。(最初の快と不快は二者択一のデジタル的な区別ではない。刺激に応じて可変的に強度がどちらかに変化する正負のバランスである)

 嫌がるというのは、もとを辿れば悪性の刺激に対する身体反応が誘発している心的傾向と考えられる。何かしら外界からの刺激によって、このとき感覚器官には化学的異変がもたらされている。例えば、鼻粘膜を刺激してそこに異変をもたらす激臭の〈屁〉があるとすれば、それは我々にとって極めて嫌なものとなる属性(悪臭)を保持している。我々は嫌がる。

 異音異臭が強烈に鼓膜や鼻粘膜を刺激すれば、単に不快だと嫌がるどころか、深刻な事態を惹起してしまうだろう。嫌悪に突入する。

 快と不快を経て最初の嫌がる段階で、このとき我々はこの世界に共存している他人を意識している。というか意識せざるを得ないのである。自分で自分の〈屁〉を嗅いでいるぶんには仕方ないにしても、このくっさい自分の〈屁〉を他人は嫌がるであろう!!という意識が芽生えてしまうのだ。臭ければ臭いほど他人の視線が強烈に意識される。(他人の〈屁〉は嫌なものだが、他人も同様に他人の〈屁〉を嫌だと感じるはずだ。我々は相互に相手の〈屁〉を嫌がるのである)

 一方で他人を意識する心的運動は〈屁〉のニオイを(実際以上に)強烈に臭いものとする。それは「俺のはそんなに臭くはない」「こんなハズがない」という(臭気を撒き散らしている現実を修復して自己回復したい願望からくる)現状否定の疑心暗鬼が(かえって裏腹に)嗅覚の感度を上げてしまうからである。(ニオイから鼻を塞ぐとしても、そういう忌避行動とは裏腹に嗅覚の感度は上がってしまうのだ)

 原初的な(快と不快の)不快から発した「嫌がる」という心的反応が、他人の存在を(無意識にも)意識して「嫌悪」へと増幅していく。その過程には他人という観念が無限の合わせ鏡となって「嫌がる」を写し込み、いっそう観念化を高進させている。嫌悪とは感覚のままのストレートな感情ではなく、幾重もの観念化(他人の意識)によって合成された感情の動きなのである。

 他者という存在はいろいろな観念となって我々を囲繞している。家族や社会の関係となって立ち現れているわけだが、そこに萌芽した〈屁〉の不快は他者にも不快だろうし、まして他者の〈屁〉は自分にはとても不快なのだから、他者も同様に自分の〈屁〉をひどく嫌がるだろう──かくして他者との多重な関係性の中で不快には、幾重にも他者が組み込まれ強い嫌悪へと増幅していく。

 要するにここでいう〈屁〉の嫌悪とは、社会化された、極めて観念的な感情の動きなのである。不快がこうした嫌悪に即座に突き進むには、痛烈に他人を意識してしまうほどの激臭が必要かもしれない。というか(激臭でなくとも)すぐに他人を意識してしまう敏感な人は嫌悪に陥りやすいだろう。そして嫌悪は(観念性を高めつつ)不浄感へと精錬されていく。(我々の心的運動において他者とはさまざまな関係性の中に「意識せずとも意識している」存在であり、そういう他者の意識なしには我々は存在し得ない)

 ともあれ、このように嫌悪が他人を意識した結果というなら、恥ずかしがるのも同様に他人の存在があるからだね。恥もまた〈屁〉の不快から発して、その不快を他者も感じると想像することで増幅されるわけだ。しかし〈屁〉を恥ずかしがるのと嫌悪とでは様相が違うではないか。どう違うか。

 生理現象〈屁〉の不快が(他者の意識を介し)嫌悪や恥に増幅されるとして、この二つは〈屁〉に対する不快に発する同根の感情の動きにもかかわらず別の性格を持ったものといえる。音成の観察では嫌悪はより身体性が高い反応として出現し、恥はより観念性が高い反応として出現すると考えられる。

 我々にとって身体と観念は表裏一体のものだ。身体なくして観念(の形成)はなく、観念なくして身体(を意識すること)はない。そういう意味では〈屁〉という不快を同根とする嫌悪と恥が、身体性と観念性をまとうことは当然であるが、両者は表裏一体の存在として出現している。

ken-o_haji.jpg 同様の図は以前にも使ったが、嫌悪と恥は一方が最小値なら他方は最大値という関係である。生理現象〈屁〉に対する心的反応は嫌悪と恥のバランスの中で出現していると考えられる。最大の嫌悪は身体性(異音異臭のような感覚)をストレートに反映し(このとき恥は吹っ飛び)、最大の恥は(いささかの嫌悪もなしに)観念性(礼儀作法のような規範)をストレートに反映しているわけだ。

 そういう両極端はともかく、誰かが〈屁〉をこけば嫌がるわけで、多少の嫌悪を伴いつつ、下品であるとか無礼であると非難することになるが、この段階ですでに我々は暗黙の了解事項である「放屁は禁止」という規範に縛られている。下品とか無礼の烙印は自分にも他人にも向けられる。そういう規範からの逸脱感(による自責、他責)が恥になるのだ。

 そこで規範意識(ルール化された社会意識)が強いほど恥が強く現れる。嫌悪が強いときは規範意識は弱まっているということになる。規範を気にするどころではないということか。ともあれ嫌悪と恥は、規範意識を強くも弱くもスライドさせ、どちらが勝るかというバランスで出現するわけである。

 面白いのは、この二つの心的反応が表出するとき、それぞれの態度振る舞いは似ていることだ。人が真っ赤になって〈屁〉に顔を背ける場面があるなら、そのときの心的反応が嫌悪なのか恥なのか外見にはわからないだろう。まあ、嫌悪と恥は同時に出現していることがほとんどであろうが、態度振る舞いに矛盾は生じないことになる。

 さて、横道にそれて理屈が長くなったが、一発の〈屁〉の快と不快は(他者の意識を介して)不快を嫌がることから嫌悪や恥へと増幅されていくのだった。嫌悪は身体性(異音異臭)を強くはらみ恥は観念性(規範)を強くはらんでいる。身体性と観念性がせめぎ合うときには規範意識の強弱が出現している──だいたいそういう理屈になるわけである。

 ここで〈屁〉とゲップのどちらが嫌がられるかという話に戻りたい。〈屁〉の嫌悪と恥の理屈は、ゲップの嫌悪と恥の理屈と同じである。ゲップもまた嫌がられる生理現象なのであるね。

〈屁〉=肛門から出る→異音異臭がある(強)
「ゲップ」=口から出る→異音異臭がある(弱)

 先の2013年のネット調査のように、日本人には〈屁〉とゲップとでは〈屁〉の方が嫌がられる(下品だ、恥ずかしい)のだが、その差は意外にもない。ゲップを嫌がる人がけっこう多かった(43.8%)。これには少し驚いたのだが、音成の感覚では〈屁〉の方に肛門からの放出や強い異音異臭というような悪条件があると思うわけである。

 先に紹介した1998年の調査では、恥ずかしさの順位が@屁A鼻水BイビキC腹の音DゲップEシャックリFアクビGクシャミH咳──だった。〈屁〉とゲップの間には鼻水、イビキ、腹の音が入っていた。つまり、それらがゲップより恥ずかしいのだが、音成にはこちらのデータがしっくりくる。これによれば、ゲップの恥ずかしさはかなり減ぜられているように思われるね。

 こう見てくると、ゲップが嫌がられる心的反応は問い方(あるいは条件)によって大きく動いてしまうのではないか。ゲップは不安定な(忌避される)順位を持っているのだ。欧米では「屁よりゲップが嫌がられる」という(伝説?がある)のも、それが何ゆえかはともかく(民族間でも)揺れ動く嫌われ方をされていることを示している。

 しかしまあ、嫌がられるという点では〈屁〉もゲップも僅差の現象には違いないわけで、人前で〈屁〉をこいたりゲップをしたりするのは、良識ある人にとって大いにはばかられる。礼儀を欠いた恥ずかしい振る舞いに倫理的には優劣はないが、ここはあえて〈屁〉とゲップの僅差を比較してみよう。

 前回までに〈屁〉と「咳」について比較して検討したが、身体的に非制御系の〈屁〉と制御系の「咳」という位置づけが基本にあった。ゲップは非制御系と位置づけられるので〈屁〉とゲップは、同じ非制御系の範疇にあるのである。

 制御系も非制御系も制御のタガが(不用意に)ゆるむこと(異変)によって(嫌がられる)生理現象として現象する。非制御系とは、身体的にはもともと制御する専任の器官などがないのでそう呼ぶ。実際〈屁〉は(たまたま)肛門から出るが、そこが〈屁〉の制御器官とは言い難いだろう。腸内ガスが発生し通過してくる腸と、放出される肛門とが制御器官と言えるだろうか。同様にガスが発生する胃と通過してくる食道と、放出される口が制御器官と言えるだろうか。

 まあ、そう言って言えないことはないにしても、それらの器官は付属的に〈屁〉やゲップを扱っているわけで、器官の主目的は別である。そもそも〈屁〉やゲップはそれ自体にあまり意味はなく、偶発的に発生する(寄生する)付属物なのである。

 このように、いわば身体的に望まれずに発生するという点では嫌がられる程度も高くなるというものだ。しかも制御(我慢)しにくいのであるから、いよいよ異音異臭は人に嫌がられるわけだ。

 嫌がることから嫌悪や恥になっていく道筋は検討したが、では〈屁〉とゲップでどちらが嫌か。発端になる異音異臭はまずは忌避される。それが嫌悪の方向に行くのか、恥の方向に行くのか、我々の心的運動は条件次第で行方が定まらぬ。しかし、どちらにしても異音異臭が強ければ忌避も強く生起するね。

 この忌避は隠蔽(しようとする振る舞い)にも重なるが、我々は異音異臭に少なからず動揺しているし、危機意識を持ってしまっている。動揺や危機意識が大きいほど嫌悪や恥もふくらんでいくのだ。異音異臭が強く、不用意に出てしまい、発生頻度が高く、発生元と特定されてしまう──といった、主には自分自身の身体的条件から吹き上げてくる動揺や危機意識の背景には他人の存在が控えている。他者の意識が介在して嫌悪や恥は現象するのだ。

 異様な音とニオイは自分が嫌うのみならず他人からはもっと嫌われ疎まれるし、不用意に出るとなると制御不能のだらしなさをさらけ出すし、それがしょっちゅうあるとなると危機感はつのるばかりだし、ごまかしもきかずすぐに発生元だと知れてしまうのであれば油断できない。そういう心的な緊張は嫌悪や恥を大きくするだろう。

 このように考えてくると「欧米では屁よりゲップが失礼(下品)なのか?」とか「オナラとゲップ、他人がしてより嫌なのはどっちですか?」という疑問へのヒントが導かれる。要するに〈屁〉とゲップ、心的な緊張が高いのはどちらなのか、ということを検討しなければならないのである。

欧米=〈屁〉よりゲップが嫌われる→ゲップの心的緊張が高い
日本=ゲップより〈屁〉が嫌われる→〈屁〉の心的緊張が高い

 なぜこういうことになるのか。前に音成はそれを食性の違いに求めて考えてみたのである。大雑把だが伝統的な食性を欧米は肉食系、日本は草食系ととらえてみよう。肉食系とは肉(動物質)をよく摂取し、草食系とは野菜(植物質)をよく摂取すると考える。現代日本では肉食は当たり前だが、明治より前は肉食は乏しかったのである。

 こういう食性の違いは体格(身体構造)の違いとなってくる。よく指摘されるのは肉食系動物の腸は短く、草食系動物の腸は長いということ。これは植物質の消化吸収に長い時間がかかるからである。草を食む馬は体の長さの10倍といわれ、獲物を追いかけるライオンは4倍である。体の大きい動物に草食が多く、小さい動物に肉食が多いのも消化吸収の構造が関係しているわけなのだ。

 人間の場合も食性は影響すると思われる。欧米人と日本人の腸の長さに差はないというデータもあって食性の違いは関係ないという人もいるが、欧米人との体格の違いは(特に明治以前と以後で)歴然とある。しかし動物の傾向とは逆になるが、同じ人間同士なら腸の長さが同じで体の大きさが違うのなら、相対的には体の小さい方が腸は長いことになる。

 それはともかく肉食と草食の消化吸収の違いから何が言えるのかというと、次のようになる。

肉食系=ゲップが数多く出やすい→〈屁〉は数が少ないが臭い(微量なので音が小さい)
草食系=〈屁〉が数多く出やすい→〈屁〉は数が多いが臭くない(多量なので音が大きい)

