いくら自分が相手を侮辱しようと思っても、相手がそれを感じてくれないことには、まったく意味がないだろう。相手のことなどお構いなしに、こちらに侮辱の意図があるだけで成立するものではない。何事につけ自分だけがご満悦している一方通行というのはよくあるのだが、侮辱に関しては、相手が保持している自己評価(立場)を毀損する示威に無理やり直面させてこそ意味があり、相手に被害性の心的動揺を発生させないと侮辱にはならないのである。
このような一方通行がある場合には、相手が侮辱にいたく鈍感であるようなこともあるだろうが、侮辱する者が行為に及ぶ条件を独りよがりに主観的に構築していて相手に通じていないこともあるだろう。前回までに見てきたように、侮辱行為とは次の条件があって発生すると考えてきたね。
(1)不信・対立・断絶関係にある
(2)自己の意識が相手より高位である
(3)相手の社会的立場(評価)が低い
(4)自分の不完全性を意識または無意識している
一般に侮辱するときは、相手の弱点(評価)をさらに貶める言葉や行動によって、相手の全体評価の毀損をめざしている。特に相手の羞恥心をかき立てる(恥をかかせる)ことにおいて顕著な行為である。それは相手次第で行為の意味合いが変わり、よくあるのは相手が強者なら当てつけ、対等なら意趣返し、弱者なら威圧といったいろいろな形をとるわけだ。
そこでは自己の評価を貶めてはならないことが原則であり、陰に陽に常に自己の評価(立場)を高めたり誇示することが望ましい。つまりは相手を(バカにしたりコケにして)できるだけ否定することが必須なのである。
こう見てくると、相手に尻を向け、突き出し、さらに〈屁〉をこくという侮辱行為は奇抜であり、どう転んでも恥ずかしくもあり可笑しくもある危うい行為だね。平時においては、そもそも人前で〈屁〉をこくなど自分の評価を下げ価値を貶めるだけなのだ。しかし、それが相手への侮辱になるという場合には(やっていることは変わらないのに)相互に心的な転位現象が起こっているわけで、当事者間の葛藤は並々ならぬものがあるといわねばならない。
さて、恥ずべき行為を侮辱へと転位させる核心にあるものとして前回、侮辱する者の「自己の意識」の高位を動機づける次の三点を指摘したのだった。
(1)反撃の明確な
動機(2)貶める強力な
意思(3)誇れる完璧な
制御 例えば、日本書紀にある神話の世界の星神香香背男(ほしのかみかがせお)の状況をもう一度確認してみることにしよう。
土着の神、星神香香背男は高天原の天孫ニニギの命の進攻を受ける。徹底抗戦するが、如何せん戦況は不利である。多分、滅ばされる。このとき星神香香背男は天孫ニニギの命に向けて尻を突き出し〈屁〉を嗅がせるポーズで侮辱したのであった。
この構図はすべてに勝るニニギの命に対する星神香香背男の反抗である。神格も武力も劣勢にある弱者という立場においては、何が何でも自分を奮い立たせないと徹底抗戦も侮辱行為も不可能だが、このときは絶対に「自己の意識」を相手より高位に保たねばならない。(これは、いわゆる「自己意識」ではなく、他者に向けて自己を対峙させるときに必ず位置設定する意識の高低である。俗にいう「目上―対等―目下」というような関係性も一つの高低差)
我々は相手が強者(つまり、自分が弱者)であっても、侮辱で相手を見下す(自己の意識の高位を保つ)ことができる。そのために必要な条件が(1)動機(2)意思(3)制御――の確保なのであるが、恥ずかしい振る舞いが侮辱的威圧になるためにはこれらは必須であり、なかでも重要な条件が(3)である。
我々が〈屁〉をこいて相手を侮辱しようとして、恥ずかしがっては(自己の意識を低下させては)話にならないわけだが、自己の意識を高位に保つ条件となる「動機」「意思」「制御」のなかでも、羞恥に深く関与してくるのは「制御」なのである。
もちろん、お尻を突き出して〈屁〉をこく侮辱行為の「制御」とは、お尻の制御つまり〈屁〉を(こいたりこかなかったり)コントロールできる確固たる自信をいうわけである。