 焼肉を食べたあとの臭いゲップや〈屁〉を実感するように、芋を食ったあとの胸焼けや〈屁〉がよく出ることを自覚するね。このことから肉食系の欧米人は警戒心や危機意識がゲップに向けられ、草食系の日本人は〈屁〉に向けられる傾向を持つようになったと考えられるのだ。

 ここでは発生頻度が高いことが緊張を高めている(敏感になっている)といえるが、肉食系ではゲップが多量に出やすい一方で、あまり〈屁〉は出ない傾向なのである。そこで肉食系では多発するゲップに対するマナーが厳しくなり恥ずかしいことだとされるようになる。一方の〈屁〉は発生頻度が低いのでゲップに対するよりは関心が薄い。ただし微量で音は小さいが強烈に臭い。忌避されるのは変わりないが、制御しやすい。そこで恥というより嫌悪が先に立つ傾向になるのである。

 草食系では〈屁〉が多量に出やすい一方で(繊維が消化しにくいので胸焼けはあるが)ゲップはあまり出ない傾向にある。草食系はゲップに無関心になるが、多発する〈屁〉に対してはマナーが厳しくなり恥ずかしいことだとされるようになるのである。あまり臭くないので(といっても程度によるが)嫌悪よりも恥を加速する方向に行ってしまう。ガス量が多いので制御しにくく、派手な音が出て際立つのも恥を加速する。

 このように考えると「欧米では屁よりゲップが失礼(下品)である」という指摘はあながち間違いとは言えないだろう。規範(マナー)意識の芽生えが(より強く)どちらにあるかということが重要である。ただ現代日本は欧米人との食性の差はあまりない。日本人はよく肉を摂取するようになったのである。先の調査でゲップに対する忌避が多かったのもそのせいかもしれない。

 しかしそれでも、日本人の伝統的な食性(和食)は〈屁〉に対する向き合い方に、大きな影響を及ぼしていると言わざるを得ない。我々は〈屁〉を通して恥の文化を垣間見るのであ〜る。
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2014年03月31日

続続続続続続・〈屁〉が生理現象の鬼子なのは何でだろ〜ヵ

 我々の〈屁〉は忌み嫌われる場合がある一方で、人生の愛嬌者として哄笑と喝采の対象になったりもするのである。この落差は〈屁〉の両義性を示しているわけだが、聖と俗というような存在が放つ高尚な両義性ではない(ようだ)ねえ。

 例えば「糞」なんかの場合、スカトロジーをひもといてみれば、汚穢の中に神聖性を見出すという存在の不思議を体現する物体としてある(ことがある)。次のようなシーンで糞は、確固たる(聖なる)物体として汚穢から美の聖域へと迫っている。
 夜が明け離れる頃から、もう敵は射つて來た。私達は壕の後のクリークの水際まである僅かな斜面に出て、土を掘り、竈を拵へて、飯盒を掛けた。クリークの水は割合綺麗である。叉も我々は蒸し芋を始めたのだ。私は斜面に適當な場所を見つけて、秋空を映してゐるクリークの水を眺めながら、脱糞をした。頭の上を彈丸が過ぎる。クリークの向う岸でも堆土の蔭に蹲んで糞をたれてゐる兵隊が居る。兩方で見つけて、兩方から笑ひ、手をあげて、おうい、たつしやか、と叫ぶ。知らない兵隊である。戰場でのこれが小笠原流である。私は排泄したものを眺めたが、赤い色をして居なかった。ろくにものを食はないのに割合に立派な形をしてゐる。私は傍に咲いてゐた野菊の一輪を私の美しい糞の上にさした。それから、例のごとく、東方の空を拜した。朝になつて日輪に合掌することは我々の習慣になつてゐた。それはいろいろな意味を含めて缺かさなかつたのである。
(火野葦平「土と兵隊」1938年)

 ここには確固たる(汚穢の)存在感を持つ物体の聖と俗が表現されているが、脱糞や糞に嫌悪はなく下卑た笑いもない。糞は風景として直視され当たり前のように存在してしまう。これが〈屁〉をこいたとなると、非存在の異音異臭はひたすら嫌がられるか、軽々しい笑いのタネとなって増幅してしまう。我々の〈屁〉は見えない存在として物体性を隠蔽しているため視覚的な風景とはとらえられないわけだが、視覚がないぶん異音異臭の拡散は観念性を高めつつ、噂が噂を呼ぶように伝染性の嫌悪や笑いを巻き込んでいくのである。

 つまり、同じ生理現象でも脱糞と放屁では質が違うのだ。もともと「糞」と〈屁〉は出所が同じということで兄弟分とも見なされるわけだが、異音異臭だけで見えない現象としてあらわれる〈屁〉は、鮮明な物体である「糞」とは質的に区別される存在なのである。

 ところで、我々がこれまで検討してきた@屁A鼻水BイビキC腹の音DゲップEシャックリFアクビGクシャミH咳──は、鼻水を除けば、いずれも物体としては見えにくい現象(振る舞いで視認)であった。一般に生理現象は身体の表面では排出あるいは分泌が付随していることが多いが、そのこと自体はあまり目立たない場合もあるわけだ。しかし、振る舞いとしては派手にも隠微にも快や不快を伴っており、我々の心的運動に深い影響を及ぼしているといえる。

 このうち平穏を破る「邪魔」な@屁A鼻水BイビキC腹の音Dゲップ──は、身体の活動というには根拠が曖昧だ。そもそも制御のための身体的装置がない困った現象であり、制御しにくい。しかしEシャックリFアクビGクシャミH咳──は必然的な身体活動(呼吸)の「異変」と考えることができる。この「異変」とは目的を持って備わっている身体の制御からの逸脱である。

 この点をふまえて、生理現象は制御系と非制御系があるというのが前回までのまとめだった。心的運動への影響はこのことが反映してさまざまな場面で微妙な差異をもたらす。これは@〜Hの恥ずかしさの順番にも影を落としているわけだ。

 生理現象の@〜Hは物体としては目に見えない(見えにくい)現象であるが、歴然とした物体性を保持する糞(脱糞)のようには確固たる現象ではない。糞の特徴を挙げておけば、糞はしっかりした物体性を保持した制御系の現象である。こういう現象は落としどころがハッキリしていて、身体的のみならず社会的に有用性・必要性が認められ、便所のような場所が用意されているのだ。時にはその扱いはビジネス化されてもいる。しかも物体性の極北では、それは(時にすさまじい)汚穢にもかかわらず美の具現すらある。

 これに対して、非制御系で物体性がない〈屁〉はどこにどうあるのかわからない異音異臭のみで存在を示す現象である。我々は〈屁〉のようなこうした存在様式を普通は忌み嫌う。だいたい(スカシ屁のように)姿を見せずに異様な音とニオイで周囲を驚倒させるのは、どう転んでも卑怯と言わざるを得ないね。かろうじて許されるのだとしたら、誰がこいたかわかるときであろうが、むろん本人が悔いないのならば不届き千万のままだ。

 生理現象のA鼻水BイビキC腹の音DゲップEシャックリFアクビGクシャミH咳──は〈屁〉ほどではないにしても〈屁〉と同様の物体性の希薄さがある。端的には物体としては見えない(見えにくい)ということがある。このことに加えて非制御系の「邪魔」や制御系の「異変」という、正常なあり方からは反する(存在の)曖昧さは、正統にして確固たる糞とは大いに違うのである。

 先にも触れたように、非制御系の曖昧レベルは制御系よりも高い。非制御系はそもそも曖昧だが、制御系はもともと切実な身体の目的のもとにある。曖昧とはいっても制御系の「異変」は、目的を持つ制御器官の変調として根拠があるわけだ。

 さて、生理現象の@屁A鼻水BイビキC腹の音DゲップEシャックリFアクビGクシャミH咳──は、統計的に我々が公衆の面前で恥ずかしいと感じる生理現象の順位だった。最も恥ずかしいものは〈屁〉であり、最も恥ずかしさが減ぜられているのは「咳」である。まあ、日々の実感からいっても@〜Hの順位はほぼ納得できるものではないかと思うね。〈屁〉と「咳」を対比してみるとこうなる。

〈屁〉=肛門に現象する(非制御系→とても恥ずかしい)
「咳」=口に現象する(制御系→あまり恥ずかしくない)

 まさに両者は対極的な存在だ。この両者の間に鼻水以下の生理現象があるのだが、恥ずかしさのレベルは非制御系(屁、鼻水、イビキ、腹の音、ゲップ)のグループが優位なわけである。

 人間の快と不快の原則から、これら生理現象は(たとえ自分には快であったとしても)他人に不快を与える(ことを認識してしまう)から不快現象として立ち現れている。この時点で不快現象は共同幻想の領域に入って(みんなで)忌避する存在として共有されるようになる。例えば、我々にとって鼻水は汚らしく、イビキは異様に響くね。このときの不快の表現である「汚い」とか「異様」というのは共同幻想なのである。ここから「鼻水を見せない」「イビキはかかない」という暗黙の規範(つまり我慢)を自他に課しているわけだし、そんなものを見せる(聞かせる)ようなことがあっては恥ずかしく思うのである。

 多かれ少なかれ@〜Hの生理現象は人前で恥ずかしい。その先頭と後尾に〈屁〉と「咳」がきている。現象する場所が肛門と口だから、奇しくも身体の出口と入口ということになるね。羞恥心や不浄感の観点からいえば、いつも露出している口といつも隠している肛門では、なるほど肛門からの方が強烈に具現するだろう。肛門付随の〈屁〉がより恥ずかしいのは自然の成り行きである。

 もちろん肛門付随というなら糞も恥ずかしいのだが、糞の場合はその恥ずかしさを凌駕する(有用性があるのだという)言訳が用意されている。恥ずかしさは言訳で激減するのであり、その視認できる強烈な物体性は(言訳なしでも)逆説的な聖俗の結合すらもたらすのである。

 我々の〈屁〉は糞と同質の異音異臭をはらみながら存在しているが、非制御系の無用物としてある。何の役にも立たないものが糞のような異音異臭をはらんでは、いよいよ存在意義はない。異音異臭は言訳できない不快現象となってしまうのだ。

 まとめると〈屁〉は(1)制御系の「異変(咳き込み)」である咳と発生元が身体的対極にある(2)制御系の「目的(脱糞)」である糞と発生元が身体的同極にある(3)正統的な制御を持たない非制御系の「邪魔」な現象である──となる。要するに〈屁〉は、咳とは(制御上あるいは身体上)全く異質であり、発生時から糞と同じ属性を獲得しつつ(しかし物体であることを隠蔽し)糞の制御に寄生して発現(放屁)しているのである。

 生理現象の羞恥は基本的に先に検討したように自他に及ぼす不快現象からくる心的運動であるが、その根底には何かしら他人を驚かす不快があるね。そして非制御系の生理現象の中でも〈屁〉の異音異臭は不快が際立っているわけだ。なるほど〈屁〉の異音異臭の影響力は、鼻水(視覚)、イビキ(聴覚)、腹の音(聴覚)、ゲップ(聴覚、嗅覚)などが我々の感覚を刺激する以上に大きい。

 これまであれこれ強調してきたが、その不快現象をさらに増長する構造が〈屁〉にはある。つまり「スカシ屁」というものの存在である。考えてもみよう。鼻水やイビキや腹の音やゲップなどに「スカス」という行為はないのである。わからぬようスカシた場合には、他人にはそれは存在しない(も同然になる)のである。

 しかるに〈屁〉の場合にはどうだろう。残り香(臭)という奴が持続的に広がる。〈屁〉に限らず、見えずに(発生元が不明で)異臭が漂えば大騒ぎになるわけね。〈屁〉の場合には糞と同じニオイだから、発生元はその辺に糞が落ちていなければ人間(の屁)であると疑われる。このときの疑いは人に対する嫌疑であって犯人追及の意味合いを持っている。(ちなみに公害防止法は悪臭の取締が中心課題になっているが、ニオイの垂れ流しに我々は敏感に反応して断罪する)

 つまり〈屁〉は発生元がわかっていても迷惑千万な罪過だが、発生元なのに知らん顔していては、陰険な無差別テロに等しい卑怯きわまりない大罪となってしまうのだ。
 恥の上塗り
 ある田舎の娘、芝居に行き、衆人の中にて大いなる屁一つ放ちけり。余りの恥ずかしさに顔赤らめ傍らの老爺にかぶせ、己の罪をまぬかれんとし、老爺に向かひ、「おぢいさん、お腹が張りましたか」と言ひしに、老爺は睨みたる目付きにて、「さうさ、お前にとんだ御馳走されて大分腹が張つた」(福富織部『屁』から引用)

 このような状況をいろいろなケースで多角的に観察すれば、そこには強い倫理性、羞恥性、侮辱性の発現がみられる。倫理性に迫られて倫理を突き付けられ、羞恥性にとらわれて羞恥にさいなまれ、侮辱性に舞い上がって加害や被害の侮辱が横行するさまざまな状況を生む。それもこれも自他の一発の異音異臭に由来するのである。

 芝居に夢中の娘は〈屁〉のことなど忘れていたに違いないが、うっかり(それも大音響で)こいてしまった瞬間に(まわりにも娘にも)倫理性が意識の前面に躍り出てきただろう。緊張がまわりを包む。そして「人前でこいてはならぬ」という共同規範から逸脱したことで娘には強烈な羞恥が発現する。この窮地から脱出するため、自分の罪を老爺に転嫁する濡れ衣(自分はこいていない)という虚偽を発動させ、娘は羞恥を解消する(嘘を嘘とも思わぬ)欺瞞に踏み出したのである。老爺に対する行為は侮辱であるが、老爺にピタリと反撃される。まあ、娘の浅知恵(卑劣さ)などまわりはお見通しというわけだ。

 鼻水、イビキ、腹の音、ゲップには〈屁〉の異音異臭にまつわるような卑劣さはほとんどない。容易に発生元は特定され転嫁できないし、説得的な言訳も用意しやすく、異音はともかく異臭の影響は少ない。自他ともに不快現象を許せる根拠は〈屁〉よりも見出しやすいだろう。

 一発の〈屁〉の卑劣さは異臭の効果が大きいんだね。タダの異臭がトンデモない異臭になってしまうのが発生元のわからない「スカシ屁」なのである。この異臭はまことに居心地が悪いが、誰がこいたのかわからない疑心暗鬼によって、異臭はいよいよ醜悪なものへと祭り上げられる。その異臭は発生元であることを隠蔽した(誰ともわからない卑劣な)人間の存在を暗示している。見えないが確かに存在しているのだ。異臭はタダの異臭ではなく卑劣の色彩を帯びて漂うのである。

 まあ、たいていは〈屁〉の発生元はわかってしまうものなので、露骨に卑劣の色彩を帯びることはあまりないだろうが、先の小話の娘のように(まわりにお見通しなのに)恥ずかしさのあまり隠蔽に走ってしまうのは、卑劣なものを隠そうとして卑劣になってしまう悲しいアイロニーである。(政治家の違法借金の言訳みたいなものだ)

 繰り返すが、鼻水、イビキ、腹の音、ゲップにはここまでの隠蔽の衝動はない。〈屁〉が非制御系の生理現象の中で別格の存在になるのは、身体が発する見えない異音異臭(特に強烈な異臭)が誰かの肛門から出てくるという存在形態(現象)に起因しているのだ。まさに〈屁〉は老若男女の生理現象の鬼子であり、我々の精神性に深く関与しているのであ〜る。
posted by 楢須音成 at 10:12| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月28日

続続続続続・〈屁〉が生理現象の鬼子なのは何でだろ〜ヵ

 生理現象の中でも〈屁〉が特異さを際立たせるのはなぜだろうか。生理現象は我々の身体反応の過程として現象しているわけだが、単なる身体の反応というだけでなく、それは我々の心的運動をつくり出し、心身の相関的な関係を実現している。一発の〈屁〉が単なる身体反応にとどまらないゆえんである。

 これまで検討してきた@屁A鼻水BイビキC腹の音DゲップEシャックリFアクビGクシャミH咳──は、生理現象の一部に過ぎないが、我々の振る舞いの特徴的なものだ。何というか、〈屁〉をこいては怒られ鼻水垂らしては馬鹿にされイビキをかいては迷惑がられ腹を鳴らしては笑われゲップをしては誹られシャクリをしては嫌がられアクビをしては注意されクシャミをしては顔を背けられ咳をしては心配される──というように、いったん現象すれば他人を巻き込んで波紋を広げる。現象させた自分自身もまた(普通は)大いに恐縮せざるを得ないのは生理現象の持つ影響力ゆえである。

 検討してきた@〜Hの生理現象は、その解釈をめぐっては大いに誤解されるものかもしれないが、良いも悪いも心的に我々を支配している、いわば身体の原発性の反応なのだ。我々は生理現象を通じて(それを意識することで)世界とつながっており、その積み重ねによって世界を心的に(観念として)構成している。

 というわけで、生理現象としての〈屁〉も我々を心的に支配しているのであり、世界を心的に構成していく現象なのだ。とても重要(特異)な──。

 さて、議論を蒸し返そう。検討してきた生理現象の@〜Hの順番には意味があった。この順番は電車の中(つまり公衆の面前)でやらかしてしまったときの恥ずかしさの順番になっている。いずれも恥ずかしいのだが、最も恥ずかしいのは屁、最も恥ずかしくないのは咳というわけだ。屁と咳の間にそれぞれ生理現象が並んでいる。

 これらの現象を観察して次のように二つのグループに分けられることがわかっていたね。

非制御系=@屁A鼻水BイビキC腹の音Dゲップ
制御系=EシャックリFアクビGクシャミH咳

 恥ずかしさを感じる順番の真ん中でグループ分けされる結果になっているのだが、年を取ると、非制御系の生理現象は恥ずかしさが薄れ、制御系の生理現象は恥ずかしさが増すのである。その理由についてはすでに検討したので参照して欲しい。

 要するに、制御系の生理現象は老化によって制御力が衰え、できていたものが(十分)できなくなるので恥ずかしい。非制御系はもともと(十分)制御していなかったのであり、老化で少々だらしなくなっても(それ以上あまり)気にならない。

 それは身体が現象をどう引き受けているのかという、身体が振る舞う生命維持の、いわば責任感のようなものであろうか。生理現象における非制御系とは、生命維持に直接的にあまり意味がない(格別の意味を見い出せない)現象である。このときの意味がないとは(無意味というわけではないが)生命維持の身体機能からすれば「邪魔」な産物であり、単に排除したい余計なものとなる。これに対して制御系(E〜Hは呼吸という身体機能の制御の中にある)は制御の「異変」という形で現象する。

 身体上の「邪魔」と「異変」では身体自体の向き合い方が違う。身体は「邪魔」ならば忌避や排除に向かうが、「異変」ならば身体毀損や制御不全の復元・修復に努める。
 
 @屁A鼻水BイビキC腹の音Dゲップ──は、身体の必然からは一般に「邪魔」の部類であろう。しかしEシャックリFアクビGクシャミH咳──は、尋常ならざる(呼吸の)「異変」である。身体は自らの維持のため何らか制御するという目的を持って機能しているので、制御ができない、あるいはできなくなる(つまり目的が達成できない)ことは、心的負い目を生む理由となるに違いない。非制御系のように制御機構がない(目的がない)のならば、制御を根拠にした(できるとかできないとかの)心的な負い目は生まれようがないだろう。

 もちろん我々は非制御系であっても、例えば鼻水を出さぬように鼻をすすって制御するだろうが、あまり根拠のある制御ではないのだ。手鼻をかんでもティッシュを突っ込んでも垂れ流しっぱなしでも飲み込んでも、とにかく何をしてもよいのであり、もともと制御機構がないのだから、その振る舞いは制御を根拠にすることができないのである。

 一方、EシャックリFアクビGクシャミH咳──が呼吸運動の「異変」と見なせるのは、これらが一貫して呼吸に関連して動く筋肉や臓器の動作から生まれているからである。つまり制御の範疇にあり、そこから逸脱した現象なのだ。

 かくして非制御系は制御できるか否かではなく、もともと身体的に制御の範疇にないのであり、制御系はそもそも制御すべき現象(から派生している)ゆえの制御といえるのである。

 非制御や制御のどちらであっても@〜Hの生理現象は我慢の対象になっているわけだが、恥という観点から見れば、これらは恥ずかしい現象であることには変わりはないね。

 公衆の面前で恥ずかしさの筆頭にある〈屁〉に戻ろう。しばしば老若男女を悩ませる〈屁〉は非制御系に属し、制御する機構の存在は曖昧だ。腸内ガスの発生は不規則きわまりないが、それを貯めておく制御系の身体の機構はないのであり、ガスの発生から処理まで統一的な制御の範疇を持たない。まあ、肛門の締まりの良さが我慢を支援する有力な身体力であるとしても、肛門自体は糞便制御の機構であることが一義なのである。

 制御の機構が備わって制御するのなら何かしら目的があるはずだが、〈屁〉にはそれがあるのか。そもそも〈屁〉とは何か。何のためにあるのか。車の排気ガスのような明快な制御機構は(神様の設計図には)考えられていないのだ。残念ながら〈屁〉の制御はあくまで「ついで」なのである。

 同様のことはA鼻水BイビキC腹の音Dゲップなどにもいえるわけで、これら非制御系は専従の制御機構が備わっていない。しかしながら、EシャックリFアクビGクシャミH咳のような制御系は、確かに〈屁〉のように突発的で不規則な発生なのだが、あくまで呼吸の「異変」としてその存在は呼吸機構に根拠を持つのである。制御は呼吸機構を動員して行われ、それは正しい出自の振る舞いになっているわけである。

 逆に言えば〈屁〉はどんな制御も根拠がないのだから、制御は(効果があれば)どんな手段でもいいということになる。かくして非制御系における我々の身体的、心的運動は潜在的にアナーキーなのだ。そういう手段を選ばぬ〈屁〉の制御(我慢)は音成にも心当たりがあるさ。

 我々が〈屁〉を恥ずかしく思うのは〈屁〉が他人に及ぼす異音異臭の影響ゆえだね。こういう生理現象の不快は、他人に不快を与えている不快という二重構造を持つ(参照)。誰かの前で〈屁〉をこくことは誰かを不快にするわけで、それを意識して不快であるということだ。そして不快の原因になることは(礼儀作法に反するから)恥ずかしい。こうやって羞恥は観念的な感情として育成されている。

 ともあれ、ここで〈屁〉が恥ずかしさの筆頭にあるのは、人前で強いタブー(禁止ルール)になっていることを示す。それは及ぼす不快の度合いが何にも増して深刻であるからにほかならない。このとき危機意識を助長するのは人を驚かす〈屁〉の異音異臭だが、それに加え、身体が放屁の危機に見舞われる頻度(自覚)が及ぼす影響も見逃せないね。生理現象の発生頻度が危機意識に直結してくるのは、例えば地震の発生頻度が高い日本における、地震への危機意識の高さを見ればわかるはずだ。

 異音、異臭、発生頻度によって構成される負の卓越性によって〈屁〉は恥ずかしさの筆頭に押し上げられている。しかしほかにも、理由がありそうだ。非制御系をつらつら観察するに、鼻水、イビキ、腹の音、ゲップには心理的な言訳ができる余地があると思えるわけだね。
 例えば──

鼻水=見苦しくても風邪や花粉症(の被害者?)とも見なされる
イビキ=強烈な異音だが(よく働いたので?)疲れているのだとも見なされる
腹の音=ひもじさを表す異音だが(むしろ飽食・満腹の日本では?)ご愛敬とも見なされる
ゲップ=満腹を表す異音だが(豊かさを誇示して?)満足感の表明とも見なされる

 まあ人それぞれだが、これらは総じて〈屁〉に比べれば言訳になる原因・理由(らしきこと)が推定される余地があるのである。何らかの理由付け(言訳)は恥ずかしさを減じる一法になる。しかし〈屁〉となると理由付けが難しい。何があっても〈屁〉は御法度──の禁止ルールは強固であろう。
 そもそも〈屁〉とはどんなものかといえば、

異音=時に強烈な異音あり、時に忍びの無音あり(例外は数知れず〜)
異臭=音高ければ無臭なり、音無ければ激臭あり(例外は数知れず〜)
頻度=イモを食って数多し、肉を食って数少なし(例外は数知れず〜)

 これにどんな意味(理由)があるのか。こんな〈屁〉をこいたらどう見なされるのか。まあ確かに、どうあがいても多かれ少なかれ〈屁〉は嫌がられるわけで、南方熊楠は『十二支考』の中でアラブ人の〈屁〉を取り上げ、フランス人や日本人を比較して〈屁〉の忌避・嫌悪ぶりを考察していた(参照)。これを読むと〈屁〉が古代から民族性を出して強弱さまざまにタブーを有していたことがわかるのである。

 熊楠が紹介しているエピソードに「アラビアのある港で一水夫が灰を一俵かついで屁を一発取り外すと、まわりの一同まるで無上の不浄に汚されたように争って海に飛び込んだ」というのがあったが、こういう〈屁〉はまさに何があっても御法度の段階にあるわけだ。鼻水、イビキ、腹の音、ゲップがここまで忌避されることはないだろう。

 人はみな日常生活で〈屁〉とは無縁(を装って)の振る舞いをしているのだが、もちろん人は誰だって目立たぬよう〈屁〉をこいていることを我々は知っている。誰でもこくからといって許されないのは〈屁〉が別格の意味合いを持っているからだろうね。