例えば勝負事は、やってみないと勝つか負けるかわからない(ので勝負する)のだが、強い奴は確かに強い。そういう強い奴ほど確固たる自信に満ちている。逆にいえば(露わになっていようが秘めていようが)自信に満ちていなければ弱いのである。この「強い」というのは勝負師の「強力な制御」のことであり、たとえ分野は限られても対象を支配下に治め、その分野をコントロールできる、身に備わった能力(制御力)である。勝つか負けるかは結果だが、強い弱いの真贋はこの制御力を保持する加減にあるのだ。
これが羞恥心に関与してくるのは、負ければ恥ずかしく感じることからもわかるだろう。その恥ずかしさは自分が強ければ強いほど(つまり、制御力が強いほど)激しく感じるはずだ。相撲の横綱が格下の相手に負けるのは恥ずかしい。
しかしその横綱も、体力や気力が衰えて制御力がなくなると、恥ずかしさを感じなくなる。弱くなって引退する横綱は(むしろ穏やかで)恥ずかしがっているようには見えないだろう。制御力がなくなると負けても当たり前なのであるから、勝たねばならぬと思い詰めたときほど恥ずかしさを感じなくなるのだ。しかしまあ、周囲や自分が体力や気力の衰え(制御力の喪失)を認めるまでは悩んだりもするのだろうけどね。
ひるがえって〈屁〉はどうか。老人が〈屁〉をブリブリこいているのはよく見かけるよねえ。これは好んでワザとやっているのではなく、むしろ老化によって抑止する機能が身体的に衰えているのである。そして老人は、身体の衰えに見合って〈屁〉の羞恥心も薄れているのだ。若者の場合は〈屁〉をブリブリこくことは(老人より)恥ずかしい。若者は〈屁〉を我慢する制御力が体力・気力ともに旺盛だから、意識的にも無意識的にも〈屁〉などこかないのが当然なのである。
制御力があるとなぜ恥ずかしさが募るのか。制御力があると〈屁〉は(こきたくても)隠蔽できるわけだが、そもそも普段から〈屁〉は表に出すべきものではない存在だね。健康な若者は誰だって普通のこととして〈屁〉を我慢しているはずである。高い制御力を保持して自在に〈屁〉を我慢している(やたら人前でこかない)のが当然の、若者らしい態度だ。このように高い制御力を保持しているにもかかわらず〈屁〉を取り外してしまう粗相は不用意の極みで実に恥ずかしい。特に美男美女の若者が最も恐れることである。
誰だって美男美女は自他ともに完璧(高い制御力)が求められているから普段から〈屁〉などこかぬような顔をしているわけで、実際〈屁〉を人前でこかぬだろう。しかし、万が一〈屁〉を粗相しようものなら、美男美女は香ばしきあるまじき物体の発生元として羞恥の坩堝に突き落とされる。
このことからわかるのは、高い制御力を持つということは反面、マナー、道徳、仁義、常識、美意識、宗教などなど――人生や世間のいろいろな意味(観念)が絡まってきて、それを「要求されている」ということでもあるんだね。制御力とは単なる身体的の機能ではなく、それによって観念的な目標を(世間から)要求されていることでもあるのだ。要求に応えられぬ逸脱は恥ずかしいわけである。(まあ、要求レベルの低い醜男醜女の〈屁〉になると自他ともにどうでもいいレベルであり、一向に関心が持たれなかったりする…)
かくして人間の制御というものは羞恥に関与していることがわかるのだが、話をもとに戻そう。他人に侮辱行為をしようとするときには、自己の意識が高位でなければならなかったね。しかしこのとき、お尻を突き出していつもは恥ずかしく感じる〈屁〉をこくのである。では、何ゆえに制御力があれば〈屁〉は恥ずかしくないのか。
ときに恥知らずなヘコキ男というような人が世間にはいるね。そういう人は〈屁〉をこくときどんな様子であろうか。観察すれば態度振る舞いに「私はこれから〈屁〉をこきますよ〜」というアピールがある。端的な動きとしては、お尻を突き出すとか、片尻を持ち上げてみたりするのである。あるいは「ドッコラ〜ショ」とか「一発いかが〜」とか、聞く方が恥ずかしくなるような狂態のかけ声をかけたりする。
彼らはまさにこれから(自分の意思で)こくことを明示的にアピールしているのである。これはウッカリ粗相するのに比べたら恥ずかしくない。まさに制御力(ワザとやる)の誇示による無恥化なのだ。このとき〈屁〉は口笛がメロディーをコントロールするのと同じような扱いになっている。いやまあ、メロディーというわけではなく、ただ単に出すか出さぬかの制御なのであるが、もちろん〈屁〉で音曲を奏でられたら大いに自慢であろうさ。つまり、制御が精緻(完璧)になるほどに自慢であり恥ずかしくないのだ。