 このことについての検討は後でまとめることにするが、ここでは〈屁〉が非制御系の生理現象の中で一歩抜きん出た存在であることを見通して次回に続けたい。
posted by 楢須音成 at 22:37| 大阪 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年01月31日

続続続続・〈屁〉が生理現象の鬼子なのは何でだろ〜ヵ

 前回エントリから個人的な事情(病気の告知)で、だいぶ間があいてしまった。ようやくエンジンがかかったのだが、ここまでの流れを簡単に整理しておく。このエントリは〈屁〉は生理現象の中でも別格の鬼子であるという観点から始まったのだった。何事も前置きの長い音成としては、そもそも我々の生理現象とは何なのかというところから、ああだこうだとつつくことから始まったわけである。

 文化人類学的な観点や社会心理学的な観点など、聞きかじった専門家の所論を勝手に我田引水しつつ論を展開したのだが、それがまだ〈屁〉の鬼子たるゆえんには至らないうちに、たちまち年が明けてしまった。

 ここまでを単純化してまとめると、我々は生理現象(身体の内から表出する活動)を抱え込み、常にそれに向き合っているが、他人との関係においては生理現象は厄介なもの(不快現象)になっているため、人類共存のためにはそれにさまざまな意味づけをしなければならない。それが身体的にして心的な「我慢─真似─不覚」の振る舞いであり、そのトライアングルから「倫理─侮辱─羞恥」が奏でられている。そのときの我々の中核となる振る舞いが「我慢」である

 ──ということで、何の屁理屈だかね。後を続けることにしよう。


 子育てをしていると辛抱強く子供を観察することになるね。音成はもうそれは終わってしまったが、我々にとって幼少の子供たちの振る舞いの観察は、我身を振り返るいい機会であると思える。そして我々は、いくらかは忸怩たるものを覚えながら、子供たちに人生のいろいろな「我慢」を教えているわけである。

 例えば「泣くな」「嘘つくな」「屁こくな」などと大人が行使する一方的な我慢の指導は、子供たちを育て上げる肝心かなめの振る舞いとなっている。

 我々は成長の段階に応じて強くも弱くも躾られるのだが、そこには我々が日々獲得していく身体や観念の発達段階に応じた我慢が存在する。子供の我慢と大人の我慢は(出発は同じでも)違う振る舞いとなっているのである。それは〈屁〉に対する態度を考えてみてもわかるはずだ。

 赤ん坊にとって生理現象は「生理現象」ですらないだろう。それはひたすら快か不快の感覚域で発生している何物かである。赤ん坊にとって、どんな屁も〈屁〉ではない。大人の介在によって我慢と一緒に屁を〈屁〉と観念するようになるのは随分あとになってからだ。それも子供のうちは〈屁〉は許容ルールを主軸として観念し、大人になると禁止ルールを主軸として観念するようになる。

 許容ルールとは「やってもよい」と強調する規範であり、禁止ルールとは「やってはいけない」と強調する規範である。考えてもみよう。幼い子供に〈屁〉を禁止することなどできないね。せいぜい排尿・排便と同じように場所をわきまえる(我慢する)ように躾けるのにとどめる。許容も禁止も我慢が介在するルールには違いないが、その内実は微妙に違う。〈屁〉の禁止ルールは(肛門の締まりがよく)制御力が十分に備わってこそ強調されるのだ。

 しかし、どちらにしても我慢というものが、我々にとって重要な出発点であることが観察される。我慢には身体的制御(我慢する身体力)が関連し、そこでは観念的制御(我慢する意志力や意思力)の方向・強弱が形成されてくる。

 一般に幼い子供は身体的制御も観念的制御も薄弱であるね。もの心ついて〈屁〉が我慢の対象となる頃には、身体力も意志(思)力も相応に備わって我慢できるのだが、ここで重要なのは、身体の発達が観念の形成・進化をうながしていることだ。そして身体の制御という観点から人間の一生を見ていくと、概して幼少時代は弱く、壮年時代は強く、老年時代は弱い(衰える)──ということになるだろう。

 そもそも〈屁〉の我慢に限らず生理現象の制御は身体と観念の密接な相関において成立している。我々の成長過程において身体と観念は干渉し相補し合うのだ。身体は自己の(肉体的な)成長、観念は他人との共存(の広がり)を主たる根拠として干渉し相補し合うのである。そして身体の振る舞いが観念に根拠を持ち、観念の振る舞いが身体に根拠を持つようになる相関が、我々の生理現象(や行動)を覆い尽くすのである。

 身体と観念が(どちらに比重がかかっているにせよ)連携して我慢(制御)を演じる様子は、昔から生活実感(リアリティ)のある悲劇喜劇のネタになったものだ。それを江戸の〈屁〉の川柳にのぞいてみよう。
乳飲み子へおならのとがを塗り団扇(うちわ)
※赤ん坊にとがをなすりつけているズル〜イ大人の様子だが、赤ん坊なら〈屁〉は許される(まあ仕方がない)わけである。赤ん坊は身体も観念も未成熟な段階ゆえにとがはない。

どこでどうするか娘の屁を聞かず
※いつしか人の面前で〈屁〉は封印される。まして娘ともなれば決して〈屁〉はこかぬ。

時もときおならを叱る姉女郎
※うっかりこけば叱られる。人生のタイミングによっては〈屁〉は命取りにすらなる。このような経験則は共同のルールになり先輩から後輩へと受け継がれる。

屁をひった嫁は酒でも飲んだやう
※我慢の糸は時に切れざるを得ない。お尻の締まり具合は制御しがたいときがあるのだ。多少なりとも他人行儀な従属関係があるところでは、それは屈辱とも恥ともなる。

姑の屁を放ったので気がほどけ
※しかし従属関係においては目上の失敗は大いなる安堵である。失敗の可能性は自分にもあるが、現時点での制御力の優位は(暗黙に)誇示できる。一般に老年における制御力の衰えは(相対的に)若年の制御力の優位を暗黙に保証している。

屁をひりに雪隠に行く賢夫人
※単に身体的な我慢ができるだけでなく、場所柄をわきまえてうまく処理(制御)する意思力は、男だろうが女だろうが賢人にふさわしい。賢いとは身体的にも観念的にも自在な制御が利くことなのだ。こういう利発さを人は賢いと感じるのである。

すかしては小姓せっぷく道具なり
※しかし制御を利かしても愚かな人は人生を誤るのである。そっと(わざと)スカしてバレてしまうのは秘密(悪事)の露呈だ。発覚し、それが結果的に時と場所をわきまえぬ無礼な振る舞いになるのは、誠に不徳の致すところである。だいたい(制御の利く)若者が隠し事のスカシ屁をするのは不道徳なあざとさをにおわすよ。

南無阿弥陀仏と屁をひり芋を食ひ
※脳内の観念が肥大し限りなく自己肯定(して自己否定)する他力本願な人は、豪放磊落に〈屁〉をこくこともある。その姿は制御すべき〈屁〉を超越する解脱の振る舞いの一つだろう。ただし、こういう聖人の悟りとはほど遠い、ただの〈屁〉こきの凡人が世にはびこっているのが現実である。川柳の人物は聖人であろうか、凡人であろうか。

汝らは何を笑ふと隠居の屁
※ついに身体の制御が衰えて〈屁〉をこく(こかざるを得ない)老人は〈屁〉の恥(観念)もまた衰えている。川柳の場面は、子供たちが隠居老人の〈屁〉をはやし立てているのかもしれない。幼い子供たちも〈屁〉の身体制御は未だしであろうが、これから成長して学んでいく人と、これからは衰えて健忘していく人とでは、身体条件も〈屁〉への向き合い方も違う。老若のジェネレーションの質的ギャップは決定的だ。

 かくして、赤ん坊から老人までの人生行路において我々は〈屁〉をはじめ生理現象にさまざまに向き合う。多くはどうということもない日常の変化かもしれないが、そもそも我々の存在は幾多の生理現象のかたまりのようなものである。人生における〈屁〉を通してみても生理現象とは、身体と観念が相関して現象しているのだとわかるだろう。

 そこにある我慢(制御)は他人を観念(意識)したときの振る舞いである。この我々の心的運動の中核にある我慢の構造(身体と観念の相関による個体差)によって、我々の倫理性、侮辱性、羞恥性は複雑に現象してくるのだが、これらはいずれも傾向を持った共同幻想の類いにほかならないのだ。

 ここでちょっと念のために脇道にそれるが、倫理性が高いとか侮辱性が高いとか羞恥性が高いというのは、倫理的であるとか侮辱的であるとか羞恥的であるというのと同じ意味ではないね。倫理性が高いというのは(倫理的であろうがなかろうが)倫理が発現する緊張感の存在(の高低)を言っているのであり、その渦中にある(つまり、そこに倫理性がある)からといって倫理的に高潔であることを意味しない。

 倫理的に下劣な人間が高潔な人間を(倫理的に)攻撃することはあるわけだが、その状況は、下劣であっても(いや下劣であるがゆえに)倫理性に敏感になって攻撃的なのである。そうなると倫理性が高いほど、わずかな瑕疵であっても攻撃の対象になってくる。

 あちこちでこっそり〈屁〉をこいたり、平気の平左で迷惑な〈屁〉をこく人物が、正直者の不覚の一発を笑いものにして責めることはあるよね。この場合の「責める」「攻撃する」という振る舞いは、自らの非を隠蔽あるいは忘却し(つつも、倫理性の緊張だけはヒシヒシと感じる感受性があるので)目の前の他人の非は絶対悪として映じている激情である。そんな攻撃する人物が下劣であればあるほど激しい(そこには下劣さからの解放感がある)のであり、自らの下劣さを隠蔽する動機が意識せずとも存在してしまっている──人間にはそういう場合があるのである。

 音成が小学校時代にみんなの前で不覚にも〈屁〉をこいてしまったときに、真っ赤になった音成を口を極めてあざけった奴がいた。最初は誰が〈屁〉をこいたかわからない状態だったので、知らんぷりするつもりだったが、「やった、やった」とご注進する奴がいてバレたのである。こういう場合、人間は誰でも〈屁〉をこくものだとか、誰だってうっかり〈屁〉はこくだろうというような正論は、その場の激情には通用しないのである。音成は頭にきたよ。なぜなら口を極めてあざけった奴が、つい先ほど神聖なる図書館で極めてくっさいスカシ屁をしていたからである。(それを察知した音成はそっと注意してやったのだ)

 音成の〈屁〉は不覚の過ちである。みんなの前で暴露的に何もそこまで大騒ぎしなくてもいいではないか、と言いたかったわけだが、口を極めて声高に(つまり、倫理性をつり上げて)非難されたのだ。「お前だって図書館で…」という反撃は持ち出せず、まあ、こういうルサンチマン(怨恨)の応酬は激情するほどに品性下劣を露呈してしまうよねえ。そのときわかったのは、もっとも臭い〈屁〉をする奴がもっとも深く〈屁〉を憎む──ということであったよ。

 さて、このような「倫理性」と「倫理的」の関係、つまり倫理性が高いことと倫理的であるかどうかは別の意味である──ということは概ね侮辱性や羞恥性にもいえるわけである。

 先の音成のエピソードで暗黙に共有されている「人前や図書館で〈屁〉をこくのはいけない」という規範は倫理性の実現である。倫理性の緊張(高まり)を端的に表現している。小学生といえども、それにもとることは(不覚とはいえ)指弾の対象となる(ことがある)。しかも〈屁〉は羞恥性が高い。一般に〈屁〉は他人に発覚する事態になると倫理性も羞恥性も強力に発現してくるのであるね。もっとも、自ら〈屁〉を恥ずかしがるかどうかは人さまざまなので、羞恥性が高い(発現している)ことと恥ずかしがる度合いは一致しないわけだ。

 それに羞恥性は倫理性に比べると主観的なものとなる。倫理性は倫理という規範(基準)が言語化され曲がりなりにも共有されるが、羞恥性は羞恥という主観的な情動のままに明確な基準が失われている。恥ずかしさの基準というのは(あるようで)ないのである。

 このことは侮辱性にも共通することで、侮辱という主観的な情動には明確な基準がない。明言する言語化が揺れて難しく、どこがどこまで侮辱(と認識する)かは相互の主観的な感受に頼るのである。

 前回、音成は「我々は相手との関係の中で『我慢─真似─不覚』という振る舞いのトライアングルを行きつ戻りつしている」と指摘したが、この三方面からの構図は「倫理─侮辱─羞恥」に対応させて次のように図式化したのだった。

我慢」によるルール遵守=倫理の実現
真似」によるルール無視=侮辱の具現
不覚」によるルール逸脱=羞恥の発現

 この図式はルール(規範・基準)をめぐって「倫理─侮辱─羞恥」が現れることを言っている。しかし、この場合のルールとは、まずは倫理性によって生まれ明言されるものであって、本来的に侮辱や羞恥の側にルールがあるわけではないんだね。