しかし繰り返すのだが、制御が崩れたとき(粗相)の〈屁〉はたちまち反動的に恥ずかしい。完璧であればあるほど、崩れたときの羞恥は極点をめざすことになる。全勝の横綱が全敗の平幕にスッテンコロリンと不様に敗れるなどは、最悪の恥ずかしさの極みであろう。制御には(制御できない→失敗するかもしれない、という)表裏の関係の危機感が常に張り付いているのである。意識的にも無意識的にも、制御力の強い人ほど強い失敗の危機感(羞恥の奈落)が潜在しているのだ。
ごく単純なレベルから、心身の制御というのは何かにつけ動物や人間を理解する原初的なキーワードなのである。それは些細なことでも、制御の失敗の危機感によって人間の羞恥にも関与してくる。制御できれば恥ずかしくはないが、制御できないと恥ずかしいという心的運動は表裏の関係で強くも弱くも機能している。
ともあれ完璧な制御を手にしていれば何事も恥ずかしくはない(はず)。いわんや〈屁〉においてをや。粗相した〈屁〉は恥ずかしいが、ワザとこく〈屁〉は恥ずかしくないのである。
さてさて、恥ずべき行為を侮辱へと転位させるためには恥ずかしがってはいられない。絶望的な状況の中で、新羅を侮辱した伊企儺(いきな)やニニギの命を侮辱した星神香香背男の行為は、まさに完璧な無恥化において遂行されねばならないのである。
そもそも異臭異音の〈屁〉は不快で無作法であるがゆえに嫌われ忌避される。それはまるで不浄で性悪な疫病のようにおぞましがられ、耳を塞がれ鼻を背けられ隠蔽される。人間の行為の中でも〈屁〉は(意味ありげだが)まったく無益に意味のないものであって、清浄で潔癖な精神性からは遠い遠い存在なのだ。(といって〈屁〉が塩酸か硫酸のような劇物であるかというと、実際にはそれほどのことはないわけで、大半は少々の異臭異音であるに過ぎないのだが…)
とにかくまあ、伊企儺や星神香香背男の追い詰められた状況下、そのとき所持している(意思的に制御できる)ものの中では〈屁〉が最も下劣なものであるには違いない。だから、そういうものを相手に投げつけることは侮辱以外の何物でもない。このとき平時においては単に無作法で恥ずかしい行為である〈屁〉が無恥化され、相手を脅かすものとなって位置づけられる。(相手もまたその状況下で最も下劣なものを向けられたと察知するのであるから、被害感をかき立てられる…)
彼らは十分な反撃の動機のもと相手を貶める強靱な意思をもって〈屁〉を制御するパフォーマンスを演じる。自己の意識の高位を不動のものとする核心的裏付けになるのは制御力の保持である。まるで〈屁〉を完璧にコントロールしているかのように振る舞うのだ。このとき動機・意思・制御は渾然となって自己の意識の高位を保ち、自分の〈屁〉を相手に叩きつける意味(侮辱)を持つのである。
そのときの自己の意識の高位とは、窮鼠が猫を噛むというのではなく窮地に陥った猫が反撃に一発放つて噛みつくような心的境位であろうか。しかし、現実の客観情勢は圧倒的に不利な弱者の立場にあり、反撃手段の選択幅は狭まって絶望的な手詰まり状態なのである。だがしかしその窮地ゆえに、相手を侮辱する手段として〈屁〉があやしい輝きを帯びてくるのだ。もうそれしかない(ように思う)のだからね。
かくして、この段階で〈屁〉が完璧な制御下にあれば〈屁〉は相手に対する侮辱行為として羽ばたくことができるのだ。これこそ(自ら恥をかくような行為で)相手に恥をかかせる究極の侮辱である。平時にそんなことをするのは絶対にありえない勇者や聖人であるような人が、あえてそれを行えば最大の侮辱行為として相手を脅かすのである。
──以上、ここまで理論的に説得しても決してそんなことはしない勇者や聖人はいるだろう。まあ、相手が嫌がるものをさらけ出して侮辱的に振る舞う場面はいろいろあるが、この場合は何しろ〈屁〉なのであるし、深刻さという点ではチト迫力に欠けるかもしれない。この世に完璧さというものはなかなか得がたいのだから、確かに〈屁〉による侮辱は物笑いの種になる余地を残すだろうねえ。しかしだね、そこで生まれてくる笑いがあるなら、それは世間に未練を残している凡人の証であ〜る。