 こう見てくると、言語化を伴う倫理性(我慢)というものが、我々の侮辱や羞恥の枠組みになっていることがわかる。侮辱や羞恥は倫理(ルール)によって囲い込まれている。だがしかし、倫理が侮辱や羞恥の(きっかけにはなっても)ルールではないのである。

 またもや、ああでもないこうでもないと議論が錯綜してきた。もう少し付き合っていただくとして、先の音成のエピソードでは、音成が〈屁〉をこいて他人を侮辱したわけではなかったね。他人から〈屁〉をこいたと暴露され侮辱され恥をかいたのであって、音成の〈屁〉は誰を侮辱したわけでもない──となるわけだが、この状況は立ち入ると少しばかり複雑だ。

 果たして音成はみんなを侮辱しなかったのか。音成は原因となる〈屁〉をこいたのであるが、そのことはみんなを侮辱したことにはならないのか。なぜなら人前で〈屁〉をこくなど、こかれた方にしてみれば侮辱以外の何ものでもあるまい。不覚にもやってしまいましたという事情はどうであれ(高い倫理性を醸している状況下では)不届きな行為である。例えば、神聖なる礼拝堂でブウとやってはバチが当たるというようなもんである。あるいは「すかしては小姓せっぷく道具なり」というように殿様の怒りに触れれば切腹ものであり、このとき殿様は侮辱されたと思っている。

 音成の場合、そのとき誰かを侮辱したなどとはつゆ思わず、ひたすら恥ずかしさに震えていたのだが、みんなの中には怒りに震えていた潔癖な奴がいたかもしれない。そう考えると我々の振る舞いにおける「倫理─侮辱─羞恥」というトライアングルは一つの解釈だけを許さない側面もあると気がつく。思えば、スカシ屁野郎の図書館での行為に音成は侮辱された(大好きな図書館の神聖さを汚された)と認識したのだが、みんなの面前で音成の〈屁〉を糾弾したそのスカシ屁野郎だって、音成からの侮辱を感じマジで怒り心頭だったのかもしれないのだね。

 いずれにしても、一発の〈屁〉がもたらす侮辱や羞恥は一面的ではない。侮辱や羞恥は人それぞれが置かれた状況によって相互に入れ替わることもあり得るし、個々人の意図(主観)を越える結果を招来する(こともある)のである。一方で倫理は理念的であり(概ね)広範な合意として明言し得るものなので、個々人の都合で簡単にはブレない。倫理性という枠組みの中で、倫理も侮辱も羞恥も発現するのだが、もちろん倫理性が高い(枠組みが強固である)ほど強く発現する。それは基本的な規範として倫理観になって存在しており、侮辱や羞恥はいわばその規範(倫理)へのさまざまな解釈そのもの(情動からの振る舞い)として発現している構造となっているのだ。

 それゆえ侮辱や羞恥は多分に個人的で身勝手で恣意的なものであり続ける。といって、まったく個人的なものかといえば、そうでもないわけで、侮辱や羞恥も、我々が集団化から逃れられないがゆえの共同幻想には違いない。ただ、倫理の理念(観念)性には及ばないし、規範としての理念(客観)にはなり得ない。侮辱や羞恥は、共同幻想という観念性の侵蝕を受けながら情動に根ざし、感情的であり主観的なのである。

 音成がみんなの前で〈屁〉をこいたのは我慢が足りなかったからだね。何かを我慢するとは、集団化を果たしている人間としての制御である。制御は身体的であることと心的(観念的)であることとが協業している。つまり〈屁〉の制御は身体的かつ心的バランスによって我々にもたらされている。身体は心的に影響を受け、心(観念)は身体的に影響を受けるのだ。音成は大腸ガスの膨満(身体的圧迫)に対して油断(心的弛緩)をもって対処し失敗したのである。

 あのとき仲間内ではごく当然のこととして「〈屁〉は人前でこくべからず」という暗黙のルールがあっただろう。当初は誰も〈屁〉など意識しない(意識下の)ゆるやかなルールであったはずだが、小さな過ちの〈屁〉を声高にご注進する奴の連呼によって、その場の倫理性は一気に高まり、たちまち雰囲気は緊張した。強く強く〈屁〉が意識されタブー化したのだ。その状況下では誰もが音成の失態を見て「いま〈屁〉をこいたら大変だ」と自らの危機感とともに思ったに違いない。さらに図書館スカシ屁野郎の音成への攻撃によって、さらに緊張(倫理性)は高まった。もうこうなると誰だって固まる。我慢しきれずそこまで出かかっていた〈屁〉も引っ込むというもんだろ。

 とまあ、怨みがましい思い出はさておき、生理現象の我慢、例えば〈屁〉を我慢するというような振る舞いから崇高な倫理が生まれる基本的な心的構造があるのだ。我々の心的運動はその仕組みの中で展開しているのである。単純に〈屁〉を「我慢する」というが、実はその振る舞いの奥深さを知らねばならない。 
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2013年11月30日

続続続・〈屁〉が生理現象の鬼子なのは何でだろ〜ヵ

 我々の〈屁〉とか咳とかクシャミとかアクビとかの生理現象は人前ではしないことが一般的マナーである。マナーが突出する(服従せざるを得ない)のは、より厳粛にしてより高貴なる公の場であることは言うまでもない。そういう場での不覚は懲罰ものである。

 結婚式でうっかり〈屁〉をこいた花嫁が恥ずかしさのあまり自殺したという話さえ現実にある。マナーからの不覚の逸脱(粗相)がもたらした悲劇である。1940年頃の話として『屁珍臭匂臭(まるへちんぷんかんぷん)』(1986年、泰流社刊)に紹介してある話は、著者の山名正太郎が転勤先の岐阜で耳にした事実なのだという(参照)。

 いまどき式の最中に〈屁〉をこいたくらいで死ぬやつがいるのかと思うかもしれないが、結婚式よりもっと極度に緊迫した公の場だってあるだろう。そこで犯した醜態が死を呼ぶ──そういう社会はあるのだといわざるを得ない。

 しかしまあ、厳格な禁止ルールではないまでも、我々の日常には屁、クシャミ、アクビ、シャックリなどの生理現象に抑制や隠蔽がついて回っているね。自分の生理現象は他人には不快だとわかっているし、もちろん他人の生理現象は自分には不快である。気づきたくもなければ気づかれたくもないのだ。程度の差はあれ人の目にふれないようにする(少なくともそう努力する)ことは各人の世間的なマナーになっている。

 やたら〈屁〉をこいたりクシャミをしたりアクビをしたりシャックリしたりするのは、どんなにおおらかな集団であろうと(素知らぬ顔、当たり前の顔をしていても)それを「無」にはできない現象だ。世間では屁、鼻水、イビキ、腹の音、ゲップ、シャックリ、アクビ、クシャミ、咳のような生理現象は人前ではタブーなのだ。自他ともに不快なのである。失礼、無礼なものとして抑制(我慢)し隠蔽するわけである。

 少し脇道に入って話を進めたいのだが、前回、電車内で恥ずかしいと思う生理現象についての研究を紹介したね。そこでは生理現象が次のようにグループ分けされていた。

Aグループ=屁、鼻水、イビキ、腹の音、ゲップ
Bグループ=シャックリ、アクビ、クシャミ、咳

 このグループ分けに何の意味があるのか。音成はBグループが呼吸として連携する体組織の動きから派生した現象であることに着目した。Bグループは正常な呼吸ではないものの、体組織的には呼吸からの派生なのである。そもそも呼吸は制御するものだ。それに対して、Aグループは何らか我慢するにしても、身体に組織された明快な制御の用意がない。つまり、Aグループは非制御系(そもそも制御していない)、Bグループは制御系(もともと制御している)と愚考したのだ。(参照

 公衆の面前でこれらは恥ずかしい生理現象だね。研究が指摘するところでは、AグループはBグループよりも恥ずかしく感じる生理現象である。恥ずかしい順位は@屁A鼻水BイビキC腹の音DゲップEシャックリFアクビGクシャミH咳──となっていて、Aグループが順位の上位をきっちり占める。〈屁〉はもっとも恥ずかしい。そして年を取るとAグループの羞恥度は低くなり、Bグループの羞恥度が高くなるというのである。老人になるにつれ〈屁〉は恥ずかしさが減少し、逆にクシャミや咳が恥ずかしくなるのだ。

 なぜそうなるのかについて以前にもエントリしているが(参照)、要するに加齢による身体の衰えが影響している。全体の平均的な恥ずかしさの順位はあくまで@〜Hとなっているが、制御系のBグループは老化によって制御しにくくなって、制御の衰えを自覚するのである。この身体的自覚(できていたものがうまくできない)は隠微に影響して羞恥度を高める。対するAグループはもともと身体的に制御が考慮されていない。つまり制御の身体的自覚に乏しいものなので、年を取ってだらしなくなってもあまり関心が向かないのである。羞恥心が欠けてくるというより、アッチが高くなればコッチは低くなる──相対的にAグループの羞恥度は低くなるのだと考えられる。

 このことは羞恥が制御(我慢)という心身運動によって増減されることを示している。端的にいえば(制御すべきものを)制御できないのは恥ずかしいのである。何事においても下手糞というのは羞恥心を掻き立てるではないか。

 以上、我々の生理現象の制御(我慢)との関わりについてまとめてみたが、前回までに生理現象の我慢と真似との考察から、我慢から倫理性、真似から侮辱性が出てくるのだとしてきたね。ここで羞恥性もまた我慢との関わりの中から出てくると観察されたわけである。

 この羞恥は生理現象を完全に隠蔽している限りは基本的に生まれない。生理現象が人の面前に露出したときに恥ずかしいわけで、不覚にもうっかり現象させればとても恥ずかしい。このときの制御(我慢)のゆるみが羞恥度を上げる。

 ここで再び脇道に入るが、そもそも不快な生理現象の「不快」とは何なのだろうか。この不快現象の構造を考えておこう。

 人間にとって快・不快は身体行動や心的運動における取捨選択や判断基準の基本的な指針になる原初的な情動だと観察される。それは一過性の反応かもしれないが、甘受するだけの感覚から一歩踏み出した分別の情動なのであり、我々の身体行動や心的運動を導いている。要するに人は快(楽)に引き寄せられ、不(愉)快から遠ざかる。

 では、我々の振る舞いを方向付ける指針の第一歩が快・不快であるとして、生理現象とはそもそも不快なのであろうか。いやいや、我々は〈屁〉をこくと──まずは気持が良いのではないのかねえ。ゲップ、シャックリ、アクビ、クシャミなども、まわりに誰もいなくて、過度の発作でなければ必ずしも不快なばかりではないだろう。

 しかしそのときそれが、自分にとっては快(または、どうでもいいこと)であっても、他人がそれを身近に現象させるのは気持のいいものではないね。近くで〈屁〉をこかれたり、ところ構わずゲップ、シャックリ、アクビ、クシャミなどされると不快(または、やめてほしい)と思うのである。

 他人の生理現象が不快なら、他人も自分の生理現象は不快なはずだ。我々が自分の生理現象の露出を我慢しようとするのは、他人が感じるであろう不快を観念(意識)するからにほかならない。例えば〈屁〉の不快は次のような関係を構築している。

 他人の〈屁〉=自分が嗅いで「不快」になる
 自分の〈屁〉=他人が嗅いで不快になるのが「不快」
 
 我々の心的運動には常に他人の存在がまとわりつき、何事につけても他人はこう「感じる・思う・考える」と観念してしまう。他人の〈屁〉の異音異臭が不快なら、自分の〈屁〉も他人には不快なはずだと「感じる・思う・考える」のである。

 このように他人の存在にとらわれるのは、我々が世界の観念化を進めるうえで身についてしまった、どうしようもない性分である。というか、まさに他人の存在とは観念(として形成されたもの)そのものだ。自他の生理現象が不快というのは、つまりは各人が他人が不快がっていると「感じる・思う・考える」ところからくる共同幻想(観念)なのである。

 こう見てくると、不快(や快)とは単なる感覚の現象ではなく観念的な心的運動の始まりなのだとわかるのだ。もちろん他人の〈屁〉は(まずは感覚として)その異音異臭が奇なもの異なものとして識別できる現象であり、その尋常ならざる奇異ぶりは生で聞いて嗅いで嫌悪の対象にもなる。自分の〈屁〉だって常軌を逸した奇異なものではあるのだが、放屁はスカッと気持いい(とも感じる)わけなので、観念化の心的運動はそういう不快と快が揺れ動く不安定な感覚域において始まる。そこでは、もちろん他人の〈屁〉は不快だが自分の〈屁〉が「不快を与えることが不快(他人が不快になることが不快)」という観念的不快が萌芽しており、ついにそれは我々相互の共同幻想となって当初の感覚的不快と同調する。かくして「不快」は観念的に増幅される。

 心的運動が生物的な快・不快から「感じる・思う・考える」という人間的な快・不快の段階へと踏み出していく過程は、観念化を次第に論理的にしていく過程である。その一つが、人前で〈屁〉をこいてはいけないというようなルール(規範)の設定である。ルールというのは、他人の存在(との協同)を観念することで、暗黙に、あるいは明示的に、他人と(共存していく)約束の取り決めを抽出したものだ。

 自他ともに不快である生理現象には我慢し合うという暗黙のルールを対峙させるわけである。ルールは常態化すれば無意識に沈み、人前で〈屁〉を我慢するのは強い弱いはあれ人類共通の血肉化したルールになっている。

 さて、話を戻す。我々は先に生理現象の倫理性、侮辱性を検討したのだが、そこには羞恥性という側面もあったわけで、これら三つの人間の価値観の根底にある振る舞いに注目してきたのだった。つまり、我慢が倫理を生み、真似が侮辱を生んだと考えたが、生まれた倫理ゆえに我慢し、生まれた侮辱ゆえに真似するという観念の相互干渉が増幅しているわけである。羞恥の場合には、我慢にもかかわらず(不覚にも)制御できずに取りこぼして恥入るのである。羞恥は不覚(制御失敗)の行為から生まれ、羞恥ゆえに隠蔽する。

 例えば〈屁〉における倫理性、侮辱性、羞恥性を考えてみよう。そもそも〈屁〉は人前でこいてはいけないはず(ルール)である。まずは我々はルールを遵守して我慢する。たいていはこれで事なきを得る(私は屁などこきませんよ〜というような顔をしている)のである。しかし対座する相手がアホな軽蔑すべき奴だとすれば、からかってやろうとルールを無視して〈屁〉を真似て(あるいは実際にこいて)侮辱することがあるかもしれない。逆に相手が恋している人であったら何としても我慢するわけだが、ルールを逸脱して不覚にもこいてしまえば羞恥のどん底に落ちる。隠蔽できるものなら隠蔽したい。

 この三方面からの構図は多かれ少なかれ、ほかの不快な生理現象にもいえる。我々は相手との関係の中で「我慢─真似─不覚」という振る舞いのトライアングルを行きつ戻りつしているのだ。。

我慢」によるルール遵守倫理の実現(現実化する)
真似」によるルール無視侮辱の具現(具体化する)
不覚」によるルール逸脱羞恥の発現(現出化する)

 この振る舞いの三者関係をみると、我慢とは我々が他人と生きていくときの基本になる中核のスタンスであり、我慢を前提にそこから真似も不覚も派生しているのだと観察される。言葉を換えれば我慢の崩壊現象が真似と不覚なのであると考えられる。

 我慢できずに〈屁〉をこいて恥をかき、我慢できずに〈屁〉をこいて相手を侮辱する──要するに、我々は我慢する(制御を保持する)存在だといえるのであるが、その我慢の保持(倫理)はいつも腹を立てたり(侮辱)ウッカリしたり(不覚)して崩壊の危機にさらされている。

 自他の生理現象における相互の関係をあれこれ詮索していささか錯綜してしまった。もう少し整理して生理現象の中の〈屁〉の独自性について示さなければならないね。
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2013年10月31日

続続・〈屁〉が生理現象の鬼子なのは何でだろ〜ヵ

 我々が〈屁〉を我慢したり真似したりするのはどんなときだろうか。常識(世間)的な一般道徳では、人は誰も〈屁〉をこくのは御法度なのであり「我慢する・真似しない」という振る舞いは自分にも他人にも強いるべき道徳律となっている。要するに〈屁〉は存在してはならないのである。

 前回までに検討した中で重要なポイントがあったね。我慢すれば倫理性が発現し、真似すれば侮辱性が発現する──ということなのだが、根底には身体に発生する生理現象が醸す負の影響(自他の不快)があった。その影響が甚大だと我慢の倫理性は高くなり、真似の侮辱性も高くなるのだが、倫理や侮辱を実現しようとする際に、身体条件からくる(生理現象の制御の)難易度によって心的運動の振る舞いが左右され、倫理性や侮辱性の強弱が生じるのである。以上をふまえ、今回はもう少し考察の間口を広げながら〈屁〉について考えていきたい。

 これまで我々が問題にしてきた生理現象とは、身体音という観点から見てきた咳、アクビ、クシャミ、屁──であった。このほか、生理現象についての考察には前に紹介したように、老若男女が電車の中で恥ずかしいと感じる順位の調査があった。この中に咳、アクビ、クシャミ、屁は入っているが、電車のような半ば密室の公衆の面前で恥ずかしい生理現象の順位は次のようになっていた。
 まず、全体の平均値として見ると、「おなら、鼻水、いびき、腹の音、げっぷ、しゃっくり、あくび、くしゃみ、せき」の順で恥ずかしいことがわかりました。因子分析という統計手法により、これらの反応を分類してみると、「げっぷ、お腹、おなら、いびき、鼻水」が一つのグループに、「せき、くしゃみ、あくび、しゃっくり」がもう一つのグループにと大きく二つに分かれることが示されました。一つの解釈として前者は「声帯と無関係な生理現象」であるのに対して、後者は「声帯を介した生理現象」と見ることができるかもしれません。「せき」や「くしゃみ」は、声帯を通して表出され、その意味で声の一種と見なすことができます。ところが、「おなら」や「げっぷ」は声帯とは関係のない、単なる体から出る「音」というわけです。(菅原健介著「人はなぜ恥ずかしがるのか」1998年、サイエンス社刊)

 菅原は生理現象の(声帯・非声帯の)二つのグループに気がついているわけだが、声帯が関与しているか否かに着目しているのである。

非声帯系=ゲップ、お腹、オナラ、イビキ、鼻水
 声帯系=咳、クシャミ、アクビ、シャックリ

 それぞれのグループの指標(生理現象)の羞恥度の和を求め、男女別に年齢との関係を調べてみると、@どの指標に関してもすべての年齢層で女性の方が男性より羞恥を強く感じているA非声帯系の生理現象は男女に関わりなく加齢とともに羞恥度が低くなるB声帯系の生理現象は男女に関わりなく加齢するほど羞恥度が高くなる──という結果になったというのである。
 なぜこのような年齢差が生じるのかはわかりませんが、重要なことは加齢に伴って羞恥心が薄れてゆくという一般的な考え方は明らかに間違っているということです。状況によっては高齢者といえども、あるいは高齢者だからこそ強い羞恥を覚えることがあるわけです。「おなら」や「げっぷ」など若い層が恥ずかしいと思う事柄に高齢者はそれほど強い羞恥を感じません。一方、若い層がどうでもいいと感じている「くしゃみ」や「せき」に対してはむしろ、高齢者のほうが恥ずかしさを覚えています。こうした感性の世代間格差が羞恥心に関する高齢者への偏見を形作る基になっていることは十分に考えられることです。

 この研究を初めて知ったときは大いに刺激されたので「年取れば恥も忘れるおならかな」などというエントリを書いたものである(参照)。それにしても、男女差や年齢差によって羞恥心が変化する──という発見が、生理現象の実証的な分析に基づいて踏み込んでいる点で強い示唆を与えるものだろう。

 さて、菅原が指摘した「声帯系」「非声帯系」という生理現象のグループ分けだが、これは何を意味するのであろうか。後に菅原は「この結果についてはいろいろな解釈ができる。たとえば、『お腹の音』や『げっぷ』は身体から発するのでコントロールできない。一方、後者は声なので我慢が可能だ。我慢できない現象は仕方がないが、コントロールできるはずの『あくび』や『せき』を人前で我慢できなかったのは自立性の欠如を示すことになる」(菅原健介著「羞恥心はどこへ消えた?」2005年、光文社新書)とも考察している。

 ここで前回まで我々が考察してきた我慢と真似を思い出したいのだが、その前に「声帯系」「非声帯系」の区別を掘り下げておきたい。

 声帯系の生理現象は咳、クシャミ、アクビ、シャックリが分類される。菅原はこれらは声帯に関係しているとしている。確かにいずれも呼気が喉を通って声帯を震わせるのだが、声帯の関与は本筋というより、たまたまそこに声帯があったというべきではないか。より本質的な説明として次のような記述がある。
せき、くしゃみ、しゃっくり、あくび、どう違う
 これらは、すべて呼吸運動の一種で、横隔膜、胸郭、肋間筋や呼吸補助筋、そして肺の動きで起こる現象です。
 せき、くしゃみがでるときは、内肋間筋や呼吸補助筋が収縮して積極的に息をはき出す体制の中で起きます。せきは、声門を閉じたままで息をはき出す体制がすすみ、ついには、閉じていた声門がムリヤリこじ開けられて、息がものすごいスピードではき出される運動です。一方くしゃみは正門が開いたところを、強く息がはき出される運動なのです。
 またしゃっくりは、横隔膜がけいれんして急に収縮するために、鋭く短い吸気運動が起こるものです。
 あくびは脳の酸素不足からおこる反射的な深呼吸で、あくびが伝染するのは、同じ場所でおなじように酸素不足をおこすためなのです。(雑学研究会編「おもしろ雑学百科」1991年、コスモ出版刊)

 つまり、咳、クシャミ、アクビ、シャックリは人間の呼吸運動の一種(特殊な形態の一つ)なのだ。呼吸運動は動物が外呼吸(酸素を入れ二酸化炭素を出すガス交換)する自律的な運動であり、横隔膜、胸郭、肋間筋、呼吸補助筋、肺などがバランスよく連携して運動することで生命維持する。咳、クシャミ、アクビ、シャックリはそれがバランスを崩した現象と考えられるわけである。

 呼吸運動は身体によって自律的(無意識的)に行われるが、意図すれば自分の意志で制御することも可能だ。息を止めたり、早めたり、大きく吸ったり吐いたりできる。もちろん、それは呼吸の継続を前提としたものであり、我々は生きている限り呼吸を放棄できない宿命ではある。放棄は死である。

 咳、クシャミ、アクビ、シャックリは正統な呼吸運動とは言い難いが、それでも呼吸に関連して動く筋肉や臓器の動作から見れば、何らかの身体的都合を原因として発作的(否応なし)に現象してしまう呼吸運動と見なせるのだ。

 我々は身体が健康で異常がなく、過激・過大にならない安定した身体活動の渦中にあるのならば、呼吸運動は増減・強弱をオートマティックに行って、特に悩むこともなく過不足感のない平常状態にある。安心している解放された状態とは、安心して呼吸している状態である。平静で極めて調和のとれた呼吸は特に重視される。丹田呼吸法などを見ると、横隔膜を鍛錬して呼吸を制御することが、心身の安定と活性化をもたらしていることがわかるのである。

 マラソンなどのような疲労困憊する(過激な)身体活動は苦行を自ら強いるものだが、呼吸という観点からいえば、荒れる呼吸を強い肉体と意志とで持続的に平常状態に保持する(呼吸制御の)競技である。

 咳、クシャミ、アクビ、シャックリの場合、それは発作的に制御しがたく現象する、通常とは違う奇形の非正統的な呼吸運動だった。できれば存在しない方がいいのだが、身体にそれを喚起する原因(病気や身体不調や刺激など)を抱え込めば、ほとんど避けることはできないわけである。

 これらの制御に難易があることは見てきたとおりだが、いろいろな呼吸の変調に対して制御を働かすのは同じ系統の筋肉や臓器の連携によるのである。従って声帯の関与というより呼吸という点に特徴を見たいわけである。そもそも呼吸は制御する(できる)ものとしてある。

 では、もう一つのグループであるゲップ、お腹、オナラ、イビキ、鼻水はどうか。このうちイビキだけは呼吸(の結果)とみなせるのだが、発生メカニズムもバラバラなこのグループをまとめている観点は「そもそも制御不能」ということにあるように思われる。

 ここでいう制御不能とは、前触れもなく異変を呈する(不意打ち)現象であることを意味しているのだが、咳、クシャミ、アクビ、シャックリのような呼吸運動をベースにした異変の不意打ち(制御の逸脱)とは異なり、いわば発生を制御する器官がそもそもないのである。ゲップは胃の中のガスの放出、お腹の音はガスの滞留、オナラは腸内のガスの放出、イビキは呼吸音の異常発生、鼻水は水洟の流出というように器官的にはまるで制御を放置されたものとして存在しているのだ。(これは全く我慢できないという意味ではない。我慢はできてもそれは本来の制御ではないということである)

 つまり、もともと制御しているものの逸脱と、そもそも制御していないものの逸脱という対比が、このグループ分けの本質であると考えられるのだ。  

 菅原の研究は羞恥心にスポットをあてたもので、生理現象が喚起する我々の羞恥の度合いを測定しているわけである。確かに生理現象には(人前で)恥ずかしいという側面があるのである。

 なぜ、ある種の生理現象は恥ずかしいのか。恥ずかしい生理現象は、例えばそれが〈屁〉ならば、他人に(自分にも)不快を与える発生元(原因)になることを意識するからだ。咳、クシャミ、アクビ、シャックリの発作も同様に、自分も不快・苦痛なら他人もビックリする異常現象の突出である。不快・苦痛なものは存在してはならないのである。存在しない(してはならない)ことが当たり前(平常)のところに、意図せず存在してしまうのは恥ずかしい。この恥ずかしさは自他が抱え込んでいるそういうものを隠す心的運動だが、突っ込んだ分析は後に回して、ここでひとまず、我々は生理現象に対して、羞恥性、倫理性、侮辱性の三つがあるのであ〜る、とまとめておきたい。
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2013年09月28日

続・〈屁〉が生理現象の鬼子なのは何でだろ〜ヵ

 自らの存在を示すために(ワザと)咳をして人の注意を向けさせることはよくあることだ。しかし、自らの存在を示すために〈屁〉をこく人はまれだ。そんなことは我家においてもありえない(あるはずもない)この世の大珍事なのであ〜る。

 前回、我々の身体が発する音の振る舞いについて文化人類学的な議論(小野地健「身体音と声の体系的分析への予備考察―クシャミ・咳・あくび・屁―」2010年)を通じて、その内実を対比的に抽出してみたのだったが、音成の妄想では、どうも〈屁〉は身体音の中でも特異な(別格の)振る舞いを示すのではないかと思われたのである。

 身体音を観察する観点として受動面と能動面があった。受動面というのは、身体音が発せられるのを我慢する局面に立っている。このとき身体音は自分の意思に関係なく発作的に発せられる生理現象として存在し、しばしば(肉体的・精神的)苦痛を伴う。

 一方、能動面はその身体音を真似して発する局面に立っている。このとき身体音は(生理現象ではなく)制御可能なワザによって擬似再現された(そっくりの)音として現象している。

 この受動面と能動面という観点から各種の身体音を比べてみると、身体音ごとの違いが現れてくる。クシャミ、咳、アクビについては振る舞いの難易度について前回、次のように図式的にまとめてみたのだった。

 受動面(我慢しやすい順)=アクビ→クシャミ→咳
 能動面(真似しやすい順)=咳→アクビ→クシャミ

 クシャミの発作は我慢しにくいが、身体症状としては概ね軽いし、我慢できることもある。咳のように時に痛みまで伴って連続的な咳き込みに至る深刻な症状は(あまり)ない。咳やクシャミに比べれば、アクビは「かみ殺す」というように意識すれば発作を最も我慢しやすい。咳の発作がけっこう始末に悪いね。

 しかし、そういう我慢しにくい実際の発作に関係なく、自在に真似しやすいのは咳なのである。子供の頃、同情を買わんがため風邪の仮病をコンコン(軽症)、ゴホゴホ(重症)とやっている奴がいた。こんな真似ならアクビも口を開ければいいだけなので容易だ。ただこれは身体音というよりしぐさの要素が大きく、動作には演技力が少しいるね。クシャミは上手に真似できないことはないが、ワザとらしくなりがちであり、動作も音声もタイミングもそれなりに真実味を得るための演技力がいるだろう。

 こういう我慢と真似は我々の日頃の振る舞いの中で行っている身体制御だ。生理現象の「(発作を)止める」「(動作を)進める」という、身体音にまつわるコントロールである。しかし、我慢と真似は一続きの振る舞いではなく全く別系統の身体制御だ。

 我々の生理現象である身体音を「止める(我慢する)」とは、その発作を無理やり「止める」のである。これに対して「進める(真似する)」とは発作と関係なしに同様の(発作に似た)動作をワザと「進める」のである。よくよく考えると、これらは密接につながった同質の振る舞いではなく、行為としては似て非なるむしろ断絶(独立)しているものなのだとわかる。

 我慢=生理現象あり/不快が現前している実態の抑止/内向きの理由・意図(隠したい)
 真似=生理現象なし/不快を再現している擬態の推進/外向きの理由・意図(示したい)

 我々がある種の生理現象を「止める(我慢する)」振る舞いには、他人から生理現象を隠蔽する内向きの理由や意図が潜むと観察されるのだ。対面しているのに眠くなるのは、相手への関心が薄れていると見なされるし、不摂生な生活すら疑われるかもしれない。アクビは(相手に気づかれないよう)かみ殺さねばならないのである。

 それに対してワザと生理現象を再現(真似)するのは、他人に芳しくない何かを発信する振る舞いだといえる。そこには他人に向けた外向きの理由や意図があるわけだ。眠くもないのにワザとアクビをすれば、相手に対して興味が失せ退屈になっている露骨な態度となり、侮辱ともなってしまう。


 以上、少々くどくなったが、生理現象の真似と我慢について整理してみた。ここで改めて我慢と真似の制御しやすい順位に注目して議論を進めてみたい。まず、我慢から。

 我慢しやすい順=アクビ→クシャミ→咳

 ここに〈屁〉を加えてみると、我慢のどこに順位付けが可能だろうか。順位は時と場合により微妙であり、あくまで経験的なランク分けに過ぎないが、〈屁〉を加えれば順位はさらに微妙になる。前回に引用した小野地の論考では能動、受動ともに「屁の操作性には個人差」が大きいとしていたことが思い出される。

 我々にとって〈屁〉は確かに個人差がある。自分に限ってもアクビより我慢しやすい場面もあるし、咳より(あるいは咳くらい)我慢しにくい場面も心当たりがある。そういうことを言い出したら順位なんか何とでも言えるじゃないか、となるのだが、まあそういうことだね。いくら綿密に順位付けをしたところで、手に負えぬ発作から軽い自覚まである生理現象(アクビ、クシャミ、咳、屁など)の我慢は、要するに人さまざまなのである。

 とはいうものの、何事にも平均的な傾向値というものはあるわけで、だいたいの経験から我慢しやすい順を「アクビ→クシャミ→咳」とするのは納得しやすいのではないかと思うわけだ。こういう認識は、美人コンテストで決めがたい順位を決める評価のようなものか。だれも美人には違いないが、いちおう評価させて頂きます、というような──たとえが悪いか。

 ともあれ、その頻度や程度において概して「アクビ→クシャミ→咳」の順で我慢しやすいのだとすれば、要するに我々の「我慢しなさい」という倫理的な要求もまた、その順位になるはずだ。なぜなら我慢できるものを我慢しないのは許されないのであり、我慢できるものほど許されない度合いが大きくなるだろう。そして我慢しにくくて、どうしても我慢できないものは「仕方がない(やむを得ない)」となるのである。

 一般に生理現象の表出は他人を意識した場合には秘匿する。そもそもアクビ、クシャミ、咳などのような身体表層において発現する生理現象は、他人がやるのを見るのは愉快なものではないね。公式な場となればなおさらである。相手に何かしら影響を与える生理現象の多くは(自分にとっても他人にとっても)不快現象化しているわけである。他人のが不快なら自分のも他人には不快なわけで、我々は暗黙のうちにそれを自覚している。アクビを我慢(隠蔽)するのは、関心がないのを知られたくない、嫌われたくない、寝不足を知られたくない、などと念じる不快な状況だからで、うっかりアクビをすれば(真似と同様の)侮辱する態度にとられてしまう。他人の眉をひそめさせる生理現象は隠蔽するべきものとして(我慢によって)多くは表面に現れることがないのだ。それらは人前では現象させないことがマナーだね。つまり、アクビをする方もされる方も不快なのだ。(自分の不快と他人の不快は区別されるが、この議論は別に行う)

 こうした我慢の心的な動機を小野地の論考は「あくびは能動、受動ともに操作性が高く容易であるといえるだろう。そのために、あくびの抑制はマナーとして要求され、これを遵守できるかどうかが、その人間に対する直接的な評価ともなる。うっかりと公的な場であくびをしてしまうことは、それを抑制できなかった当人に対する非難とも繋がっていく」と指摘していた。我慢できるもの(を我慢する行為は)は倫理性がより高い(高く要求されている)のである。

 では、アクビより我慢しにくいクシャミや咳は倫理性が低いのか。まあ、大切な公的な場で不可抗力でやってしまったとしよう。アクビよりクシャミや咳の方が「馬鹿者」と眉をひそめさせながらも「仕方がない」として免罪されやすいと思うのだが、どうだろうか。

 世間に対峙して我慢(しなければならないとする心的テンション)のレベルが高い(倫理性が高い)というのは、社会化したマナーとして強く要求されていることだ。そして社会化の範囲が広がるほどにマナーの普遍性は強く強く要求される。
 
 ただし、我慢しやすいならより我慢しなければならない(つまり我慢のテンションが高い)のだとしても、我慢しやすかろうがしにくかろうが、その生理現象の周囲への影響度合いがあまりに大きいと我慢のテンションは一気にハネ上がる。例えば〈屁〉である。人前での〈屁〉は存在自体が極めてタブーであり、必死に我慢しようとするではないか。〈屁〉の場合には「仕方がない」ではすまないのである。

 つまり、我慢しやすいから(より一層)我慢しなければならない(少し倫理性が高い)が、我慢しにくくても(絶対に)我慢しなければならない(かなり倫理性が高い)ものはあるわけだ。いずれにしても我慢から倫理性が発現してくるのである。


 こういう我慢のあり方によって倫理性の心的運動が発生する一方で、マナーを無視するという挙動もまた我々の振る舞いとしてある。小野地は「わざとすることで、相手に対するマナーを無視したことを明示し、侮辱の意味を伝達することにもなる。あくびは能動においても受動においても、本人の意図と結びつけられる度合いが強い」と指摘していた。この「わざとする」ということが真似である。真似しやすいのはこんな順序だった。

 真似しやすい順=咳→アクビ→クシャミ

 真似がすべてマナー違反(侮辱)ではないが、相手を不快にさせるようワザとやれば、倫理性をまとっているマナーを逸脱する侮辱行為である。(対人関係を意識した真似には、合図のように何か真剣なことを伝達するサインであったり、エンターテイメントのように笑いを狙ったものもあるが、別の議論になるので、ここでは触れない)

 先にも触れたように、真似が発生したときには真似の対象となった生理現象(の発生)とは直接関係がない。真似は一個の独立した振る舞いであり、生理現象の身体的条件がないところに本物のように再現してみせる行為である。また真似しやすい順位を「咳→アクビ→クシャミ」としてみたが、生理現象の深刻度と真似のしやすさも相関がない。あくまでも真似は(真似しやすいかどうかであり)生理とは独立した身体的条件の下にある。真似しやすい順位は我慢と同様に微妙であり、得手不得手の個人差も大きいが、一応「咳→アクビ→クシャミ」の順を標準としておこう。

 先に見たように対人関係の中で、我慢においては倫理性の発現があったが、真似では侮辱性の発現が指摘された。そこには発現レベルの高低があるものの、侮辱を意図している真似には次の傾向が観察されるね。

 真似しやすいものを(簡単に)真似する→侮辱性
 真似しにくいものを(敢えて)真似する→侮辱性

 例えば(ワザと)咳をする行為は侮辱性は割と低い。相手をさえぎるように激しく咳をしても妨害の意味が強くなるだけ。侮辱なら(ワザと)大アクビをしたり、激しくだらしなくクシャミをした方がいいだろう。真似しやすいとは簡単にできるということであるが、我々には難しいことを敢えてやる方が行為の達成度は高く思い入れも強いはずだ。真似をするかしないかは極めて恣意的(観念的)な行為であるから、対人関係の中で困難を押して侮辱するのはそれだけ怨みが深いのである。かくして侮辱性は高くなるはずだ。

 もちろん、真似しやすいものが相当に侮辱的であることはある。例えば、ここでも〈屁〉である。自由自在とは言わないが、音なら子供でも簡単に真似られる。しかし〈屁〉は人前では真似しにくい。それは〈屁〉の存在自体が失礼すぎて強く隠蔽されるものになっているからである。そこには(容易に真似できるが)禁止ルールが強固にあるので人前では真似しにくい(真似すれば侮辱性が高くなる)のである。真似しやすさとは身体的な条件のほかに、真似したもの自体の影響力の強さも加味されるということなのである。(咳は真似しやすいが、その存在自体がそれほど失礼というわけではない。そもそも病気あるいは体調不調の身体症状かもしれないわけで、抑止の歯止めはあるものの、それ自体の恥ずかしさはかなり薄い)
 議論は錯綜するが、以上のように見てきた生理現象の我慢と真似についてまとめておきたい。
(1)一般に生理現象を人目にさらすのは失礼だったり不快にさせるので隠さなければならない。

(2)生理現象には我慢しやすいものと我慢しにくいものがある。また真似しにくいものと真似しやすいものがある。

(3)生理現象の我慢と真似は身体的に格別の相関はなく、それぞれ独立した振る舞いである。

(4)生理現象の我慢(しなければならないとする心的運動)があれば(自他を律する)倫理性が発現し、真似(をワザとする心的運動)があれば(他人を貶める)侮辱性が発現する。

(5)失礼や不快を相手に誘発させる生理現象を我慢(抑止)できるのに我慢しないのは悪である。それは我慢すべきであり、その我慢のテンションは我慢しやすいもの(を我慢する)ほど高くなる。

(6)失礼や不快で相手を侮辱する生理現象の真似は悪の行使である。ワザと真似をするその侮辱のテンションは真似しにくいもの(を真似する)ほど高くなる。

(7)そもそも我慢したり真似したりするのは、これらの心的運動の動機になっている生理現象が、自他に失礼や不快を及ぼしてくるからである。この生理現象自体の不快の影響度(深刻度)は、その基底で我慢や真似のテンションを深く支配している。

(8)倫理性や侮辱性は「影響度」と「難易度」との相関の中で形成されてくる。表形式でまとめると次のようになるだろう。影響や難易という主観的なもの(認識の敏感や鈍感)を織り込みつつも、我々がたどる心的運動の大筋の動きと考えられる。

我慢と真似 .jpg


(9)かくして「我慢(隠蔽)」と「真似(侮辱)」の最大値は、倫理性と侮辱性のそれぞれの「強」が発現しているゾーン(表中の黄色)の中にあることがわかるのだ。

 さて、こうしたことから何がわかるか。我々が探求しているのは〈屁〉である。自他ともに不快な生理現象の中でも〈屁〉の扱いには困ることが多いし、どう対処していいのか(どう論じていいのか)よくわからない。我々がたどり着いた我慢と真似の構造の中のどこに〈屁〉は位置するのであろうかねえ。

 生理現象の中でも〈屁〉は失礼と不快に関しては影響度(深刻度)の大きいものだ。倫理性や侮辱性の発現は最大と言ってもよい強いものがある。そこで先の表中の黄色ゾーンが〈屁〉の中心的な居場所であるとひとまず考えでよいだろう。とすれば、我慢の難易度は(概ね)易しくなければならず、真似の難易度は(概ね)難しくなければならないはずである。このことは我々の実感と比べてどうであろうか。

 いやはや、実感としてはむしろ〈屁〉を我慢するのは難しい場面も多いし、真似するのはいと易しいではないか──となるのだが、どうだろうか。もちろん、容易に我慢できたり、大変な困難を押して真似することがあるのも認めざるを得ない。要するに、いろいろなケースがあるのだが、生理現象としての〈屁〉はアクビ、クシャミ、咳などよりも少々複雑で多様な現象のようではないか。ここはもう少し整理してみる必要がある〜。
posted by 楢須音成 at 16:39| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年08月31日

〈屁〉が生理現象の鬼子なのは何でだろ〜ヵ

 我々の〈屁〉が厄介なのは、それが不随意(意図せず)に発生して時に制御不能(発生を我慢できないもの)になってしまうからである。しかも、それが何のためのものか(意義のあるどういう意味付与ができるのか)よくわからない現象なのだね。

 もちろん、身体の生理現象であるから何の意味もないわけではないのだが、その発生は清浄感には縁遠い糞便が出てくる肛門であり、それ自体は異音異臭の存在を隠蔽する透明な気体であることで他者を巻き込み、深刻な影響(不快)を及ぼして自他ともに忌み嫌う現象になっているのである。

 別に〈屁〉ばかりが異音や異臭の生理現象ではないものの、無意味(無意義)という点では卓越した存在感を持つ現象ではないだろうかねェ。そのうえ、異音や異臭を伴う生理現象にはなぜか恥ずかしさがつきまとう。なかでも〈屁〉は格別だ。前に紹介したことがあるが、電車の中で(つまり公衆の面前で)やらかした9項目の生理現象について、どのくらい恥ずかしいかを探った調査があった。それによると@おならA鼻水BいびきC腹の音DげっぷEしゃっくりFあくびGくしゃみHせき──の順で恥ずかしいのである。(菅原健介著『人はなぜ恥ずかしがるのか』1998年、サイエンス社刊)

 この調査は統計的にもしっかりしたものなので十分根拠のある順位といえる。ただ@〜Hまで並んだ順位にどんな理由を見出すかは難しい。まあ確かに電車の中で〈屁〉をこくよりは、咳をする方が恥ずかしさの度合いはかなり小さいとはいえるんだけどね。このことはあとで触れたい。

 菅原の調査は羞恥心という社会心理学的観点から生理現象を観察している。これに対して生理現象を(社会的観念に位置づける)習俗という観点から観察した論文があった。この文化人類学的な論考では、クシャミ、咳、アクビ、屁が取り上げられている。(小野地健「身体音と声の体系的分析への予備考察―クシャミ・咳・あくび・屁―」2010年、年報『非文字資料研究・第6号』神奈川大学日本常民文化研究所刊)

 観察は生理現象が「単なる個人の身体の生理的反応を超えた次元のものとして受け止められている」という観点であり、例えばクシャミをすると誰かが自分のうわさをしていると解釈したり、ついには「人間の意識を超えた存在である神や異界からの交信や兆候」とまで考える。そういう社会的観念が習俗化して世界中に現象しているわけなのだ。

 小野地はクシャミ、咳、アクビ、屁のような生理現象を身体音としてとらえ、それと言語との対比に着目している。当然ながら音声となった言語もまた身体音であるが「言語は発声を分節して、音声に差異をつくり、抽象的な記号として機能させることを主とする点で、他の身体音と一線を画す」とし、ほかの身体音と区別することで対比しているわけだ。なかでもクシャミについては「習俗としての次元でも、普遍的といってよい大きな共通性が人類社会にみられる」と中心的な論点になっている。

 ともあれ、習俗の次元の詳細はひとまず脇に置いて、身体音としてのクシャミ、咳、アクビ、屁などを音声言語と対比して観察すれば、それらは意図せず発生するという不随意性と、制御しにくいという非操作性が強調される現象である。逆に人とのコミュニケーションをになう言語は、意図を示す随意性と自由に扱える操作性が強調される現象だね。小野地は身体音の能動面(意図的な発声と操作)と受動面(不随意な発声の抑制)がどのようにバランスしているかに注目し、クシャミ、咳、アクビ、屁の本質的な差異を見ようとしている。
(中略)咳の分析で論じたように、咳はこの両面(能動と受動)が非常に極端である。咳払いとして意図的に発するときは、相手に何かを促したり遮ったりと、かなり細かいニュアンスまでこちらの意思を伝達していくことが可能である。一方、受動としてわきおこる喘息の発作などでは極めて制御困難で、その非操作性の極に至れば生命の危険すらあるのである。能動における繊細な操作性と、受動における強力な非操作性が咳を特徴づけている。

 それに比べると、あくびは能動、受動ともに操作性が高く容易であるといえるだろう。そのために、あくびの抑制はマナーとして要求され、これを遵守できるかどうかが、その人間に対する直接的な評価ともなる。うっかりと公的な場であくびをしてしまうことは、それを抑制できなかった当人に対する非難とも繋がっていく。逆に、わざとすることで、相手に対するマナーを無視したことを明示し、侮辱の意味を伝達することにもなる。あくびは能動においても受動においても、本人の意図と結びつけられる度合いが強いのである。

 クシャミは、そこまで操作性が高くないため、あくびほどにはマナーとしての抑制は要求されず、わざとしてみせることで相手に積極的に何かを伝達できるという度合いも低く限定的である。そういった操作性の低さが、クシャミに意図によらずに突然起きるという神秘性をもたらす一因となり、クシャミに対して呪いごと唱えごとを行ったり、噂や想いの受信手段であるという観念へと繋がっていくことはすでに指摘したとおりである。

 屁は能動的に発音を求められる場面は稀有だが、能動、受動ともに一定の操作性を持つ。ただし屁の操作性には個人差が大きく、それが福富長者や屁ひり爺のような屁の名人の話を生み出す背景にあると思われる。また、そういった名人の話に付随して、貴人の前で屁の芸に失敗して破滅する者の話があるように、屁は他の身体音よりも強いタブーと抑制が要求される度合いが強い。特にそのタブーは、公的な儀式や貴人の前など、身分や場面、場所の区分といったヒエラルキーに大きく関与している。逆に言えば、屁を放つことは、そのような区分に対する最も強力な撹乱手段となる身体音だ。屁が大真面目に行われている儀式を一気に弛緩させて興ざめにしてしまうという例は、屁の分析の項目で述べた。こうした点において、屁はクシャミや咳、あくびと比べて、政治性の強い音声であるといえるかもしれない。

 これらの観察を単純化してまとめてみると、意図的にその身体音を発する能動面においては、おおむね咳、アクビ、クシャミの順で操作性が高い(操作しやすい)。ただし、不随意(発作的)に襲ってくる本来の生理的な身体音を抑制する受動面おいては、おおむねアクビ、クシャミ、咳の順で操作性が高い。そして屁の位置づけなのだが、能動面、受動面ともに「個人差あり」ということで別格(曖昧)になっている。

 さて、以上の小野地の観察を借りて音成の愚考を展開してみたいのである。小野地が指摘した能動面と受動面における操作性は確かに重要な鍵であると考えられる。操作性──いかにそれを制御するかという我々の振る舞いは本源的な心的運動に根ざしている。制御が「できる/できない」は心的には(何かを思い描く)観念化の重大な契機になっている。我々は「できるものができる」「できるものができない」「できないものができる」「できないものができない」というような場面に直面して心的に思い描くことはそれぞれ違うね。我々はその違いの中で現実に対峙し、心的振る舞いが微妙に揺れ動いて構成される。

 ここでもう一度、身体音と操作性について検討してみる。身体音というのは本来、何らか身体上の原因があるのであって、生理現象として不可避に発生するものだ。風邪を引いたから咳が出る、眠いからアクビが出る、花粉症でクシャミが出る──というように何かの症状として我々の意図に関係なく一方的に現象するのである。つまり、本来的に生理現象というのは我々には受動的なものとして立ち現れる。だから我々が能動面の操作性というときには、生理現象である身体音(症状)の疑似再現の容易さを指している。言葉を替えれば真似しやすさということになる。

 一方、受動面の操作性というのは本来的な生理現象を抑制することである。時と場合により症状が激しければ抑制(我慢)は困難であり、我慢しやすいかどうかは個人差も大きいだろう。

 以上をふまえて、これまでの身体音の観察を整理すると次のようになる。

能動面(ワザと意図し真似しやすい順)=咳→アクビ→クシャミ ──(屁)
受動面(不意の発作に我慢しやすい順)=アクビ→クシャミ→咳 ──(屁)

 つまり平均的な現象の比較においては、咳、アクビ、クシャミの三者のうち、咳は最も我慢しにくい現象であるが、真似(再現)しやすいのである。しかしまあ、アクビとクシャミでどちらが真似しやすいか我慢しやすいかは微妙なところかもしれない。ここでは真似と我慢の相関において身体音(生理現象)は存在している(我々はその相関を暗黙に認識している)と指摘しておく。

 しかし、どうも曖昧なのは〈屁〉である。この〈屁〉という現象は能動面(真似)においては、咳、アクビ、クシャミなどとは、やや異なった様相を呈する。真似するといっても直接的な再現(肛門を使う)はできない(しない)のである。唇を震わせて鳴らしたり、ブーブークッションなどを使った間接的な(しかし結構リアルな)真似をするわけだ。(もっとも、肛門を使うのは必ずしも不可能ではない。肛門から空気を吸い込んで出せばいいのだが、一般には難しい)

 受動面(我慢)においては、その時の体調もあり身体内のガス量(お腹の張り具合)によっても左右され、肛門の締まり具合は体力とともに放屁ポリシー(抑制レベル)の個人差が大きく影響している。要するに我慢の実現はほかの生理現象に比べて身体的・心的な不安定さに同時にさらされているのであるが、普通は誰でもしっかり我慢している(のではないかねェ)。

 かくして〈屁〉はほかの生理現象とは若干(あるいは大きく)違った点があるのではないかと考えるわけである。肛門(屁)と口腔(咳)という対極的な発生場所もあるが、ここで〈屁〉と「咳」という生理現象をひもとくことで相違とカラクリの構造が見えてくるのではないかと着目したのであ〜る。
posted by 楢須音成 at 22:02| 大阪 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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